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日記 2022年3月 「自分の痛みしか痛くない人ばかりになってしまった」世界で、実行すべき「一番いい選択」について。

 3月某日

 髪を切った。
 前回は、前髪を上げる方が楽なくらい短髪でスパイラルパーマなるものをあてたので、三ヶ月か四ヶ月ぶりの美容室だった。
 なんとなく、昔よく行ってた街で美容室を探した。

 初めて行く美容室はちょっとの緊張と楽しみが混ざる。予約はネットで済ませて、当日は遅刻しないように部屋を出た。
 思ったより、寒い日だった。
 風が強くて昼過にちょっとだけ雪も降った。

 予約した時間よりも、三十分ほど早く到着したので、周辺を散策した。昔と、それこそ十年くらい前によく歩いた路地やお店が以前と変わらずあって懐かしかった。
 意味もなく写真を撮りまくって、手がかじかんだ。

 時間が近づいてきて、予約した美容室が入っている雑居ビルに入った。美容室は三階で、そこは洋風居酒屋とカジノ&バーがあるらしい、とエレベーターのボタンのところに案内があった。
 どんなラインナップなんだろうか。

 ちなみに、十年前にはこの雑居ビルの三階に猫バーがあって、友人の紹介で一度行った。
 実際に猫がいてお酒が飲める、というのが売りらしかった。

 猫バーだけあって若い女性の常連客もいて、友人はせっせと口説こうとして上滑りした内容を喋っていたのを覚えている。
 肝心の猫は初見のお客さんには近づいてきてくれず、常連客か待機室みたいなところでくつろいでいた。
 バーのマスターは気さくな方で、沖縄出身でモヒートがオススメだと言われて作ってもらった。
 沖縄ってモヒートが有名なんだ、とその時に知った。

 とりあえず、なんか面白い街なのだ。
 十年も経つと、そういう記憶が懐かしく蘇ってくる。

 美容室はお洒落と言うよりは、DIYで作ったような手作り感のあるお店で、本棚には呪術廻戦東京リベンジャーズと自己啓発本が並んでいた。
 東京リベンジャーズの最新刊があったので、待ち時間に少し読んだ。
 髪型どうします? と尋ねられて、もう短髪になるのは嫌だったので、ウルフカットでと伝えた。

 ちなみにネットでウルフカットと調べると、

 髪上部は丸みをつけたマッシュルームカット、下部にレイヤーを入れることで襟足部分を軽く仕上げる髪型を言います。 この襟足部分のレイヤーの様子が狼の毛先に似ていることからこの髪型がウルフカットと呼ばれるようになりました。

 とのことだった。
 とりあえず、襟足部分が残る髪型なので、短くはされないだろうという算段だった。
 切ってもらっている間、店員さんが「さっき読まれてた漫画読みます?」と尋ねられて、「え、良いんっすか!?」となる。
 この時点で、この美容室を好きになる。

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 東京リベンジャーズの新刊でそろそろ終わりが見えてくるかな、と思っていたけれど、まだ全然続きそうだった。
 個人的に、梵(ブラフマン)の 首領、瓦城千咒は結構好き。

 髪を切ってもらった結果、「もう少し襟足部分を伸ばすと、もっとウルフカットっぽくなるんですけどね」とのことだった。

 いや、うーん、ガチなウルフカットにしたいか、と言うと難しいところな気がする。
 これから春、夏と襟足伸ばして過ごすのは、暑そうだしなぁ。

 ただ、今だけで言うと良い感じだった。
 短髪にした時は、ホント不安しかなかったから、髪の毛がそれなりの長さで残っていることの安心感よ。

 3月某日

 岬鷺宮の「恋は夜空をわたって」を読む。
 がっつりライトノベルを読むのは久しぶりだった。

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 あらすじとしては、

ある日、偶然クール系後輩“御簾納咲”のラジオ配信を偶然聞いてしまった主人公が、ラジオから流れる彼女の本音を聞いて、少しずつ距離を縮めていく、配信青春ラブコメディ。

 個人的に惹かれたのは、クール系後輩の女の子がしているラジオ配信は百五十人ほどが聴いている小規模ながら人気のあるコンテンツとなっている点だった。本編でもあくまで素人の女の子が一人で試行錯誤した結果、そこそこ人気の番組になっている感じで描かれる。
 女子高生が自分の恋について語る内容で百五十人は絶妙なリアリティを持っていると思う。

 千人でもなく十人でもなく百五十人。
 なんとなく、「恋は夜空をわたって」を読んで「よし、自分もやってみよう!」と思って、達成できるかも知れないラインな気もする。

 さて、「恋は夜空をわたって」はメディアミックスが前提で企画が作られた作品らしいことが帯に記載されていて、それが気になって手に取った。

 こちらに執筆に至った経緯が分かり易くまとまっている。簡単に言えば、音声配信サービス(YouTubeで聞ける)で「恋は夜空をわたって」は配信されるとのこと。
 ドラマCDみたいな感じなの本編と「こたえて御簾納さん」という1分間でリスナーからの質問に答えていく形のシリーズもあって面白かった。

 昔、「半分の月がのぼる空」というライトノベルがあって、学生の頃に大好きで、ドラマCD化された時、全6枚を発売日に買っては楽しんでいた身からすると、羨ましい時代になったなと改めて思った。

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 とはいえ、メディアミックスが前提で作られているせいか、メインの登場人物が三人でシーンには動きがなく、物語全体は地味でキャラクターの気持ちの動きは少々無理やりな印象はあった。
 けれど、ラストの展開はなるほどとなったし、ヒロインも可愛かったので久しぶりのライトノベルとして楽しめた。

 3月某日

 出会った頃から一度も定職に就いていないプロニート? な友人がいて、彼を誘ってお酒を飲みに行った。
 お互いの近況を喋って、久しぶりに小説や物語、考え方の話を思いっきりした。職場の人や飲み仲間にはできない話だった。

 お店を出て、僕の部屋で飲み直そうと言う話になった。
 部屋で最近なに見ている、という話になったところで、『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』を僕が途中で見るのをやめた話題になった。
 友人は根っからのジョジョの奇妙な冒険のファンだった。

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ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』の途中から「21. 吉良吉影は静かに暮らしたい その1」を見る。
 そこで友人が吉良吉影というキャラの説明をしっかりとしてくれて、興味が湧いた。

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 元々、僕は「ジョジョの奇妙な冒険」の構造には興味があって、おそらく今後物語を作っていく上でも参考になるとは思っていた。
 けれど、ジョジョ特有のノリや絵柄がどうしても受け付けずアニメも途中で断念する有様だった。
 友人の説明と物語の解説を聞くと、なるほどそういう風に楽しめば良いのか、と分かって続きを見ることができた。

 結局、3月が終わる頃には『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』を見終って、『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』を今は見ている。

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 個人的にジョジョシリーズは悪役もメインキャラと同じくらいの掘り下げを行おうとするので、単純な敵と味方という区分けではない作りをしようとしていて、そこがとくに好みだった。
 悪に染まるにもそれなりの理由があるし、感情も思想もある。当たり前だけれど、雑な物語はそういうところを端折って記号化してしまう気がする。

 3月某日

 パリュスあや子の「隣人X」を最後まで読む。

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 第14回小説現代長編新人賞受賞作で、あらすじとしては以下のようなものだった。

 20xx年、惑星難民xの受け入れが世界的に認められつつあるなか、日本においても「惑星難民受け入れ法案」が可決された。惑星xの内紛により宇宙を漂っていた「惑星生物x」は、対象物の見た目から考え方、言語まで、スキャンするように取り込むことが可能な無色透明の単細胞生物。アメリカでは、スキャン後に人型となった惑星生物xのことを「惑星難民x」という名称に統一し、受け入れることを宣言する。日本政府も同様に、日本人型となった「惑星難民x」を受け入れ、マイナンバーを授与し、日本国籍を持つ日本人として社会に溶け込ませることを発表した。郊外に住む、新卒派遣として大手企業に勤務する土留紗央、就職氷河期世代でコンビニと宝くじ売り場のかけもちバイトで暮らす柏木良子、来日二年目で大学進学を目指すベトナム人留学生グエン・チ―・リエン。境遇の異なる3人は、難民受け入れが発表される社会で、ゆるやかに交差していく。

 あらすじでは、惑星難民Xに関して詳しく説明しているが、前半を読むと難民に関する内容よりは「郊外に住む、新卒派遣として大手企業に勤務する土留紗央」の自意識と日常が描かれている。
 紗央というキャラクターは現代的だが、特別魅力的という訳でもなかった。続く「就職氷河期世代でコンビニと宝くじ売り場のかけもちバイトで暮らす柏木良子」が「隣人X」における主人公と言える存在だった。

 良子にとって男性は「道具のひとつという感覚に近かった。出かけるときは車を出してくれる、物が壊れれば直してくれる、買ってくれる。困ったら助けてくれる。男は生活のためにあれば便利だった」とあり、その為に彼女は男から誘いを断らず、あらゆる男性と関係を持つこととなって、居場所を作れず年を重ねてしまった。
 そんな良子には一回り下の恋人、笹憲太郎がおり、彼との関係が「隣人X」の中心的なエピソードと言って良い。最近、涙腺が弱っているのか、良子のエピソードで僕は泣いた。

 いや、これは泣くって! となる感動的なシーンが一つある。物語としも大きな盛り上がりなので、ぜひ読んで確認していただきたいが、だから「隣人X」というタイトルなのかと納得もできるエピソードだった。

 最後の「来日二年目で大学進学を目指すベトナム人留学生グエン・チ―・リエン」が視点となる第三章にあたる「グエン・チ―・リエンの恋」は留学生の女の子の過酷な生活と恋愛の難しさを描きつつ、決して安易な結末には持って行かず、しかし根本的な問題意識は描ききっていた。

 小説現代長編新人賞の選考委員、朝井まかてが「登場人物の置かれた環境や心情を通じて難民や移住外国人の受け入れ、違法労働について投げかけてくるところに作者の並みならぬ手腕を感じた。」と書くように、グエン・チ―・リエンというキャラクターは社会とリンクした上で、生々しい人間的な輪郭を保っていた。
グエン・チ―・リエンの恋」という章だけでも、名作短編集とかに載って良いし、学校の指定読書にしても良いくらい問題起訴として優れていた。

 構成としては、まず土留紗央、柏木良子、グエン・チ―・リエンの三名が視点人物として語った後から、視点が入り交じって話が進んでいく。その中で、良子の恋人である笹の視点も混ざる。
 後半は物語を構築する為に必要としたエピソードで良子は深く関わっているし、紗央やリエンの気持ちの決断にも影響を与えるが、少し浮いた印象を持った。

 例えば、「隣人X」をSFの小説賞に送っていたら受賞はしなかっただろう。
 これはあくまで、小説現代長編新人賞というエンタメ小説賞だから受賞した作品だったと言える。
 そういう意味で女性の生き難さと難民の問題、そしてSF的な面白さを上手くエンタメに混ぜ込められた良作だった。
 作者は本当に実力者で、すでに二作目も出版されているようなので、追って行きたい作者の一人になった。

 3月某日

 最近、気づいたこと。
 佐々木敦がツイッターで以下のように呟いていた。

 今のニッポンは、自分が得する不公平には寛容だが、そうでない場合は文句を言いまくる人がすごく増えてしまったと思う。
 これはコロナ以前からで、コロナ以後、更に強まったと思うのだが、今ほど歴然と「自分(たち)のことしか考えられない」が肯定される時代は過去になかったと思う。
 お金の、時間の、心の余裕がない、という理由で、他者の異常な冷淡さがありになってしまう。
 自分の痛みしか痛くない人ばかりになってしまった。

 なるほどなぁ。
 他人の痛みを感じる為には想像力が必要で、言い換えれば今の時代は想像力が失われてしまったと言えるのかも知れない。
 どうすれば、人は他人に対する想像力を恢復できるんだろう? 本を読むとか? 瞬発的に結論を出さず、じっくり考えるとか?

 最近、気づいたこと。
 東浩紀のツイッターで「「正義は勝つ」ではなく「正義は勝て」が日本」とリプライがあって、「世界中がそんな感じ」と東浩紀が返信していた。
 正義は勝てって凄い言葉。

 最近、気づいたこと。
 さやわかがツイッターで以下のように呟いていた。

 一番いい選択がしたいという人に限って、オススメを言ったところでどの選択もしない。何も変わらない。本当は「どれでもいいから選択し、すぐ実行する」が一番いい選択なんだが。と考えていたら思い出したので真心ブラザーズ「すぐやれ今やれ」を聴いた。命は短い。だからあれもこれもすぐやれ。今やれ
 こんなシンプルなメタ行動指標を述べても、人には伝わらないのだと、近年覚えた。だから、自己啓発本があんなに大量に作られるのだ。

 今年の目標は「どれでもいいから選択し、すぐ実行する」にしようと思う。「すぐやれ今やれ」とさっぱりとした気持ちで実行できるかは分からないけれど、心掛けていきたい。

 最近、気づいたこと。
 弱者男性という単語を知った。
 ツイッターでちょっとした盛り上がりを見せていて、彼らを如何に救うか、というような話題が盛んに飛び交っていた。
 人が人を救おうと言ったり、行動している姿はどこか上から目線で傲慢に見えることが多く、僕自身はそういう言説から距離を取りたいと思っている。

 けれど、彼らの飛び交う意見を読んでいると、非モテが如何に恋人を作るかって話が中心にあることが分かった。
 であるなら、杉田俊介の『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』とか桃山商事清田隆之に言及しているのかな? と興味が湧いた。
 ただ調べてみると、そんなことはなかった。

 デートでは清潔な服を着るとか相手の話は聴くとか、優しさは大事だとか優しさだけじゃダメなんだとか、という話題ばかりで、自己啓発的な言説しかなくて、ちょっとがっかりした。
 ちなみに、そういう意見を読んでよく分からなかった一つに彼らの言うモテる状態ってどういうシチュエーションを言うのかが、イマイチ分からなかった。

 小谷野敦の『もてない男』のまえがきで「ところで、『男であることの困難』の書評の中に、「もてるというのはただでセックスができるということだ」と規定したものがあったが、私はこの定義を認めない。好きでもない女百人とセックスしてももてるとは言えない、という立場に立っている。」と書いていて、この点には僕もそうなのでは? とは思う。

 江國香織辻仁成の「恋するために生まれた」という本の中で、江國香織が「だってセックスは途方もなく幸福なことの一つだし、私はずーっとしていたい。たとえば一人の人と一〇〇回セックスをして、同じセックスは一度もないと思えるんです。むしろ、もし一〇〇人の人と一回ずつしたら、全部、だんだん同じようになっていくと思う。」と「愛のセックス、セックスのための愛」というところで語っている。

 モテるということの最終目的が「」であるなら、やっぱり一〇〇人と同じセックスをすることに意味はないけど、モテるの最終目的が「セックス」なら一〇〇人と同じセックスをすることの方が重要だと言う人が出て来てもおかしくはない。

 けどなぁ、性欲ってそんな無限に湧いてくる訳じゃないし、まったく無くなるのかは分からないけれど、若い頃の激しさではいられない。
 そういう想像力は生きていく上で結構大事だと思うんだけどなぁ。

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さとくら
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