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一番暗い夜を目的なく歩きつづけた先にいた神様へ。

 イギリスの諺に「夜明け前が一番暗い」というのがある。
 僕は二十歳を過ぎた頃から、深夜の三時過ぎくらいに出て歩くのが好きだった。おそらく、夜明け前の一番暗い時間だと思う。

 コロナが蔓延している今、深夜でもマスクをつけて小銭とスマホ、ワイヤレスのイヤホンを持って部屋を出た。
 コートのポケットに手袋が入っていたので、つけた。
 音楽は羊文学の「光るとき」をずっとリピート再生していた。考えていることは今から書こうと思っている小説についてだった。
 真っ暗な街を歩く方が視界に入る情報が少なくて考え事に適しているような気がした。

 普段だったら入らない公園を一週する。誰もいない公園。一周してから、ここ最近歩いているのが仕事の行き帰りのみで、コンクリートの上ばかりだったと気づく。
 砂の上を歩くのは久しぶりだった。

 街には街路樹があったり花壇だったりを見かけることがあるけれど、それを見ている僕の足許は常にコンクリートの上にあった。
 自然はあるようでない、そんな環境で僕は生活していた。

 公園には二つの入り口があり、別の入り口(出口?)から出た。山を切り開いて作られた住宅地のため、歩道の横の山肌には、崩れ防止のコンクリートで覆われている。
 昔、父親とドライブした際に、このコンクリートが全国的に劣化しているんだ、という話をしてくれた。
 当たり前だけれど、半永久的に崩れ防止のコンクリートが機能する訳ではない。
 広島の滅多に人が来ないような場所でも、このコンクリートを見かけた。そういう場所が将来的にどうなるのか、いまいちよく分からないけれど、僕の住む大阪の近所の住宅街は維持され続けるような気がする。

 そんな崩れ防止のコンクリートに沿って進むと、マンションが現れた。駐車場には幾つもの車があった。マンションの部屋に電気が点いているところは一つもない。
 更に進むと小さなラーメン屋があった。もちろん営業している時間ではない。ただ、少し意外な気持ちになった。
 地元の人が行くのだろうか。
 いつか営業している時間に来てみたいと思った。

 更に進むと視界が開けて、十字路が現れた。右斜め前にガソリンスタンドがあった。大阪に来てから、ガソリンスタンドを見かける機会は減った気がする。
 広島では所々にガソリンスタンドがあって、そこで働く人の姿を見かけた。幼少期の頃、僕は喘息持ちでガソリンスタンドの空気は良くないと母親には言われていた。
 当時の僕はガソリンスタンドの近くを通る度、ガソリンの匂いは嫌いじゃないんだけどな、と心の中でぼやいていた。

 十字路の信号を渡って、道路を挟んだガソリンスタンドを通り過ぎた。その時に匂いはしなかった。距離が離れているせいか、マスクをしているせいか分からなかった。

 小説に関する考えは少し固まってきつつあって、なるほどこうすれば良いんだな、という気持ちになっていた。
 そんなところで、セブンイレブンを見つけた。
 今までの道すがらで一番、煌々と光っている店内はどこのセブンイレブンとも一緒のように見えた。寒かったし、もう既に三十分は歩いている。
 帰りを考えるとここでコーヒーを買って、来た道を歩いた方が良いなと思いつつ、せっかくの散歩のゴールがコンビニというのは味気なかった。

 目的のない散歩とは言え、せっかくならもっと何か普段では辿り着けない場所に踏み入りたかった。
 それに、コーヒーを買うにしても自動販売機が良いなと思った。僕は自動販売機の缶コーヒーが昔から好きだった。
 父とぎくしゃくした時期を超え、ぽつぽつ話をするようになった頃、いつも父が僕に缶コーヒーを買ってくれた。その缶コーヒーは缶自体にもデザインを施したもので、さわり心地が心地よかった。

 せっかくなら、変わったデザインの缶コーヒーのホットを買って、コートのポケットに入れて歩きたい。
 目的は決まったので、自動販売機を探した。後ろからバスがゆっくり姿を見せ、始発だろうかと思った。道が細くなり、自転車に乗ってスポーツバッグを背負った男の子が走っていった。
 まだ空は暗いけれど、朝は始まったようだった。

 左側に電気の点いた建物があって、それが交番だった。
 交番が見えた右側に神社があった。鳥居に○○神社と書かれてあった。初めて見る名前だった。

 最近読んだ漫画のワンシーンで初詣に行って「今年こそ彼氏ができますように あと貯金もできますように」と手を合わせているシーンがあった。簡潔だけれど、恋人がほしいと貯金したい、というお願いは分かり易い。
 せっかくなので、僕もそうお願いしようと思う。ついでに良い小説を書けますようにも、付け加えることにする。

 早朝だけれど、参拝は問題なくできた。
 小銭も持ってきていたので、それを投げ入れ手を合わせた。

 顔を上げた時には、満足した気持ちになっていた。
 目的のない散歩の行き着くところが神頼みと言うのも、何だか良い気がする。
 僕はそこから真っ直ぐ家に向かって歩きだした。自販機を見かけなかったので、缶コーヒーは結局買わなかった。

 そんな散歩の後から僕は休日になる度に近所の神社に参拝しに行くようになった。電車も使えば、僕の近所には四つの神社があった。
 まん延防止で友達と遊ぶこともできないし、外に出る用事もないから神頼みをしに行くと言うのは悪くない日課だった。
 同時に僕の頭の中にあったのは、祖母だった。

 母方の祖母は数年前に亡くなった。遺体が発見されたは道路の上だった。祖母の家の裏手の山に先祖のお墓があって、そこに行く道すがらで倒れて亡くなったらしい。
 病気もあって、介護が必要な状態だった。亡くなる前日、母にお墓詣りに行きたいと言っていたらしい。
 母は「じゃあ、明日ね」と言って家に帰った。本人いわく、仕事終わりで疲れていたし、お父さんのご飯も作らなきゃいけなかったから、明日ねって言ったけど、その時に連れて行ってあげられたら良かったんだよね、とのことだった。
 それはタイミングでしかないし、母は母が出来る最大限をしたと思う。

 僕が思うのは祖母はお墓詣りをする時、何を思っていたんだろう? ということだった。祖母は僕が小さい頃から、毎晩仏壇にお供えをして、お経を読んでいた。
 二十歳くらいの頃に、毎晩お経を読む理由は聞いた。
 なるほど、そういう理由で毎晩手を合わせていたんだ、と納得したのを覚えている。

 けれど、それはそれとして祖母は何を考えてお経を読んでいたんだろうか。
 目に見えない存在に対して何かをお願いしたり、日常の報告をしていたのだろうか。

 今となっては聞けないけれど、近所の神社で参拝することが日課になりつつある僕は、祖母の血を継いでいるなと思う。
 身近な目に見えない存在に僕は語りかける。
 それは誰にも伝わらなくて良いし、僕の胸の内だけで完結していて良い。

 そういう時間がある、ということがコロナや色んな物事で息苦しい日常を生きている僕にとっては有難いものになっている。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。