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無自覚に自分自身を蔑ろにする人間

今日は、悟った覚者っぽく書いてみようと思います。

人間が他者に対して批判をする時、自分自身を蔑ろにしています。

外側に問題があって、相手に問題があって・・・

その様に考えている時、自分自身の中にある規定が問題の根本だという事を無視しています。

自分自身の問題を他者に転嫁している状態でもありますし、問題の本質を無視している状態でもあります。

わたし自身、これを経験してきましたから、よくわかります。

誰かのせいにしているうちは、根本的な問題解決には至りません。

家族の問題から、世界の問題まですべて一緒です。

この世界において、問題など一つもありません。

問題だと考える「私」がいるだけです。

問題だと考える「私」が他者を批判し、世の中を批判し、自分自身を省みることなく、衝動に流されている事にも気づくことはありません。

他者を批判したくなった時、人間は衝動のままに批判を行います。

衝動に流されている人間は、流される者が、藁をもつかむように思考として浮かんできたものを外に表します。

これが、批判です。

感情を伴おうが伴わなかろうが、批判する時そのような事が起こっています。

それに気づかないまま生きているからこそ、人間は、次の段階への進化を自分自身で止めているのです。

さて、ちょっと悟ったくらいでは、そこを抜けることはできません。

ある程度、意識の段階が進んでくると、批判は無くなっていきます。

今まで批判としか表せなかった事は、起こっている事を伝えるという所作になっていきます。

それでも、人間からすると批判にしか見えないかもしれません。

感情がのっているようにも見えるかもしれません。

少なくとも、自覚人は、感情を伴う表現に注意深くなっています。

自覚をするという事は、感情を恩寵としてとらえていることでもあります。

教えなくても、自然にそうなっています。

感情という恩寵を台無しにする人間

感情が現れた時、何かが触れ合っている事をあらわしています。

恩寵とは、機会でもあります。

その機会を不意にしているのが人間です。

これは感情だけではなく、瞬間瞬間すべての機会を言います。

本当なら、1年でできる進化を人間は1000年以上かけます。

本当ならというのは、自覚をするならという事です。

自覚が、本質的成長を起こすことは、わたし自身、検証し続けてきました。

師匠からの智慧も取り入れながら、わたし自身で確かめて、核心まで至っています。

(これは、わたしの話なので信じてはいけません)

人間は思考で創造するという機会を与えられました。

その機会すべてが何のためにあるのかを人間は忘れています。

創造する事に目が向ききった時、人間は本格的に迷子になったのです。


人間の想像物である思考

人間の思考は、無自覚に扱われています。

脳裏によぎった事

これが人間をかなりの割合で支配しています。

脳裏によぎる思考は、真実かのように、本人を操ります。

まるで、操る第三者がいるようでもあります。

自分の主権を持たないのが人間であり、人間の定義でもあります。

ふと浮かんだ考え、それに触れた瞬間、または、観た瞬間、同時に衝動が起こり始めます。

その衝動に無自覚に流され、その指令のまま行動している場面をわたしは、いつも見ています。

それがわたしへの批判であっても、おなじように、ただそれが起こっているように見えるのです。

機械的に、プロセスを見るだけですから、批判した相手を悪く思う事はありませんが、相手はそうはいかない事が多いですね。

批判という意見をくださっているだけですから、わたしは、それを見て、また、機会を得ています。

ですから、わりとありがたく感じているんですよ。

わりと・・・とつけるところは想像してみてください。

出来れば、穏便に意見が欲しいわけです。

しかし、人間の性を見せていただく、貴重な機会としてとらえていますし、捉えられるようなってからは、本当にこの世で生きることが、こんなに楽でいいのかくらい、人間的な部分が疑うほどです(笑)

ここまで読んでくださった方へ

ここまでも文脈から気付く方は気付くと思いますが、悟りに至るプロセスを知っている方はなかなかいないように思います。

しかし、わたしは、師匠に師事したことで、悟りが起こるプロセスを沢山見せていただきました。

そして、わたしは、悟るまでのプロセスを解き明かすために邁進してきました。

その結果どうなったかは、文脈で確信できるほどわかるはずです。

今一つ、わからない方は、疑っていてください。信じるよりはマシでなのですよ。

この文脈をなんとなくでも理解できる感性がないのなら、自覚をマスターする事が困難なのです。

ですから、疑いが晴れ、何らかの確信に至った方が来てくださることが、お互いにとって、悪くない縁となるのです。

その為の布石は沢山打っています。

誰でも来てほしいという、商売的考えは、自覚をお伝えし、結果に繋げるという必然から離れてしまうのです。

わかる方からわかっていく事で、流れが起きていけばよいと考えています。

その方を探すのがとても大変です。

ピエロのようになってみたり、優しそうなおじさんになってみたり、わたしの無理のない範囲という限定はありますが、ちょっと無理しているかもしれません(笑)

基本、本気モードなので、周りの方が火傷しない事を気を付けています。

悟ったかもしれないから、悟ったと言っている方々。

その方々が、悟りのプロセスまで行きつくことは、不可能だと、「わたし」が考えています

わたしが考えているだけですから、誰かを同じ考えにしようという意図は全くありません。

これを批判するなら、野暮という以外ないように思いますが、いかがでしょうか?

わたしが書くnoteは、すべてこのような心持ちで書いています。

ですから、それが誰かの内側に響く時、その方の智慧が、顕れるお手伝いになっているだけの事。

わたしが、何かを教える事はないという話は、たまにしていますね。

一応、「じゃー、なんで公に自分の考え晒してんだよ」と言いたい衝動に駆られる方への処方箋です(笑)


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