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執筆には役に立たない「社会性」と「才能」のバランスについて。

 二十歳そこそこの頃の僕は小説を書く才能もなければ、社会性もなかった。

 僕が見てきた小説家志望は「社会性がなくても仕事ができそう」という理由から小説家になりたいと言う人がちらほらいた。
 小説家は面白い小説さえ書いていれば多少の社会性がなくとも生きていける。

 今もこの幻想が蔓延しているのかは分からないけれど、僕が小説を学ぶ学校にいた頃の教室には、そのような空気が流れていた。
 小説家はフリーランスであり、個人事業主だ。
 会社の所属することで免除されるあらゆる手続きを自らおこなう必要があるし、お金に関する交渉や管理も一人でおこなわなければならない。
 実は小説家になった方が社会性を必要とする。
 考えてみれば当たり前のことなのだけれど、小説が芸術とか、「先生」なんて呼ばれる存在であるという時代錯誤な認識が、冷静な判断を狂わせていたように思う。

 結果、「社会性がなくても俺(私)、大丈夫だし」というスタンスの人間が出来上がる。ちなみに僕の周りにいた、この手のこじらせを発生させた人は学校が終わった後は実家に戻って、しばらくアルバイトか無職で日々を過ごす。
 自分には社会性がない、という自己認識はあるため、そのまますんなり働くことができない。おそらく彼らの中で、社会性がないということは小説を書く才能が自分にはあるはずだ、という図式になっている。

 社会性がないことには意味がある。
 それは芸術的な才能によるものだ、という認識。
 だから、小説の学校に行けば自分は認めてもらえるし、小説家としてデビューできる。

 もちろん、社会性がないから良い小説が書けるという根拠はどこにもない。ただ、この認識は今から見れば、少々痛いものに見えるけれど、ゼロ年代の終わり、二〇一〇年代の始まりの頃は、ニートであることで社会に認められ活躍するような物語が盛り上がっていたのもまた事実だった。
 アニメで言うと「東のエデン」なんて、そんな話だ。
 働かなくて良い。君は君のままで価値がある。そんなメッセージがオタク的な世界観を通して強く固まっていった時期だった。

 今も流行りの曲なんかを聞くと、「君は変わらなくていい」みたいなメッセージに溢れているので、今もあまり変わっていない部分もある。ただ、今はそれほどニート(やフリーター)を肯定的な文脈で描きはしない印象はある。
 何にしても、僕がここで言いたいのは社会性がないことが格好いい、とまでは言わないにしても、ちょっと特別な俺(私)を彩る要素になっていたことは間違いない。そういう時代はあった。

 という前提で、印象に残っているエピソードを。
 僕は小説を学ぶ学校は二年制で一年が立てば、後輩が入学してきた。当時の僕よりやる気と才能に満ち溢れた後輩たちは躍進し、学校の先生に編集者を紹介してもらったりしていた。
 その頃には僕も彼らと仲良くなっていて、「すごいやん」なんて祝福した。嫉妬はなかった。専門学校の面白い点だけれど、高校卒業と共に入学した僕のような人間からすると、後輩でも大半が年上なのだ。
 ある日、そんな後輩に対して先生がご立腹だった。理由を聞くと、先生が紹介した編集者からのメールを後輩が返信をしなかったらしい。
 結果、振られるはずだった仕事が流れた。

 どんなに小説を書く力を持っていたとしても、メールの返信をちゃんとするといった社会性がなければ仕事はできない。当たり前のことだけれど、小説家を「面白い小説を書けば認めてもらえる」と認識していると、引っかかってしまうこじらせの一つなんだと思った。
 もちろん、どんなにメールの返信が早くても面白い小説が書けなければ、小説家にはなれない。世の中に、これさえできれば他のことは免除するよ、なんてことはないらしい。

 こんな話は執筆の役には立たない。けれど、小説家として食べていくのには無視できないし、小説家にならなくても重要な話ではある。

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