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宮﨑駿と、老いと、ものづくりと、自分と、

定年後クリエイターの使い道:4

NHKの宮﨑駿のドキュメンタリー見た。凄かった。
番組としての構成も巧かったし、取材も素晴らしかったけど、テーマの絞り込みがすごく響きました。

ものをつくる仕事はつまり自分そのもので、それは生き続けることでもあり死ぬことでもある。つくるってことは自分を見せる、晒すことなので、こんな辛いことはない。(僕なんかが言ってしまうと陳腐に聞こえてしまうが)

若いうちもわかってはいるんだけど、歳を重ねるにつれてそれがどんどんリアルになっていく。なんか形を持ってくるイメージ。

番組の中で多く「老い」という言葉を使っていて、そりゃ80過ぎてんだから老いてるのは当たり前なんだが、作り手としてずっと神様みたいに思ってるこっちからすれば、そんな年齢なんて関係ないように見える。老いた、鈍った、って言われても「またまた〜」って言うしかない。疲れた、めんどくさい、ってのには激しく共感したけど。

そんな自分とどう折り合いつけてくか、ってことをずっと見せていた。変わらない(と言うか変えられない)自分。だから作らないと生きてることにならない、生きてる意味そのものと知りつつ、今までと同じようにできなくなっていく自分。

普通ならそこに焦りや諦めがあって「それに立ち向かう」みたいになるんだけど、それは全くない。立ち向かうのは最初っから立ち向かってるんで、今さら何も変わらない。笑っちゃうくらい変わらない。

過去の作品もすべて自分を描いていた。(描くと言うか晒すと言うか)改めて過去作と彼の言動をシンクロさせる構成で、そこがすごくよくできていた。作品の中に現実があって現実は虚構だって。この境地には憧れるけど、僕らには到底目指せるもんじゃない。目指すだけで死んじゃうレベル。

比べるものではないけれど、何かをつくる、という仕事をしてるという共通点だけはあって、歳を取ってきた、というとこだけは彼に近づいている。

監督に引退なんてない。って高畑勲さんが言っていて、宮﨑さんは引退するんだけど結局引退できない。側から見たら迷惑な爺さんだけど「生きてることイコールものをつくること」な人に取ってみれば引退は死ぬことなので、辞めたいけど死ねない、だから作り続ける。というのはよくわかる。

その次元に行けない僕らはとっとと引退すればいい。なのに引退できないでウジウジやってるのは、すごく低いレベルだけど同じようにつくることと生きることと重なってるからだと思う。

事前にこの番組見てたら「君たちはどう生きるか」のこと、簡単に批評とか批判とかできないよね。彼と作品が「同じもの」だと気づいてしまうので。あなたはあの人生を簡単に否定できる人間ですか?って思ってしまう。

それでも作品は人に見てもらって初めて完成するものなので、面白くないと思う人がいるのは当たり前で、それを作った人がどんな素晴らしい人でもつまんないと感じるのは自由。とは言え、作った人がそもそもつまんない人だったらそこから面白いものが生まれるのはほぼ不可能。(たまたまはある)

自分が定年後の半分引退みたいな感覚にいる中で、それでも生きてて「なんかめんどくさいなあ」と思いつつ「なんか作んなきゃ」と思ってるのはまあ間違いではないんだな。と思わせてくれた番組でした。

なんとかしなきゃなあ。
続きます。


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