演じることと自分を生きること

いままでの自分の感覚に疑問を持つようになる

私は役者だ。22歳から日本の小さい劇場の舞台に立ってきた。現在46歳になる。

自分の演技に疑問を持ち、演技訓練をはじめて3年ほど経っただろうか?やっとここまで来て、「今まで自分は「役を演じる」ということを全くと言って良いほど理解していなかった!」と肚の底から言える状態になってきた。

それまでは、今まで自分が「これが演技だろう」と思い込んでいるフィルターを通して訓練していたので、訓練していることと過去の自分の演技の違いが見えていなかったのだと思う。

舞台歴が長く、年齢も若くない私は、思い込みも強固なものになってしまっていたのだろう。

それに気付きはじめると、自分の演技だけではなく、日常生活での自分の在り方にも疑問が出てくるようになってきたのだ。

それは今まで知らなかった未知の世界が、自分のなかに「ふっ」と舞い込んでくるような穏やかだけど小さな小さな衝撃の連続。それは小さな小さな喜びの連続でもある。

人間は不思議なもので新しい感覚(体験)に対してネガティブな割には、一度、それが快感と思えると「もっともっと!」と探求したくなるもんだ。

なぜそう言うのか?

もう既に私自身が、この小さな喜びを「もっと欲しい!」とからだで欲しはじめているような気がしているからだ。


からだの緊張(頑張って力が入る)が自分の世界を狭くする

私は脳科学者の茂木健一郎が好きなのだけど、茂木先生もリラックスすることで脳のパフォーマンスが上がることを言っている。

頑張ることで緊張した部位は感覚が鈍くなるようだ。例えば、なにか怖いことが起こったとき。からだをキュっと縮こませるのも、からだの感覚を鈍らせて恐怖を感じないように身を守っているのかもしれない。逆に楽しくてリラックスしているような安心感に包まれた時間は、周りにあるものがよく見えるし、感じられる。感覚が開いて周囲のものを感じ取ろうとしているようにも思える。

からだが緊張すれば呼吸も浅くなり、血管も細くなり、隅々の細胞まで酸素、血流、リンパなどが行き届きにくくなる。併せて言えば、それらの流れと一緒に外の刺激(体験)も流れにくくなる。それを思えば、からだ全体の働きが悪くなるのは容易に想像できる。

からだがリラックスして緩んでいれば、当然、緊張と逆の状態になる。からだの隅々に色々なものを感じ、流れ、廻っていく。

この違いを考えればすぐに「なるほどなぁ」と思えるのだが、私にはずっと「頑張って結果を出すことが素晴らしいこと」という概念があった。そのため演技訓練のなかで身体をリラクゼーションさせるものがあるのだが、一向にからだを緩ませることができなかった。

訓練していても「頑張って習得しなければ」というスタンスで臨んでいたため、常にからだは緊張している。そのため外からの刺激(情報や体験)を体内に取り込めない状態だったように思う。

訓練をすることで「今までの自分の演技とは違う新しい感覚」を掴もうとしているのにからだを緩められない私は、新しい感覚をからだのなかに取り込むことが出来ずにいた。

結果、既に自分のからだの中にある感覚や思考のなかで「新しいものはどれだ?」と必死で探していて、出口のない底なし沼にハマったような状態になっていたように思う。

頑張ってからだを緊張させていた世界には、新しいものなどなにも無いのに。

日常生活を送るなかでも「頑張って得るものには限界があるような気がする」と漠然と感じていたのだが、この経験により「やっぱりそうだったのかも」と思い始めている。


頑張らないことで生まれてきた違和感

頑張っていると「これはこういうもんだ!」とか「こうするべきだ!」とか、行動を起こす前の言葉が断定の言葉ばかりになる。

例えば一番わかりやすいのが「時間の使い方」。

今までならば「頑張って結果を出すこと」が人生の一番にあったので、「忙しいことが良いことだ」とばかりに、空いた時間はほぼ無く、忙しく動き回って1日が24時間では足りないほどだった。時間が足りなくていつもイライラとしていたほどであったが、「無理せずからだを緩めて周囲を感じる」ことを大事にすると決めて半ば強制的に時間にゆとりを持つことを一番にした。

そうしてみると、時間にゆとりを持つことで本当に自分がやりたいことを選択して行動できるようになってきた。

朝、身支度が終わって少し呆けていたら「映画を観に行こう!」と思いついて、調べたら観たかった映画が上映最終日だった。なんてミラクルな出来事もあった。

今までは一カ月先のスケジュールが既にビッシリと埋まっていることが良いと思っていたから、突然入ってくる誘いを断ったり、他の面白いことにも目がいかない。まるで自分を「時間」という箱にいれて拘束しているみたいだ。しかしその逆の価値観は、私を自由にし、その瞬間に出てきた自分の欲求を叶えやすいものにした。

こうなってくると、今までは「コレはこういうもんだ!」と思っていたはずのことが、「アレ?なんでそう思ってたんだろう??本当にそうなの??」と疑問に思うことが増えてきてしまった。

今まであった「生き方のルール」みたいになっていたものが、覆されはじめてきたように思う。


緩ませることで自分という実態を感じる瞬間が出てきた

一番不思議なのが今までと「体感覚が違う瞬間がある」ということ。

頑張るのをやめて緊張する時間が減ってくると、ふとした時に自分のからだを実感する時があるのだ。

なにかを持ってそれを眺めている時や、景色を眺めている時に起こりやすいかもしれない。

なにかを持っているとしたなら、その触感や見えるものを感じて「あぁ、いま、これ持ってるんだなぁ」みたいな感覚をからだで感じたりする。

なにかを「感じた」瞬間に自分の実態が掴めるのかもしれない…。

これまで忙しくしていた私は、じっくりと「なにかを見る」ことさえ忘れてしまっていたのかもしれない。つくづくとなにかに触れ、見て、感じた時、「自分の生命」がここにあることを実感する。

はて。と思う。

もしかしたら、演じると言うことは、このように役柄の「生命」をからだで感じ体現することなのではないか?そのときに演技上の「リアリティ」が生まれるのではないか?そして、そのためにはまず私自身が「自分の生命」を常にからだで感じていられる状態でなくてはならないのではないか?

私は今まで頑張って忙しく生きてきたことで、この世で生きているはずなのに、その「生きている」実感を手放して生活していたようにも感じる。

いまはもっともっと感じたいと思う。

身の回りにあるもの、大事な人たち、時間の流れ、地球という生命。

深く深くからだ中に取り込み、感じたい…


そうしてまた、私の「演技を探求する」旅は続く。



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