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言語化の逆ってのもあると思う。

言語化というものを言語化してみる。:3


今日も飽きずに一つ言語化の話を。

前にも言ったけど、言語化って言い換えなので、実は視覚なんかでも結構乱暴に言い換えたりしています。実は別のものを言葉で固定するっていうのはかなり無理がある。僕が曖昧だと思ってるのは、例えば色の表現ですね。

赤という色があったとして、イチゴを見てこれは赤いな。っていうのは誰でも思うけど、イチゴの赤とトマトの赤は実は同じ色ではない。美大で色環、っていう色のサークルみたいのを習うんですけど、赤橙黄橙…ってぐるっと回って元の色に戻る。つまり赤っていう色は一つではなくて赤と呼ばれるゾーンの中の1ポイントにすぎない。人間が勝手にここからここまでの範囲を赤と呼ぶ、って決めてるだけなので、イチゴの赤はそのゾーンに属しているに過ぎない。というわけです。

こういう色の決め方は長い歴史の中で決まってきたものなので、昔はなかった色の呼び方が新しく加わって変わってきた、ということもある。意外なのは、緑、という色がそんな昔からあった色じゃないらしくて、昔は緑、という言葉がなくてそれも含めて青のゾーンで認識されていました。だから青々とした森、とか言う。実は今でも緑の信号を青信号って言うし、意外に根深いのかもしれません。

個人的な話でアレなんですが、僕は子どもの頃から、いろんなものに色を当てはめて感じる癖があって、本当に何にでもで、文字にもそれぞれに色がある。わかりやすく言うとそれぞれのものに勝手にイメージカラーを持ってる感覚です。「あ」はオレンジで「い」は白で「う」はピンクで「え」は紫で「お」は深い赤。みたいなことです。これは数字でもそれぞれに色があって、人にもそれぞれ色があります。これがその時その時で変わるわけではなくて、いつも同じ色を持っている。

自分でも変だと思うのですが、餃子を食べてニンニクが効いてたとき、あ、白い、って思ったりします。この場合は味覚と色が紐づいてるみたいです。ちなみにこの白は真っ白ではなくて黒が2%入った白で、少しパールの光沢がある、みたいに実は微妙で、味もただのニンニクの味では思わなくて、ちょっと生っぽくてピリっとしてる時のみ感じるものだったりします。何言ってんだこいつって感じですよね。

だけどこれ、別にスピリチュアルな話ではなくて、色の共感覚っていうもので何人に一人、って割合でそういう感覚を持っている人がいるそうです。で、これがあると天才とか、そういう話では全くないらしいです。

何でこんな話してるかと言うと、この感じ、すごく言語化に似てるんですよね。いろんなもののイメージを他の感覚に置き換えている。色というものを使って感覚を変換して固定化している作業。色を言葉の代わりに使っているみたいなことです。惜しむらくはこれが個人的なもので、他人と共有できないのでコミュニケーションには使えない、ということです。

ただ、記憶にラベルを貼ることができるので、何とかさん、ああ、緑の人ね、って自分の中では感じたりしています。
これってなんか言語化の逆ですよね。何かの感覚を変換して言葉にするんじゃなくて、言葉の感覚を変換して色で記憶している。つまり伝えたいことをわかる形に変換する方法は言語化だけじゃないってことです。まあ、一番効率的で使いやすいのが言語化ってことだとは思います。

世の中には言葉にできないものがいっぱいあって、それはそれで素晴らしいことだと思います。言葉にできない景色、とか、言葉にできない愛情、とか。それは多分、無理に言葉にすると陳腐になってしまう。言葉にしなくても記憶に残ってるものっていっぱいあって、そういうものに実は匂い、とか、音楽、とか、体温、とか、別の感覚が紐づいていることは多いです。もちろん、忘れられない言葉とセットで残っている記憶もあります。なんか面白いですね。

今お話しした話は、特に学術的裏付けとか、参考にした論文とか、あるわけじゃないので、まあそれこそ僕の記憶だけで捻り出した話なので、あくまでも感覚的に捉えていただければありがたいと思います。今日の話は以上になります。ではでは

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