私が修行をつづける理由。
1月12日。
note更新12日め。
今日は、色々あった。本当に色々ありすぎた。
こんなときは「日常こそが修行だな」と本当に思う。
11泊12日の瞑想合宿や、山伏の修行やら、私は修行の類が好きだ。
マラソンやランニングも、ある種の修行かもしれないし、他にも、ヨガや瞑想、読経も日々続けている。
修行だからこそ「しんどいな〜」というタイミングはある。
特に10日の瞑想合宿は「辛い」「苦しい」「しんどい」の連続だった。
BODY/MIND/SPIRITすべてにおいて、とてもゆたかな時間ではあったのだけど、何度リタイアしようと思っただろうか。
だけど、この瞑想合宿も、また1〜2年のうちに参加したいと思っている。
苦しいことも、辛いこともあるのに、修行の場にまた行こうとするのか?
どうして私は修行を続けているのか?
その理由の一つは、修験道の考える「行」の考え方。
私は山伏の修行をしているのだけど、山伏には「山の行」と「里の行」がある。
「山の行」は、山に入って、山から学ぶ修行。
「里の行」は、山に入っているとき以外の全ての時間における修行。
「山の行より、里の行」
と言われることもあるのだけど、
「山で身につけたことを、里で実践してこそ」の山伏なのだそう。
修行はしんどいこともある。
だけど、里の行のほうが、ずっと辛いし、しんどいことが多い。
どれだけ言葉を尽くしても、分かり合えないもどかしさ。
とても大切な人だけど、それでも別れなければいけないとき。
目の前で起こるさまざまな悲劇に対して無力感を覚えるとき。
小さな変化を積み重ねても、根本的には現実を変えられないと感じるとき。
「もっと力があれば…」と、自分の力不足を痛感するとき。
「うまくいっていたはず」のことが、急に足元から崩れ落ちるとき。
ああ、思い出しただけでも心臓がワサワサしてくる・・・
だけど、こういう日常のピンチでこそ、日ごろの修行が試される。
山で学んだことを、私は生かせるだろうか。
瞑想で得た智慧を、日常に持ち込めるだろうか。
マラソンで鍛えたレジリエンスを、逆境のなかで発揮できるだろうか。
たいていの場合はスマートに立ち振る舞うなんてことはできなくて、ボロボロになりそうなほどに傷ついたり、影で泣いたり、「ぐわーーーーーーーー!!!」と声にならない声をあげたりすることもあるのだけど。
それでも、時に逃げたりしながらも、なんとか目の前の現実を生き切る。
どういう因果か私の手元にやってきた「大切な仕事」を形にする。
辛くても、苦しくても、なんとか1日を終える。
そんな不格好な日常こそが、いちばん大切な「修行」なのでしょう。
「日常こそが本当の修行である」
それに気づけるのは、非日常があってこそ。
山とか、禅堂とか、瞑想センターとか、日常とは隔離された場所で行う修行の意義って、この事実に気づくためにあるのかもしれません。
ところで、空海さんは、「修行」についてこんな言葉を残している。
日常のために修行をする。
そんな日常も、また修行である。
そんな日々が「清らかで綺麗な明るい心」へと、私を近づかせるのだろうか。
今日の修行は、だいぶ刺激的だったので、あわよくば明日の修行はちょっとお手柔らかにお願いしたい。
(カバー写真は、初めて山の修行に行ったときのもの)
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