【読書1】宇佐見りん『推し、燃ゆ』〜オタ活の話より、主人公の障害によるつらさが気になってならない〜
文藝春秋で芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』を読む。オタ活小説と聞いて読み始めたのだが、障害を抱えた主人公のつらさが身に染みた。自助や自己責任がもてはやされる今、この作品はオタ活小説というラベリングで終わっていいのかー。そんな読後感をまとめた。
(※ネタバレあり)
宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読んで
芸能人アイドルを応援するオタク活動を描いたものとして報道された小説だが、オタ活の描写自体は私には想定の範囲内に過ぎなかった。まあそんなものだろうという感じ。芥川賞選考委員の先生方のコメントを読むと、オタ活の描写を絶賛されていて驚いた。私自身がオタク寄りの人間だということだろうか。それとも世間ではオタ活はさほど認知されていないのか。
この小説で私が驚いたのは、オタ活よりもむしろ、主人公の女子高生が発達障害で苦しむ描写だった。小説では具体的な障害名は書かれていないが、おそらく学習障害か何かだろう。主人公は小学生の頃から、いくら練習しても漢字を覚えられない。飲食店のバイト先では、簡単な指示を何度言われても忘れてしまう。
特に驚いたのは、漢字を書けないのに、主人公の書くオタ活ブログの文章が実に見事なことだ。主人公は卓越した発信力で、同じ推しのファンの間(SNSコミュニティ)で高い評価を得ている。しかし、リアルな生活では障害ゆえに、あれこれがうまくいかず、疎外されてしまう。このギャップはなんなのだろう。
主人公は成績不振で進級できなくなり、高校中退を余儀なくされる。バイトもクビになる。両親にさえ見放され、家を出て、一人暮らしを始める。しかし、就職しようにも、障害のためにうまくいかない。さらには、肝心の推しも不祥事で芸能界を引退してしまう。
なんとかこの子を救えないのかーー。そう感じたところで、小説は終わってしまった。
こういう障害は目に見えず、わかりにくい。”生きづらさ”という曖昧な言葉で片付けてほしくない。障害を本人の努力不足のせいにしたり、家族だけにそのサポートを押し付けたりするのでは、誰も幸せになれない。単なる甘えと切り捨ててほしくない。
この障害は風邪薬で消え去るようなものではない。社会的な関わりの中で、障害とともに生きていける仕組みが必要だと思う。それなのに、それなのに、この主人公は完全に孤立したところで話が終わってしまった。
総理が「最終的には生活保護がある」と言った社会に私たちは生きている。自助や自己責任という言葉がもてはやされる。そんな時代の空気の中、主人公への共感は生まれるのだろうか。今だからこそ、この作品は単なるオタ活小説というラベリングで終わってほしくない。
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