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「自分の仕事が誰かに届いている手応え」を感じられなくなった頃のこと。

1月14日。

ついさっきまで商品の梱包&発送の仕事をしていた。

2022年6月にオープンしたオーガニックヘナ&ハーブのお店、KAMI.llc。おかげさまで少しずつ利用者さんが増えてきています。ありがとうございます。

*オーガニックヘナ、とてもお勧めですよ
 (私のオーガニックヘナの体験談を貼り付けておきます)

今いちばん楽しいのが、商品の発送。

段ボールを組み立てて、お客さんのことを思い浮かべながら商品を詰める。
「このヘナが、◯◯さんを美しくし癒してくれるといいな」なんて願いを込めながら、お一人おひとりに発送をしているわけなのだけど、地味に見えるこの作業をしている時間が、とても心地いい。

一つ梱包するごとに、受け取ってもらえる「誰か」がいる手応え誰かに「届ける」ことができている手応えが少しずつ溜まっていく感覚。
これがたまらなく幸せなのだ。「手応え」が得られることで「必要としている方に届くようがんばろう!」と、次への意欲が生まれてくる。

「手応え」の意味をひいてみると、

手応え
打ったり突いたりしたときなどに手にかえってくる感じ。「打った瞬間にホームランの―があった」「確かな―」
コトバンク:手応え

とあったけれど、手応えって、身体をとおして得られる感覚。
いや、もしかしたら、身体をとおさないと「手応え」は感じづらい(感じられない)のかもしれない。

私は、少し前まで書籍編集者をしていたのだけど、当時の仕事は本を「つくる」こと。

編集者の仕事のメインは、印刷所にデータを送るまで。
印刷されて、製本されて、形になって。
出来上がった見本誌を、著者や制作関係者に渡したりはするけれど、お客さんに届けるのは、基本的には営業担当者や取次店、お店任せ。

もちろん、つくった本に関連したイベントや読書会をしたりすることもある。本の向こう側にいる読者の皆さんと会う機会だってゼロではない。

だけど、つくりおわったら、またすぐ次の本をつくり始める……というのが基本的な編集者の仕事だった。

私は少し前に10年勤務していた出版社を退職したのだけど、きっと、このくり返しに疲れきってしまったのだろう。

正直なことをいうと、、、
私は、あるタイミングから「自分の仕事が誰かに届いている手応え」を感じられなくなってしまった。「この本、誰かの役に立っているのだろうか」と、自分の仕事に疑問を抱くようになってしまったのだ。

本をつくる作業って、意外と過酷だ。
書くのも大変なのだけど、読んだり、編集したりするのも結構しんどくて。
特に辛いのは、校了間際の校正作業。印刷所へのデータ入稿という、タイムリミットが迫るなかで10万字を超える原稿を読み込んで、誤字脱字をチェックしたり、少しでも誤解なく伝わるよう表現を精査したり……。
人が本当に深く集中している時って、本当にご飯も、睡眠も要らなくなるのだなと、身をもって体感。ああ、思い出すだけで疲れてしまう。

著者も、編集者も、なぜそんな過酷な仕事を乗り越えられるのかといえば、ある種の「使命感」があるのだと思う。

「誰かと分かち合いたい!」
託されたバトンを渡すかのように本をつくるわけなのだけど、

……私は一体、誰にバトンを渡しているのだろうか?

そんな疑問にはじめて駆られたのは、2017年頃だったと思う。それ以前も色々やっていたけれど、ちょうどその頃から編集者以外の仕事にたくさん取り組むようになった。

*「やったこと」の詳細は、こちらの記事にて(参照:Y:やったこと)

そして、徐々に「編集者」という肩書きだけでは自分の仕事の全てを語れなくなり「編集者/ファシリテーター」と名乗るようになった。

「色々なことをやっていてすごいね」
なんて言われたりしたこともあったけれど、こちらも必死だったのです。
On Goingで「本づくり」は続いていくけれど、そこに納得感がなければ動けない。そして、納得感を得るためには、どうしても「手応え」が必要だった。誰かが受け取ってくれたという「手応え」が。

その場で手応えが得られないのであれば、感じられる場所にいけばいい。
その場がなければ、自分でつくればいい。

……と思って、いろんなことをやってきた。
さまざまな場で起きた出来事、経験は、私のなかにたしかに息づいている。

そして、一つ気がついたことがある。
このままのサイクルのなかで、私は、自分が望むような納得感をもったまま、「手応え」を感じながら本をつくることはできそうにない

なんだかんだで、多くの出版社では「数字」が物差しになる。極端にいえば、売れれば正義。売上をあげている限りは、よほどのことでなければ何をしていも許される。会社員でありながらも、いわゆる会社員以上の自由を与えられる。
売上は大事だ。数字を無視していいとは、これっぽっちも思わない。数字をシビアに見ないと、多くの関係者を路頭に迷わせることになる。
だけど、数字をあげるために売上を積み立てる活動には、熱中できそうもない。本を売るのも、売上をあげるのも手段であって、目的ではない。

だけど、いつのまにか手段が目的化してはいないだろうか。本の価値を、貶めてしまってはいないだろうか。

少し単純化し過ぎているところもあるかもしれないけれど、こうした傾向が本を取り巻く世界で起きている。

そんな風潮のなかで、どうするか。
別の道を歩むか……とも思ったけれど、道を離れることはいつでもできる。ならば離れる前に、いったん自分なりの仕組みをつくってみよう。
そう思って、今、出版社立ち上げに向けていろんな作業を積み重ねている。

今日もいくつかのMTGと、情報収集、考える作業、書く作業などをしていたのだけど、結局、私がいちばんほしいのは「手応え」「納得感」なのだろう。

なぜ挑むのか、と言われる。
人を敵に廻し、損じゃないか、と。
常識人なら当然そう考えるだろう。
だがぼくは闘うことによって、
相手を手ごたえとして掴みたい。
それが架空の敵でも、
そう設定し、ぶつかる。
自分の精神のまとを絞り、
人と向きあう。
それは自己確認でもあるのさ。
岡本太郎『壁を破る言葉』

産みの苦しみも、分かち合う喜びも、時に今あるシステムに仕組みに噛み付く勇気も、全身で、思いきっり感じきる。それさえできれば、私はもう満足なのかもしれない。

ただ、今は、まだまだその環境がつくれていない。
このままじゃ死ぬに死ねずに怨霊になりそうだから、もうちょっとがんばりますか。

そんな2023年1月14日。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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