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意味はないけど醍醐味はある?ータイの高校で日本語を教える

10月末に前期の期末テストが終わった。

駆け込むように宿題を提出させ、追試をさせ、なんとか1人も単位を落とさずに済んだ。

前にも記事を書いたことがあるが、みんながみんな日本語が好きとか得意とかいうわけではなく、半分ぐらいの学生は消去法で日本語を選んだような学生たち。
学習障害を抱えていたり、そもそも勉強自体が苦手な学生も多い。

合格ラインに届かない学生を無理矢理呼んで、ただ単位を与えるためだけに日本語を勉強させるのは、仕方のないことだが毎度毎度虚しい気持ちになる。

私は何のために、日本語を教えているのだろう?

タイの高校で日本語を教える意味

「日本語の習得」という意味においては、残念ながらほとんどないと言っていい。卒業後、大学の日本語学部に進学する学生は、1クラスに5名いれば御の字。(ちなみに今年は2名だった)

しかもいくつかの有名大学以外は、初級文法から(最悪、ひらがなから)勉強するため、私が3年間で教えた文法なんかほとんど意味がないと思っている。

3年間勉強しても、JLPT(日本語能力試験)のN5(一番下のレベル)に合格できない学生もいる。日本語学部には進学しないながらも一生懸命日本語を勉強して、いい成績を修めていた学生だって、卒業後に会うとほとんど忘れているのが現状である。

タイの高校で日本語を教える醍醐味

お年頃の学生に3年間、ほぼ毎日がっつり関われること。
これは今の職場の1番の醍醐味である。

ひらがなから勉強し始めた学生たちが、卒業する頃には日本語でどうにかスピーチができるようになる。すぐに忘れてしまうとわかってはいるが、日本語の上達を1番近くでじっくり見られるのは至上の喜びだ。

運動会や文化祭など様々な行事で、人間的な成長だったり、日本語の授業では見られない一面を見ることもできる。学生たちが成長していく姿は、いつだってキラキラと眩しい。

本当に意味がないのか?

去年、卒業した学生たちが学校に遊びに来て、こんな事を言ってくれた。
「私はもう日本語は勉強してないけど、日本語のクラスでたくさんプレゼンテーションやって鍛えられたから、今、大学のプレゼンテーションでいつも褒められるし、成績も一番です。日本語のクラスで勉強した事は、今でも本当に役に立っています。」

もちろん全部タイ語だったけど、この言葉を聞いて、嬉しくて思わず涙ぐんでしまった。私がやっていることは、意味がないわけじゃないんだな。一筋の光が見えた気がした。

それ以来、プレゼンテーションの指導にはより重点を置くようにした。なるべく大学生活や、今後の人生に役立つことを身につけて欲しい。

タイの高校で日本語を教える意味が「日本語の習得」ではないならば、「全人教育」的な日本語の授業のあり方をもっと考えていった方がいいのかもしれない。

そうすれば、学期末の虚しい気持ちも少しは和らぐのではなかろうか。

そんなことを考える長期休暇の初日。




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