見出し画像

『シン・ファイヤー』 断層の先に手を伸ばす苦しみ

 すごい共感できる部分と、ツッコミしたい部分とが同居していて、結構感情が上下する本である。

シン・ファイヤー,稲垣えみ子、大原扁理著,ボイジャー発行,2024年刊行

 稲垣えみ子さんと大原扁理さんという、今現在の日本の「小さな生活提唱者」二大巨頭の対談本である。FIREにからめて、「お金から解放される本当のファイヤーとは」というテーマで二人が語っていく。

 結局のところ「お金」や「自力」に一点賭けして生活を成立させようとすれば、どんなに大金を作ったところで安心は得られないし、第一そもそもそんな大金なんて普通作れないよ、という、シビアな真実を前提に、
「(家電やら外部サービスやらに依存せず)自分で家事ができるようになろう」
「他人に親切にしよう。それが本当は金銭よりも強い価値だから」
という軸で二人が丁々発止のやりとりをする。
 とても面白い。

 一点、最初に書いておくけれど、この本は(電子版だけなのかどうかわからないが)最近の自己啓発・ビジネス本によくある「ここが大事ですよってところはあらかじめマーカー引いておきました」というレイアウトになっていて、このマーカーが正直、すごく目に邪魔である……(涙)。編集者の好意はわかるのだが、マーカーはなくしてほしい。まあ、自分もnoteに太字を入れたりするから、アレなんだけど。

★★★

 家事と親切があれば、実は豊かに楽しく生活していくことができるのだから、お金で全てを解決しようと必死になって心身を削ってしまうくらいなら、そこにしがみつかないで。
 自分で自分のささやかなごはんを作って食べて掃除して周りの人に親切にして生きれば、何とかなる、後の全ては人生の「オプション」でしかないんだよ。
 という二人の価値観と結論には、共感するところが多い。
 特に「冷蔵庫、病院、会社は、〝価値を貯めておく=永遠の命を得られる〟と勘違いさせるという点で共通している」という指摘には、結構唸った。

 ただこの本の結論には大賛成しつつ、乗り切れない部分が結構あったのも事実である。
 私がこの本の結論に賛同できるのは、もともと同じような価値観を持っている人間だったからだ。
 そうではない価値観を持っている人だったら、これを読んで変わってくれるという確信が、正直持てない。新しい発見ではなく、自分の価値観を再確認したという感覚になってしまったのは、何とも複雑な気分である。

 その原因はやはり、対談している二人が、細部に違いはあれど、結局のところ割と同じ方向性のライフスタイル・価値観を共有していることにあると思う。
 編集者も含めて、お互いの意見や選択に対して「それには賛同できない、それじゃダメなんだ、こういう理由で私はそれじゃ救われないんだ」というツッコミを入れる場面がない。
 もっとも、本当にそんなツッコミを入れていったら、果たして話がまとまったのだろうかという現実的な心配はあるのだが。

★★★

 読んでいて私がいちばんしんどいなと思ったのは、稲垣さんが語る、

 テレビのドキュメンタリーで観たのだが、シャネルに所属していたカール・ラガーフェルドのオートクチュールのコレクションが、ショーでモデルが着ていた時には夢のようなものだったのに、後日お金持ちの顧客が買って着ている姿は全然似合ってなくてあの輝きがなかった。

第5章「働く」と「稼ぐ」を再定義する 「土日がなくなる」パートから、私が勝手に要約

というエピソードだった。
 お金を積んだっておしゃれにはなれないよ……というところから、お金で解決できるものには限界があるのだけど、なまじお金があるとそれで何でも解決しようとしてしまうのが危ない、という話である。
 その結論自体は、非常に理解できるし頷く。

 だが、これを読んだ私の感想は、
「自分のお金で好きに買った服を着て、こんな風に他人から『似合ってなくて可哀想』ってジャッジされるのって、すっごくキツいし、嫌な話だな」
というものだった。
 いいじゃん、似合ってなくたって、それで自分が楽しければ、心躍るなら。「シャネル着ている私は素晴らしいけどユニクロのあなたは格下」みたいな発想に進まないのなら、プロのモデルみたいな輝きがなくたって構わないではないか。
 稲垣さんはずっとピアノの練習をなさっていて楽しそうにその話をするのだが、もし誰かから
「あなたの下手な演奏ではピアノが輝かなくてショックを受けた。プロに演奏を任せてあなたは弾かないことを、ピアノもベートーヴェンも望んでますよ」
と言われたら、相当不快ではなかろうか。
 私だって、「あなたの馬鹿舌にはMINIMALのチョコレートは勿体ないから、あなた以外の人に食べてもらった方がチョコのためじゃないですか」とか言われたら、真実だろうけど、泣きながらグーでパンチする。

 こういう「あなたにはそれを使う価値はないので、もっとふさわしいところにそのリソースを分配すべき」という視点は、一歩踏み間違えると割と深刻な差別や他者否定になりかねない。
 そもそもかつての社会では、「あるリソースが与えられるか否かが、自分の左右できない何かによって勝手に決められる」という不平等が横行していた。「鹿の子絞りや紅花は、身分の低い庶民は禁止ね」なんてのがまかり通っていた
 お金で買うという行為は、そういう理不尽な強制に対するひとつの是正である。自分のお金で買ったなら、他人にそれをとやかく言う権利はない。身分が低いとかスタイル悪いとかIQが低いとか身の丈に合ってないとかそんなのは関係ねえ!!いいんだよ!!と言える。というのは、ひとつの大切な自由だと思う。
 お金で買うしか自由の道がないとなるのは、それはそれでまた悲惨な問題であり、稲垣さんも大原さんもまさにそれを言及している訳だけど。

★★★

 だが、私には稲垣さんがこういう発言をしてしまった理由も、よくわかるのである。
 稲垣さんは本当は、シャネルの服を着ていたお金持ちをとやかく言いたかったのではなく、本当に批判したかったのは、「おしゃれにお金をかけることで幸せになれると勘違いしていた過去の自分」なのだと思う。
 人間、自己対話を始めると妙に攻撃的になってしまうもので、その流れで「過去の自分と同じような失敗をしそうになっている別人」を目の当たりにすると、勢い余って日本刀で斬って捨てるみたいな暴走をしがちである。
 もしこのエピソードが、
自分がシャネルを着てみたらガッカリするほど似合わなくて、お金じゃ幸せになれないと自覚した」
という文脈で語られていたら、素直に受け止められたと思う。そしてたぶん、稲垣さんの中では「テレビに映っていた似合わないお金持ち」は完全に「過去の自分」とイコールなので、ああいうちょっと露悪的な表現になったのだろう。

 でもねぇ、そのふたつは、やっぱり違うのだ。過去の自分と同じ失敗をしている(ように見える)他人は、自分じゃないので。そこには別の文脈があり、必要性があり、心の動きがあるので。
 それを考えるのはとても難しくて、自分に深く関係する要素であればあるほど切り分けて考えるのって聖人並みの心的能力が必要になるので、こういうミスをおかしてしまうことを、安易に責めることはできないのだが。

★★★

 こんな感じで、読んでいてずっと
「過去の自分と同じような失敗をしている(しそうな)人々に、何とか違う道があることを伝えたい」
という、泣けるほどに共感する祈りを感じながら、
「でもその人がそういう行動をしている理由は、過去のあなたとは違う(こともある)んですよ。だからその理屈では説得できないんですよ」
という、もどかしさを覚えていた。

 たぶんこの本に足りないのは、稲垣さんにとってのピアノ、大原さんにとっての読書や翻訳と同じ、「逃避でもなくマウント取りでもなく洗脳されている訳でもないが、それがないと生きてる意味がない何か」を持っていて、「でもそれは、事実上(たくさんの)お金がないと得られない」——という境遇の人の心の内に、説得やジャッジから遠く離れたところで、ゆっくり丁寧に分け入っていく、時間のかかる試みなのだろう。

 ブルシット・ジョブに関係する本を読んだ時も感じたのだけれど、人間は驚くほど似ているところもある一方で、無限のバリエーションを持っている部分もあるから、他人があんまり感心しない行動を取る理由は、「広告に躍らされてるから」「社会に強迫されているから」「資本主義に毒されているから」といった原因で綺麗に説明できるとは限らない。
 説明できることも結構ある、というのが厄介なところなのだが、「これも、あれも、それも説明できた、だから他のも説明できるんだな」と思ってしまうと、あるところで急に断層に引き裂かれたみたいに、理解と善意と親切が届かなくなる。

 ごはんと味噌汁とお漬け物を整えて部屋を掃除して近所の人に親切にして本やピアノを楽しむ豊かな生活で、しかし満たされない人というのはたぶん存在する。
 なぜそれだけではだめなのか。その理由を、資本主義や社会の抑圧で納得して終わらせないということが、シン・ファイヤーには必要なのではなかろうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?