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【対談】人生を狂わす実写化映画の地図 2010-2020「2011年を語る」前編。

 今回の記事は連載です。僕(郷倉四季=さとくら)と友人で小説を書いている倉木さとしで漫画の実写映画について語っていきます。

前回の「2010年を語る」はコチラです。

「本当の不幸は、決してありのままの姿で近づいてこない」作品群。

郷倉

 2011年の漫画実写化映画について語って行きたいと思います。
 3.11が起こった年ですね。
 僕が2月で20歳になって、倉木さんが25歳で10月に26歳になった年です。

 順番は倉木さんからでよろしいですか?
 今回、逆にしても面白いと思うのですが、2010年を踏まえて変えたい部分があれば、伺いたいです。

倉木

 逆でいこう。しばらくは、あまり、書き込めんかもしれんから。

 あと、最近、感銘を受けた話があって。
 少年漫画と少女漫画のちがいです。
 結論から言えば、少年漫画の主人公は挑戦者としての戦いで、一方の少女漫画の主人公は防衛戦である。

 詳しく話したいが眠い。

郷倉

 かしこまりました。
 僕も今から書くのと、明日は忘年会? みたいなものが入っているので、もしかすると、少し空くかも知れません。
 申し訳ないです。

 その上で、少年漫画と少女漫画の違いは面白いですね。
 漫画の実写映画について考えていくと、原作がどこの誰に向けて描かれているか、というのが重要になるな、と思うようになっています。

 10代女子に向けた作品と20代男子に向けた作品を同列に語るって、難しいよね? というか、同列に語る場合、普遍的なことしか話せなくなるよね? と思っています。
 その違いで言うと、青年漫画とレディースコミックはどう違うのかも、気になるところです。

 とはいえ、まずは寝てください!
 全然、こちらは体力がある時とかに返信いただければ、問題ないものですので。

(※3日経過)

 すみません、遅れてしまいました。
 もはや誰が読んでいるんだろ? ってなっているカクヨムのエッセイなんですが、地味に直しに時間が食われて、昨日はこちらを書くことができませんでした。

 さっそく、2011年の映画について語らせていただきたいと思います(毎回のごとくですが、質問は後でまとめていただければです)。

 まず、今回語りたいとタイトルを羅列いたします。
GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」「モテキ」「スマグラー おまえの未来を運べ

 とくに共通点のないタイトルに思えますが、震災があった年ということを踏まえて改めて見直したり、思い返したところ以下のような一言にまとめることができる気がします。

本当の不幸は、決してありのままの姿で近づいてこない

 例えば、「GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」は地下鉄での人助けによる死、「モテキ」は新しい職場の上司を逆恨みした女性に刺される、「スマグラー おまえの未来を運べ」は運び屋という甘い仕事。
 すべてが、最初のきっかけより、更なる不幸へと落とされる構造となっています。

 また、「GANTZ」と「モテキ」はそれほど不幸になっただろうか? と首を傾げる部分ではありますし、考え方によっては幸福な終わりだったと言うことも可能です。
 実際そういう部分はあって、今回挙げた物語は決してバッドエンドという訳ではありません。
 考え方によってはハッピーエンドと解釈できます。

 しかし、彼らが映画内で体験するエピソード(冒頭)は間違いなく地獄(ないし、日常の降下)のそれであり、共通の印象として僕は「地獄めぐり」の物語を感じました。

 それは今回、選んだ映画が特別というよりは、生きるってことは突き詰めれば「地獄めぐり」的な側面があり、それを際立った映画が今回、僕の選んだタイトルである、と理解いただければ幸いです。

 そんな訳で、こんな地獄めぐりは嫌だ、という視点で選ぶなら、「GANTZ」「GANTZ PERFECT ANSWER」になるかと思います。
 地下鉄で死ぬところから始まり、強制的に宇宙人と戦う羽目に陥るので、地獄の入り口が過酷すぎません? ってなります。

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 けれど、GANTZのゲームに参加することで、小学校の頃の友達(松山ケンイチ)と交流が戻ってきたり、同じ大学の女の子(吉高由里子)と関係ができたりもするんで、「あれ? 地獄にしては意外と……」ってなっている間に、松山ケンイチが死んだり、参加した訳じゃなかったGANTZゲームにどっぷりハマってプレイする他なくなったりする訳です。

 ネットなどで感想を探してみると、みんな二部作目の「GANTZ PERFECT ANSWER」で描かれたオリジナル展開に不満を持っているようでした。

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「GANTZ」って、青年漫画界でカルト的な人気を誇っていて、男の子のバイブルみたいな位置付けで、そんな「GANTZ」の主人公がジャニーズの二宮和也が演じて、女性向けの吉高由里子と二人で過酷な世界を生きるためのラブロマンスに落とし込もうとされていて、不満みたいな印象を僕は持ちました。

 そう印象を持たれても仕方がないくらい、とりあえず吉高由里子が死なない。敵がそんな銃をぶっ放しているのに、ほんとまったく当たらない。
 にも関わらず、仲間のおじさんだったり、「GANTZ」を知り尽くしている西くんだったりは、あっさり死んでいく。

 映画の都合で命の選別されていません? って言われても、まぁしょうがない作りで、原作の「GANTZ」は、そういう命の選別がなく、無慈悲に重要キャラが死んでいくのが良いんだよ! そういう無慈悲さが逆に命の大切さを描いているんだよ! っていう原作房の不満は分かります。

 分かりますが、原作との違いを見つけて不満を言うことには何の生産性もありませんから、そんな無駄なことをせずに、なぜ、「GANTZ」はこんな映画になってしまったのか? ということを考えるべきでしょう。

 2010年でも少し書きましたが、この時期の漫画の実写映画はファンの顔色を窺いつつ、作品を作るような、少しおどおどした印象を僕は持っています。
 今回の「GANTZ」に関しても顔色を窺った相手がいます。

 それが二宮和也と松山ケンイチというイケメンを見に来た女性ファンたちだったのだろう、と僕は思います。
 その女性ファンが自分を投影する相手として小島多恵役の吉高由里子だったのでしょう。

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 だから、そんな女性ファンを投影した吉高由里子は敵の攻撃の最中でも自分の感情を優先しますし、誰も彼女を殺すことはできません。

 吉高由里子を殺す、ということは「GANTZ」の原作を知らずに見に来た視聴者を切り捨てる印象になってしまいます。
 つまり、「GANTZ」のファンだけが見にくるだけでは映画という巨大なコンテンツの製作費は稼げないから、「GANTZ」を知らない人にも楽しめるように作らざるおえなかったんだ、といことなんでしょう。 

 とはいえ、「GANTZ」読者の玄人も見に来る訳だから、そんな彼らが楽しめる作りにもしたいんだ、というような足掻きは随所に見受けられて、個人的に終盤あたりの二宮和也の演技は戦い方が身についてきたような、達人感が出てきていましたし、延長戦としての小島多恵(吉高由里子)がターゲットになっていく展開は説明不足ですが、原作の「GANTZ」にはないものの、あっても悪くない展開の一つに見えました。

 なんなら、「GANTZ PERFECT ANSWER」のラスト、玄野計の決断は原作者が幾つか考えたけれど、選択しなかった結末だったんじゃないか?と疑うレベルで、よく出来ていたような気がします。

 ただ、売れる為にあっちの顔色を窺いこっちの顔色を窺いとぐるぐる回ってしまった為に、説明不足と世界観の破綻があって、細部の作り込みが弱い映画になってしまった。
 そんな印象を「GANTZ」には持ってしまいます。

 むちゃくちゃオススメするぜ、とは言いませんが、鬼滅の刃とかにハマって、僕/私もこんな物語を作るんだ!って創作欲が湯水のように沸いてます系の十代には、意外と楽しめる映画にはなっているかもしれません。

 思ったより、書いてしまって自分で引いています……
 次は「スマグラー おまえの未来を運べ」にしますが、明日にします。
 そして、もっとコンパクトにします。

『緊張感の放棄』をした映画GANTZ。

倉木

 GANTZは、語りたかった作品です。
 反面教師として学ぶところが多すぎますね。

郷倉

 倉木さん版「GANTZ」の語りも楽しみにしています。

倉木

 せっかくなので、このタイミングでGANTZを語らせてもらおうかな。
 当時、劇場で二本とも見ました。いまの嫁とのデートでしたね。のろけではなく、映画業界の狙った層が、こういう二人だったんだろうなと、いまは理解してる。

 どういうことかというと、原作ファンの男と原作を知らないけれど、嵐のニノだから観てもいいかなという女性層。

 当時、劇場で二本とも途中で眠ってしまった僕なのですが、あの頃の自分は映画の観方がわかってなかった。未熟でした。眠った理由が、どうしても原作と比べてしまうからだったんすよね。そんなことは、郷倉くんのいうとおりで生産性のない無駄なことです。

 僕はGANTZの原作ファンです。小説版も買ったし、スピンオフの女性中心の話や江戸時代の話も読んでいるぐらいです。
 オリジナルのGANTZ以外にも、あの世界観や設定を使うだけで、幾つもの作品がある。つまり、面白い要素の宝庫なのです。なのに、映画がクソみたいになった理由を紐解こうと思います。

 結論から言えば、脚本がダメダメです。撮影をする前の段階で、ダメな部分がオンパレードだと気づきそうなものだけどなぁ。

 最大のミスだと思うのは、情報の出し方が下手なところかな。
 本文ままの、あらすじで書かれている内容で、ものすごいネタバレがあるので、引用します。以下の通り。

戦いに生き残り部屋に戻ると“ガンツ”による採点が行われる。星人を倒し得点を重ね“100てん”になると、この世界から解放されるか、好きな人を生き返らせることができると知らされる

 この情報が映画本編中で視聴者に明かされるのは、最初の戦いが終わったあとです。
 つまり、この物語は、誰が死んでも、生き返らせる方法が明言されている。これから先、仲間が死んでも希望がなくなるわけではない。これで、主人公を絶望におとしきれると思っているのか?

 こういった『緊張感の放棄』とも言える部分が、脚本段階ですら多数見受けられる。

 たとえば、原作では宇宙人と戦わず、戦闘区域から出ようとすると、頭に仕掛けられた爆弾が爆発してしまう。だが、映画では、そんなシーンも設定も語られていない。つまり、宇宙人と戦わずに家に帰ってもいいのではないか。逃げられないシーンをカットしてるってことは、逃げてもいいやんか。

 戦闘中、大怪我をしたものがいても、宇宙人のボスを誰かが倒すと、死んでさえいなければ五体満足で生きて帰れる。つまり、はやく敵を倒せば、救える生命があるという制限時間のある戦いもGANTZの醍醐味なのだ。わかりやすく、観ているものもハラハラできるのに、どうしてひとつもなかったのか。

 殺し合いをしているのに、敵も味方も優しいんだよなぁ。これは、原作と比べるまでもない。ギャング映画や戦争映画でも、もっと銃を撃つやろ。そもそも、敵が刀を使うからといって、こっちが銃を使わない理由がわからん。なにか理由をつくれよ。

 原作漫画と要素が共通しているのに、緊張感がない要因は、原作改変のせいだと言うものもいるだろう。
 だが、それは正確ではない。
 原作改変するのならば、きちんと代わりになるエピソードを用意してくれればいいのだ。単純にカットするだけでは、重要なエピソードが弱くなるのは当然だろう。

 面白い脚本を用意さえすれば、見事に演じきってくれる役者が揃っていたのに、勿体なかったなぁ。

 特に感じたのは、女優たちの無駄遣い。
 吉高由里子は、園子音監督や三木聡監督の作品に出演した演技のうまさが、いかせていなかったように思う。夏菜だって、裸になるシーンを想定して、下着をしばらくつけずに撮影に望んだという逸話がある。
 なのに撮影側は、まさか女優がそこまでしてくれるだろうという想定すらしていなかったのではないか。だとしたら、実に勿体ない。役者もいいのが揃ったのに、予算だってあったのに、勝負する脚本が用意できなかったとは、嘆かわしい。

 二宮和也と松山ケンイチも、配役を逆にするだけで、違った映画になったのに。主演のニノに合わせて、松山ケンイチが演技したようにすら思えるんよな。それほどまでに、松山ケンイチはすごい役者やからね。
 確かに、原作ファンからすれば、二人の役者がいれば、どっちがどっちを演じるかはイメージどおりではある。あえて、イメージと違ったキャスティングをすることで、バクマン。のように成功することもあるので、映画って難しいなぁ。

 ここらが、当時の邦画の限界なのかもしれんな。
 もし仮に、GANTZがハリウッドで映画化されたならば、女性層を切り捨てた作りになってたと思う(願望)。少なくとも、なにかを言い訳にして逃げなかっただろう。
 本当に面白いものを作る脚本家は、女性層が苦手な要素(残酷・セクシーなど)を排除するのではなく、その苦手な要素を忘れさせるほどに、圧倒的なほど面白くて魅せるシナリオを書き上げてくれるものだから。

 そういう力技による賭けをしなかったGANTZは、実に中途半端な作品になってしまいました。
 ストーリや大人の事情に関係のないところが素晴らしいので、観る価値はあるんやけどね。
 20世紀少年から比べて、CGだかVFXだかは格段に進化した。とりわけ、美術スタッフは優秀。ガンツスーツや武器、星人などの特撮に通じるものは、やはり邦画は強いって、よーくわかる。

郷倉

 倉木さんの話をまとめると、美術スタッフには原作「GANTZ」に対する愛やリスペクトがあったにも関わらず、脚本にはそれがなく、配役や与えられるキャラクターの深みにも、配慮が無かった、ということですかね。
 そして、それは正しい気がします。

 僕は単純にニノが刀を振り回すシーンはカッコイイので好きだったんですが、原作「GANTZ」って実は、なんかカッコイイから、こうするって言うシーンってあんまりなくて、理に適った戦闘を格好よく描く、という点で素晴しい漫画だったんですよね。

 そういう点で、「GANTZ」の監督、佐藤信介は後に奥浩哉の「いぬやしき」の実写映画の監督も務めていて、こちらは原作通りに描いた印象を僕は持ちました。

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 これは監督の問題なのか、時期(GANTZが2011年、いぬやしきが2018年)の問題なのかは、ちょっと議論の余地があるとは思います。
 倉木さんの論考を読んだ上でも、僕は「GANTZ」の穴だらけで、論理的な理由の説明がなされない、吉高由里子が不自然に死なない、この映画が結構好きではあります。

 ただ、それは単なる好みの問題で、好き嫌いでオススメすることには意味がないので割愛します。

新たな人生が始まる「スマグラー おまえの未来を運べ」。

郷倉

 続いては「スマグラー おまえの未来を運べ」について語らせてください。

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 地獄めぐり的に言えば、やくざっぽい人達に借金しちゃって、運び屋に売り飛ばされた主人公、妻夫木聡が紆余曲折あって、仕事をトチってターゲットを逃がしてしまって、そのせいでヤクザから拷問を受けることになった映画です。

 地獄の苦しみ的には今回選んだ映画の中でダントツです。
 主人公は妻夫木聡であることは間違いないと思いますが、群像劇的な構造になっている映画で、あらゆるキャラクターの視点が挟み込まれていきます。
 おそらく、「スマグラー おまえの未来を運べ」を見た視聴者のほとんどが敵役の背骨という殺し屋の印象が強いのではないか、と思います。

 背骨を演じた安藤政信は速攻でググりました。
 こんな魅力的な俳優がいたのか、と。

 ちなみに、僕は園子温の「愛のむきだし」が大好きな人間なので、満島ひかりがやくざの組を仕切っていく流れは最高でした。

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 満島ひかりが叫び、恫喝するシーンは決して怖い訳ではないんですけど、画になって臆してしまう何かがあるような気がします。

 原作は「闇金ウシジマくん」の真鍋昌平で、「GANTZ」と同じ、青年漫画家さんという印象ですが、今回の「スマグラー」はほぼデビュー作で、一巻で終わっている漫画なんですよね。

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「GANTZ」のような青年たちのバイブル的な位置づけでは決してない、という言い方は悪いかも知れませんが、目配せすべきファンは少なく、まさにアングラ故の良さ、みたいなものが「スマグラー おまえの未来を運べ」にはぎゅっと圧縮されていた印象があります。

 つまり、制作側としては、「スマグラー おまえの未来を運べ」は決してメジャーな作品ではない、それ故に誰の目も気にせず、ただただ面白い映画を作ってやろうぜ!
 となっているような気がするんです。

 とは言え、裏社会的な題材とやくざな任侠的スタイルは日本映画にとって脈々と引き継がれてきたもので、昨年の2010年に北野武の「アウトレイジ」が上映されているので、その文脈で若者が活躍する「スマグラー おまえの未来を運べ」もやっておこう、みたいなところはあったのかも知れません。

 やくざ役に小日向文世は「アウトレイジ」を横目で見ている感じがありますし。

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 そんな文脈はあるにせよ、「スマグラー おまえの未来を運べ」は妻夫木聡が演じる主人公、砧涼介のような諦めることに慣れて、楽な方へと流れていく若者たちの内側に確実に何かを残す映画にはなっているんですよね。

 とくに上司のジョーとの関係性なんかは、乾いているけれど、互いに一定の信頼をしていて、働くって馴れ合うだけではないって描き方が、意外と他の映画では描けていない部分だった気がします。

 そんなジョーに乾いた信頼と期待を背負って、妻夫木聡が拷問を受けることを決意するシーンなんかはぐっとくるものがありますし、ラストのそこそこの金を握らされて、駅もビルもない田舎の歩道に一人取り残される妻夫木聡の爽やかな表情は素晴しいと言う他ありません。

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 まさに、これから彼の新たな人生が始まるんだと感じさせられてからのエンドロール。
 僕は思わず拍手してしまいました。

 個人的にオススメするなら、コロナ禍によって、不安な学生生活を送り、就職活動も上手くいかず、若いってだけで色んなことを後回しにされて、結局、どうすりゃあ良いんだよ、と途方に暮れている十代や二十代前半とかが見ると、励ましになる訳ではないけれど、自分のいる環境や周囲にいる人へ改めて目を向けることのきっかけになる映画になっていると思います。

倉木

 スマグラーは僕も見ました。かなり前にラブホで。

 郷倉くんも触れてたけど、邦画の積み重ねてきた歴史にVシネマというものがある。Vシネマといえば、任侠ものが多いんやけど、その描き方の映像となるお手本が多いため、スマグラーもウシジマくんも映像化に成功したのかもしれんね。
 Vシネマに通じるものは実写化しても、妙なリアリティーが出る。単なるコスプレ映画にはならない。そういう流れはあるように思える。

 事実、邦画の歴史で積み重ねてきた時代劇ものは、前年の大奥であったり、るろうに剣心であったりと、映像化したときの説得力が強い。

 実写化した際に成功しやすいジャンルってあるんやろうね。

 ちなみに、Vシネマのジャンルで多いもののひとつに、ギャンブルものがある。
 特に麻雀が多いんやけど、そこからの流れで様々なギャンブルものもある。

 カイジ賭ケグルイも、この流れの子供たちと考えれば、実写化したときに成功しやすいジャンルともいえそうや。

 あと、特撮ものもジャンルとして強くて、それで一本映画つくりましたってので、ワイルド7というのがこの年の実写映画であります。忘れてなければ、僕のターンでワイルド7を話すかな。

郷倉

 実は個人的に倉木さんと奥さんが付き合っていた頃のエピソードって結構、面白いと思っていて当時のエピソードを四コマ漫画っぽい軽さで描いていってほしいなぁ、と僕は思っています。
 普通にラブホでスマグラーを見るのは面白すぎます。 

 倉木さんの返信を読んで、Vシネマと言えば倉木さんだったじゃん!という前提情報を見落としていたことに衝撃を受けました。

 そうか、倉木さんの軸足ってVシネマにあって、映画を評価する時、あるいは好みを語る時にVシネマ的かどうか、というのが大事になるのか、と変な気づきを得ました。

 そりゃあ、Vシネマが根底にあるなら、徹底的に「THE LAST MESSAGE 海猿」や「BECK」を否定しますわ。
 Vシネマの製作費の何倍の金をかけて作る作品がこれな訳? メジャーな俳優やアーティストを使えば、それで良いと思っている訳? 作品ってもっと泥臭いもんじゃないの?
 という価値観(偏見ですが)であれば、倉木さんの映画評論というか、立ち位置はとても明確な気がします。

 以前、倉木さんは「僕には今日はなんか映画みたくないって日があります。そんな日でも見える映画が最強だと思う。」と言っていたことがありますが、Vシネマを作っている人からすれば、これが一番の最強の褒め言葉でしょうね。

 また、倉木さとし作品を読んだことがある人には伝わると思うんですが、「情熱乃風R」とか、『超常現象代理人』とかの短編の作りに顕著な空気、あるいはノリや展開が、どことなくVシネマ感があるんですよね(その集合体が「はつこいクレイジー」だったと僕は思います)。

 僕はそれほどVシネマを見てきた人間ではありませんので、勝手なイメージですけど、アングラ感というか、王道的なことをしているのに、決してメジャーにあるようなポップさには迎合しないマニアック感がある気がします。

 このメジャーに迎合しないからこそ、コアなファン(僕ですね)がつく作家が倉木さとしで、逆にメジャーを求める読者からはどうやって面白がればいいのか、分からないって言われちゃう作品になるんでしょうね。

 これから倉木さとし作品を読む皆様、彼の作品はVシネマ的なカメラワーク、キャストを想像して、ぜひ読んでみてください。
 おそらく、二、三作品読むと、なるほどそういうことね、と分かってくると思うので。

 さて、では倉木さんの返信に関して、触れていきたいと思います。
 Vシネマの歴史があったからこそ、成功した作品は確かにありそうですね。もっと言えば、どんな漫画の実写映画であっても、邦画の歴史の系譜で分類することができそうです。

 その歴史、系譜に則るからコスプレ映画にならないのも納得です。
 邦画って、ファンタジーとか青春恋愛ものって、どうもコスプレ感が漂う時期があったんですが、過去の映画で参考にできるものがなかったからなのかも知れませんね。

 そういう意味で、少女漫画原作の実写映画は令和に近付くにつれて、参考にできる作品が溜まってきて、映像や俳優の演技ににこなれた感じが出てきている印象があります。

 その到達点は「溺れるナイフ」だったんだろう、と勝手に思っていますが、それはまた別の機会に語ります。

 任侠もの、時代劇もの、ギャンブルもの、特撮もの、この辺が一定のクオリティを保ち、テーマを吟味する余裕が伺い知れるのは、Vシネマのおかげだと分かりました(ワイルド7の話は楽しみです)。


『倉木』

 ものすげー、納得いってくれてるみたいで、読んでて面白かった。

 Vシネマの話をとりあげるならば、Vシネマの監督から漫画原作監督という経歴の持ち主もいるようです。

「モテキ」イッキ飲みされる側の地獄めぐりについて。

郷倉

 もうめちゃくちゃ返事が遅れてしまって、申し訳ないです。
 なんか、仕事終わりやクリスマスの空気に疲れて、毎日ひたすら寝てました(年末だったんですね)。

 さて、では「モテキ」について書いていきたいと思います。
 2021年から振り返って重要な作品を2011年から選ぶなら、僕は間違いなく「モテキ」を選びます。

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 ちなみに、「モテキ」の原作者は久保ミツロウで、近年で言えばアニメの「ユーリ!!! on ICE」の原案、ネーム、キャラクター原案を担当していました。
 また、少し前に話題になった「プロ彼女」という造語を作り出したのも、久保ミツロウ(と能町みね子)でした。

 そんな久保ミツロウの原作「モテキ」はまず、テレビドラマ化され、その後にドラマ版の1年後を舞台に完全オリジナルストーリーとして描き下ろされたのが、映画の「モテキ」になります。

「プロ彼女」なる造語を作ってしまうような、芸能や世間の流行に敏感な久保ミツロウです。
 そんな彼女が当時の空気をちゃんとリアルタイムに反映させて、流行の曲なんかも使いまくって、作ったのが映画「モテキ」なんです。

 なので、空気はゼロ年代の終わり感があるんですが、恐ろしいことに今見てもまったく古びた感じがしない最強の映画になっています。

 また、同時にツイッターにてハッシュタグ運動なる政治利用が盛り上がる前だったので、純粋なSNSの使用方法として「モテキ」の描き方は牧歌的で、理想的です。

 実際に本編で、藤本幸世(森山未來)はヒロインの一人である松尾みゆき(長澤まさみ)との出会いはツイッターでした。
 そして、長澤まさみの紹介で二人目のヒロイン、枡元るみ子(麻生久美子)とも出会います。

 森山未來は長澤まさみに惹かれて、片想いをしていきますが、長澤まさみが彼氏と一緒に住んでいると知り、ショックを受けます。
 更に、その彼氏は妻帯者で、森山未來の仕事の関係者でもあり、「俺、もうこの仕事辞めます」と上司の唐木素子(真木よう子)に愚痴ったりします。

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 この際の真木よう子の台詞が最高で、「お前には辞めるは許されてねぇ。気に食わないっつーなら、ボーイズオンザランするか? それすら、お前には許されてねぇんだよ(うろ覚え)」であり、上司からすれば、好きな女の彼氏(しかも妻帯者)とか、どうでもいいから仕事をしろや、ってことで。

 超がつく正論です。
 プライベートに振る舞わされて、仕事のパフォーマンスを落とすのは、社会人としては三流でしょう。

 そんな訳で、森山未來は歯を食いしばって、自分の好きな女の子の彼氏(妻帯者)の為に、仕事をするんですよね。
 この辺は社会人1年目、2年目の若者たちには、「分かるぞ!」ってなる名シーンでしょう。

 更に、そこから森山未來の片想いの相手、長澤まさみ視点や二人目のヒロイン、麻生久美子の視点が混ざっていきます。

 地獄めぐりの地獄感が強くなるのは、この複数の視点が混ざってきてからです。
 彼らは自分の感情や欲望を嘘をついていません。
 少々潔いほどに、彼らは自分に嘘をつかないんです。
 それ故に彼らは傷つき、悲しみに暮れるんです。

 そんな嘘をつかない彼らが、欺瞞に慣れ親しみ、それに悪びれた顔すらしない連中の食い物になっていくのが後半です。

 少し前に、ある起業家が高級ラウンジで同席した女性にテキーラをイッキ飲みさせて死亡させたことがニュースになっていました。

 テキーラのボトル1本を15分以内に飲み干せば10万円を払う、というゲームに興じた結果、女性のAさんが亡くなった、というもので、主催者の企業家は「彼女は『できると思うのでやりたいです』と言うので、じゃあボトルを1本頼みましょうとなったのです」と釈明しているそうですが、良い大人がテキーラ1本をイッキさせることを止めない時点で、やばいし、飲み干したら10万円って普通にゲームに参加しているので、加害者であることは明白です。

「モテキ」の不器用な登場人物、森山未來、長澤まさみ、麻生久美子たちはテキーラ1本をイッキさせられる側にいるんです。
 彼らが望むのは、ただ幸せになることでしかないのに、周りの欺瞞に慣れ親しんだ社会的地位のある大人に都合よく利用され、消費されてしまう。

 性質が悪いのは、その大人はまるで「君たちの味方だよ」という顔をして近づいてきて、実際に良いこともしてくれる、という点にあります。

 高級な食事だったり、業界人との繋がりだったり、貴重なイベントへの参加だったり……。
 それは確かに、ただ幸せになりたい彼らからすれば、とても嬉しいものです。
 しかし、それを受けとってしまったが故に、彼らには「嫌だ」と言うことができない場所へと押し込められてしまいます。

嫌だ」と言えない世界の行き着く場所は、テキーラをイッキして死ぬ世界です。

 だから、「モテキ」の終盤は大人たちの欺瞞を知り、それから離れていくことが描かれます。
 麻生久美子は失恋に付け込まれて、リリー・フランキーとホテルでセックスをした後「もっと他の人ともセックスした方が良いよ」と言われて朝食を共にとらず、一人で朝の牛丼屋で牛丼を食べます。

 恋人(妻帯者)に「離婚した」と言われた長澤まさみの前に、森山未來が現れます。おそらく、森山未來が居なければ、長澤まさみは以前通り「離婚した」という本当かどうか分からない言葉を信じて、都合よく消費される側を選んでいたはずですが、森山未來を前にして、それを選べずに逃げ出してしまいます。そして、長澤まさみに誰よりも速く追い付いた森山未來は二人して、泥水にダイブする。

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 彼らは決して格好よくない。不器用だし、空回りして、賢くすらない。
 けれど、森山未來と長澤まさみはこの瞬間、一切の嘘をついていません。

 それは朝の牛丼屋で牛丼を食べた麻生久美子も同様です。
 彼らは不器用で、社会を生きることは上手くない。
 周りから見れば面倒臭い奴らとしか思われないし、ずるもできない。

 しかし、彼らは一番純粋に世界を生きているし、自分に嘘も誤魔化しもしない。

 そんな清々しい結論が描かれる「モテキ」はぜひ、十代の終わりに一回、社会人になってもう一回見て、その数年で自分がどれだけ社会を知ったか、という指標にしていただきたい傑作です。

倉木

 モテキも視聴してます。けど、二回見ようとは思わなかったんよな。作品がどうこうではなく、役者の問題。
 リリー・フランキー嫌いやねん。

 リリー・フランキーの演じた役が嫌ってんじゃなく、リリー・フランキー個人が嫌い。
 ラジオ番組でのエピソードトークで、矛盾が生じた話をしてましたからな。最初の入りと、オチのどちらかが嘘でないと、成り立たないような話でした。アシスタントが突っ込めない空気だからスルーされてるけど、ああ、この人は多分、自覚なく嘘をつける人なのだなと、嫌いになった瞬間でした。

 人としては嫌いでも、役者としては、すごいと思う。そういう人柄だからこそ、モテキでは邪魔にならんどころか、はまってるとさえ思う。でも、普段のリリー・フランキーが嫌すぎてね。映画みてても、それがよぎる。

 これは、洋画にはないから、邦画特有の感覚です。洋画の役者は、テレビつけて番宣で登場しないせいでしょうかね。

 リリー・フランキーではマイナスに働く要素が、演じる前の女優が好きだからみたいぜ、ってプラスに働くときもあるから、邦画は面白い。

 てなわけで、モテキに関する討論は、ひとまず置いといて。必ずあとからします。
 そろそろ僕のターンですかね?

※中編につづきます。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。