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正直者が徳を得る時代

「私」自身を知る自覚

それを実践し、意識を神の領域まで広げていく時に重要なのが、正直であることです。

他者に対してもそうですし、「私」自身に対してもそうでなければ、意識の領域は広がりません。

※意識の広がりと書きますが実際は方便です。意識を認識する広さ、次元が拡大する事を、意識の広がりと書いていて、普段もそのように話しています。

もちろん、わたしも普段からずっと自覚をしています。

そこで感じる事ですが、意識の深層に触れている時、自我の解釈が本質から遠ざけるという事です。

その自我の解釈を甘んじて採用するなら、本質から遠ざかります。

起こっている事を起こっているようにとらえられないでいるために、人間という段階から抜ける事ができません。

自分の意識の中で起こった事。

この取り扱いが、独学では、間違えるのです。

ちょっと難しいかもしれませんが、「自分の意識の中で起こった事」これだけで、様々な考え方があります。

そして、その考え方は、思考の傾向(癖)でもあり、心持ちでもあり、在り様でもあり、在り様は在り方から起こります。

これは、頭では理解できません。

なぜなら、そこを知らないからです。

わからない時、読み飛ばしてください。わからない事に付き合う必要はありません。

さて、正直者が徳を得るそれを正確にお伝えする事はとても難しいという事が伝わる方には伝わったかと思います。

まだ、説明を始める前の認識している範囲の前提を書いているだけなのですから。


と、いう事で、方便という言葉があります。

心の中で都合よく解釈する方は、本質をそのまま見る事から遠のきます。

出来たことにしたり、見えたことにしたり、在った事にします。

そして、それを騙ります。

世の中がおかしくなっている大きな要因でもありますが、これを伝えるのもまた、時間を要します。

それを説明をするなら、時間はかかりますが、自覚人に話すとしたら、1分もいりません。

なぜなら、自覚人は、自分の中で何が起こっているかを正しく知っているからです。

ここでいう正しくとは、事実をそのまま受け取り、自分の都合で捻じ曲げたり、無い事を有るようにしない、また、その逆をしないという事でもあります。

それをつづけることが、意識の深層にたどり着く最も大切な研鑽。

嘘をつかなければいいんだという単純な話でもありません。

塵のような甘えであっても、そこにたどり着くことを阻みます。

普段から嘘をつく方は、認識の範囲が狭い表れでもあります。

心の中も同じことになっています。

この辺についても説明を省きます。

マスターを目指す方にとって、ここは避けて通れないところです。

しかし、この部分がおろそかになっているために、その道を困難なものとしています。

自分にとって都合の良い解釈は、エゴにとっては気持ちよくても、思考停止を起こすことになります。

正直者とは、正直に何でも話すという事ではなく、「私」に対してありのままを受け入れられる方とも言えます。

ありのままで受け止めていると考えている方々も、都合よく考えているだけといっていいほど、そこには無自覚です。

それをお知らせし理解に繋がる事はありません。

自分で確かめてみるしかないからです。

確かめないまま理解できたと考えられるのは、自分に都合よく考えているからなのです。

これに気付いたら、愕然とするかもしれません。

しかし、ここを超えなければ(これも方便)、意識の拡大は起こり続けないのです。

個々の意識・・・というのも考えですが・・・

個々の意識が、無限に拡大していく事で、宇宙の統括者くらいにはなっていきます。

とりあえず、地球の統括者くらい目指してみたらいかがでしょう。

何億年かかるかわかりませんが、自覚をこの肉体を持った時期に実践するなら何億年が、何万年くらいになるかもしれません。

わたしは、そういった観点からお話をしています。

ですから、悟ったとか悟らないとかあまり気になりません。

世界の平和も、意識が拡大していくならその副産物でしかありません。

人間が求めるのはいつも副産物です。

しかし、その副産物が、意識の拡大を加速させる触媒にもなります。


という事で、わたしは多くの方が自覚をすることでどのような未来になるかを知っている者です。


さて、余談ですが、意識の拡大を止めた者がどうなるかを師匠が話していました。

それをここで書くことはしません。(内容は察してください)


正直なところ、多くの方にわかりやすく書く事はとても大変です。

沢山の補足が必要になるからです。

その補足をしている間に、本筋から離れてしまいます。


だからこそ、同じ景色を見ながら伝えるという事をしていて、その手前で、同じ景色が見えるところまで、まず、お連れするという事をしています。

本番はそのロケーションに共に立った時からになります。


人間の立ち位置では、理解できない事を人間は理解しようとし、理解した気になります。

それは、理解ではなく、囚われをつくっただけなのです。

これを感じ取るなら、自覚をしないという選択は無いのですが、あなたはいかがですか?

正直者は徳を得る

そんなタイトルでしたが、タイトルと合っているでしょうか?

理解したという囚われですが、それは、無自覚な嘘なのです。

単に正直で居ようというのも、無自覚な嘘の中で行われます。

そういった人間がつくる社会に我々は生きています。


また、徳を得るという事ですが、徳が高まるという事は、意識の段階が高まる事と同義です。

意識の拡大と意識の高まりは同じです。

仏教では、その方便として、「徳」と表現しました。

徳は積むモノですが、それも方便で、なるべく本質に近く書くなら・・・

認識の研鑽を通して、認識自体の次元を増やし、解像度を上げ、意識の中で起こっている事を深く広く、次元を超えて認識の範囲を広げていく事。

それは、まさに、自覚が起こった時に同時にある事なのです。

どんな修行であっても、修行が進む時自覚が起こっています。

その自覚を直接的に起こしている、起こしていくのが、自覚人です。


ですから、他のなにかと自覚を比べようもないのです。


達人たちを達人たらしめる過程で起こっているのは自覚です。

それに人類が気が付かない限り、この世は終わりに向かいます。

大っぴらには書きませんが、ノートはあまり読まれないので書きました。

とても重要な事だからこそ、丁寧に伝える必要があります。


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