見出し画像

【対談】人生を狂わす実写化映画の地図 2010-2020「2010年を語る」前編。

【郷倉四季 序文】漫画の実写化映画を通してテン年代を語りたい。

 今回は、僕(郷倉四季=さとくら)と友人で小説を書いている倉木さとしで漫画の実写映画について語っていきます。

 今回の発端となった提案は「木曜日の往復書簡集(カクヨムでの連載)」の頃にあったので、1年と言わずとも半年以上前に倉木さんからありました。

 漫画の実写映画を紹介する対談をしたい。
 僕も倉木さんも同じ小説に関する学校に通っていて、その時から一緒にあらゆる映画を見てきました。
 小説の物語を考える上で映画から学べることは多いのではないか、と言うのが倉木さんの考えであり、僕自身もそれに同意しました。

 また、倉木さんはレンタルビデオやの店員をされていた時期もあり、任侠映画や特撮といった日本映画のコアな部分に詳しい方でもありました。
 そんな倉木さんから「漫画の実写映画について語りたい」という提案は少々意外でした。当時、倉木さんがおっしゃっていたのは、「手に取りやすく」「想像しやすい」テーマだから、とのことでした(あくまで僕の記憶の中では)。

 僕自身も漫画の実写映画は結構見ていたのですが、改めてテーマとして据えるのならと調べてみました。

 2020年に漫画が原作の実写映画の数は20作で、更に前年の2019年には47作が上映された、とウィキペディアには記載されていました。
 ちなみに最近知ったのですが、ウィキペディアの執筆の基準って「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」らしいですね。

 つまり、『信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけ』をウィキペディアは提供している、とのこと。
 2020年の漫画の実写映画作品は20作で、2019年が47作。
 これは、あくまで検証可能な数字ということですね。

 個人的には「真実」であるより、「検証可能」な情報の方が信用できます。
 というのは、置いておいて2020年はコロナがあって映画館が一時的に新作を公開出来なかったにも関わらず20作が上映され、昨年の2019年は47作。
 この数字を見るだけでも、漫画の実写映画はポピュラーなコンテンツ(?)になっていることは伺えます。

 今回、倉木さんと対談するにあたって、同じ学校に通った友人に電話で「漫画の実写映画のベストを教えてほしい」と尋ねてみました。
「俺は、漫画の実写映画はご法度だと思っているんだよね」
 とのこと。
 なんとなく、言わんとすることは分かります。

 僕はAcid Black Cherryというヴィジュアル系バンド(正確にはソロプロジェクト)が好きで、ボーカルのyasuが2010年頃にニコニコ動画で配信をしていたのを見かけたことがあります。
 そこでyasuが「漫画原作の実写映画の成功した作品ってあったっけ?」と言っていて、スタッフが「NANA」はどうかと尋ねていました。

画像1

「NANAね! けど、音楽業界にいる身としては、ツッコミを入れたい部分のある作品だったんだよね」
 と結局は、漫画の実写映画の成功作品はこれだ、という結論は出ずに配信は終わっていました。

 yasuの好みは当然あると思いますし、僕が電話した友人の「ご法度」という気持ちも尊重されるべきだと思います。
 ただ、2010年頃までは、漫画の実写映画は成功しないコンテンツという印象を持つ人が多かったように思います。
 例として「NANA」が上がってくる訳ですし。

 しかし、2020年現在からすると有名漫画はほとんど実写化されて、ある程度の興行収入が見込め、映画業界を支えるほどのコンテンツとして認識されるようになりました。
 この十年には何があったのでしょうか?

 僕の疑問はそこにありました。
 あくまで僕が、そうしたいと言う話でしかありませんが、漫画の実写映画を振り返ることでテン年代を一度、総ざらいしてみたいな、と考えています。

 とはいえ、対談はあくまで僕と倉木さんが好きな映画について語るものです。せっかくなら、語った映画を見てもらいたいとも思っています。
 単純に言えば、それだけの意気込みです。

 ただ、縦横無尽に好き放題に語ってしまっては、収集がつかなくなるので、2010年から2020年までの期間を一年ずつ扱って行きたいと考えています。

 ちなみに、僕こと郷倉四季は開始の2010年の年は十九歳でまだお酒も飲めない学生でした。現在は三十歳。
 随分、遠いところまで来ました。
 そんな気持ちです。

 色んなことがあったなぁと思いを馳せつつ、一緒にこの十年を数ヶ月通して振り返って行ければ幸いです。

【倉木さとし 序文】「観なくていい映画っていうのは一本たりともない」

 郷倉くんが丁寧に語ってくれたので、倉木が最初にいうことは僕個人的なことだけで完結しそうです。

 先に語ってくれてもいますが、対談のテーマに「漫画原作の実写映画」を選んだのは、手に取りやすいという考えからでした。

 小学生の頃の僕は、洋画の二時間を休憩がなければ視聴できないような男でした。それがいまでは、月に四〇本程度は映画を視聴しています。
 幼い頃からアニメや特撮に触れていた下地があったので「漫画原作の実写映画」というのが、映画という巨大な沼への入口として、ちょうど良かったのでしょうね。
 映画の沼で溺死寸前の倉木の現状としまして、洋画が好きで邦画が嫌いという特徴を持っています。

 経緯を簡単に説明すると、漫画原作の実写映画やそれに近いものから映画を視聴していく。
 やがて、同じ監督や出演者の作品を視聴する。この頃から、洋画の名作といわれる映画を漁りはじめる。
 いつしか、洋画の名作視聴がメインとなり、邦画との視聴割合が逆転する。
 洋画の無名なタイトルにまで手を伸ばすようになった頃には、邦画作品を視聴前に期待することが、ほとんどなくなっていた。色んな作品に触れたことで、邦画っていうほど面白いかって疑問を持った訳ですね。

 現在の視聴割合は、月に四〇本観た場合、三〇本が洋画で一〇本が邦画って感じです。そんな男が邦画の一ジャンルに絞って対談して、実のあることが語れるのか不安ではあります。

 けどまぁ、僕らの対談を読んだ誰かが、我々の話題にあがった映画を観て、同じように、面白い、面白くないという感想を持ったり、全く別の感想を持ったりできるのは素晴らしいことじゃないかと想像します。

 なんにせよ、対談内で語る映画が、全部の映画の中で一番好きっていう人がいる作品でも、僕は遠慮なくボロクソに言っていくと思います。その逆も然りです。世間の評価的にはボロクソでも、面白いということもあります。

 きちんと映画を視聴したんだから、個人の感想は言わせてもらいます。が、その正直さで不愉快になる人もいるんだろうなぁ。

 序文の締めとしまして「観なくていい映画っていうのは一本たりともない」と、語っておきたいと思います。

 期待通りの面白い映画を観たときはいうまでもなく、期待していない作品を観て面白かったときは素直に誰かと感想を共有したいですし、仮に面白くないと感じたときだって、得るものはあります。
 それに、メイキング映像とかを見るのも好きだから、制作の苦労を考えると、僕の中で色々と渦巻くものがある。

【2010年 実写化映画】ひとまず、説明を。

『郷倉』

 郷倉四季(僕)と倉木さとしの対談形式で進んでいく今回の企画ですが、手順と致しましては、まずLINEでやりとりをしてから、後に電話でお互いに相談しつつ掲載内容を決めていきました。
 最初にお伝えすることではないのですが、僕も倉木さんもこういった対談の形の連載ははじめてで、戸惑いつつやりとりをしている部分が多々身請けられるかと思われます。
 見苦しい部分があった場合は、申し訳ありません。

 そういった点は今後続けることで解消されて行くかと思われますが、初回の今回は硬さが残り時折、僕と倉木さんが揉める、というか喧嘩したりします。
 基本的にはカットしていますが、残っている部分やピリついた空気がありましたら、そう言った事情です。

 喧嘩し過ぎて、ちょっと面白くなった部分は編集の際に「※ここで喧嘩してました」と言った注意書きを致します。
 あ、ここで喧嘩したんだ、と軽く事情を察していただければ幸いです。

 という感じで、2010年の漫画の実写映画についての話をはじめたいと思います。倉木さんのお話を尋ねる前に、2010年の実写映画のリストを見て、気づく点が一つあります。

 それは「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」「THE LAST MESSAGE 海猿」「猿ロック THE MOVIE」という、最初にドラマがあって、その続編として映画が多く公開された年だった、ということです。

 この頃の漫画の実写映画は単品の作品で勝負するというよりは、ドラマの延長で映画館に足を運んでもらう、という戦略をとっていたのかも知れません。

 また、テレビ放送の続編としての映画という構造は、テレビアニメがあってから劇場映画で続編をやった「鬼滅の刃(2020年)」と重なる部分があるようにも思えます。

画像2


 2021年の現在はアニメーションも、そのような形を取る作品が増えてきたような印象です。「呪術廻戦」もアニメの最終話が放送されてから、映画化決定の情報が発信されました。

画像3

 このドラマ(アニメ)から劇場公開への流れを細かく見て行くことで、今に繋がる知見や問題起訴することが可能かも知れません。
 が、今回はあくまで紹介したい映画を取り扱って行きます。

 話は漫画の実写映画に留まらず、自由に語らせていただく部分もあるかと思いますが、出発点には漫画の実写映画がありますので、ご容赦いただければ幸いです。

 手順としては、まず倉木さんの2010年に気になった作品を挙げていただき、好き放題に語っていただけばと思います。
 その際に気になった部分があれば、僕の方からも質問や疑問を投げかけさせていただきます。

 倉木さんの気になる作品が終わりましたら、僕の番として語らせていただき、最後に2021年から振り返って見るべき一本を選べればと思います。

 では、倉木さんから見て、2010年に気になった作品は何になりますか?

【2010年 実写化映画】倉木さとしの気になった作品。

『倉木』

 気になった作品は、ボーイズ・オン・ザ・ランライアーゲーム・ザ・ファイナルステージシーサイドモーテル

 3作品にしぼりました。前世(編集前)で、他にもヤマトBECKとかも気になるといっていた記憶もあるけど、なかったことにさせてくれ。

 ドラマからの流れの話があったので、ライアーゲームから語っていこうかな。ちなみに、僕にとって映画で完結編になるってのは、仮面ライダーディケイドがはしりなんやけどね。

 ライダーじゃなくて、本題はライアーです。ライアーゲーム。
 簡単なあらすじを公式から教えてもらいましたので、ご確認を。

画像4


「バカ正直のナオ」とあだ名されるほど人を信じやすい少女・神崎直(戸田恵梨香)は、欲望にまみれたプレイヤーたちが巨額のマネーを賭けて騙し合う「ライアーゲーム」に巻き込まれてしまう。元天才詐欺師・秋山深一(松田翔太)の助けを借りて勝ち進み、ついに決勝戦である「エデンの園ゲーム」に参加する。ゲームのテーマは「信じあう心」。決勝戦はプレイヤー全員が互いを信頼すれば、容易にしかも確実に大金が手に入るのだが……。


 エデンの園ゲームのルール説明は割愛します。
 というのも、映画をみればわかるんやけど、ゲーム中に「そんなんありなんや」とツッコミをいれたくなるような行動を起こすプレイヤーが出てきます。あくまで僕の印象やけど、ルール違反でなければ、つまりはルールの隙間をつけば、イカサマし放題って感じた。自由な範囲が広すぎやしないかっていうルールのせいで、初見のときにそこまで納得いかんかったんよなぁ。うがった見方したら、どんでん返しのために、ルールをあえてざるにしとるんちゃうかとも思った。あくまで個人の感想やけどね。

 どうやら調べると、原作漫画には存在しないオリジナルゲームで、実写版のライアーゲームを完結させたみたい。だからこそ、タイトルに、ザファイナルステージとついていた。後に再生と冠した続編映画がつくられるけど、少なくとも神埼直の物語は、これで完結している。

 本作のゲームの結末は「バカ正直のナオ」とあだ名されるほど人を信じやすい少女が参加していたからたどり着いたものなので、実際に観て確かめてほしい。その印象的なゲームの終わりをみせたいがために、制作陣が頑張ったんだろうから、細かいところは目をつぶったほうが本作は楽しめるんやろうね。

 でも、ゲームが物語の中心、大部分を占める作品において、ルールに穴があったら、僕のように冷める視聴者もいる訳よ。

 なんでもかんでも、ルールを難しくすると穴が増えるよね。だから、オリジナルゲームでも、既存のゲームに変化をもたせたもののほうが、わかりやすくて面白くなるのかもしれんね。

 ジャンケンに縛りをもうけたり、追加ルールをもたせるという変化だけで、カイジのオリジナルゲーム「限定ジャンケン」になるわけで。他には、トランプゲームに追加ルールをもたせることでギャンブル性を持たせることに成功したゲームは、賭ケグルイのオリジナルゲームでいくつかあります。両方とも漫画原作の実写があるので、ライアーゲームのゲーム性が好きな方には、二作ともおすすめできる。

 さて、こういうオリジナルゲームのルールづくりというのは、オリジナル小説の世界設定をつくるのに通じるものがあると思った。
 一から十までオリジナルゲームをつくるのは、同じく一から十まで世界観をつくるのと同じ。そう考えると、現代の日本で勝負せずに、ファンタジー世界をゼロから構築するのは無茶苦茶大変。安易に手を出したら、穴だらけの世界が生まれるだけに決まっている。

『郷倉』

LIAR GAME(ライアーゲーム)」のドラマをはじめて見たのは高校一年くらいだった記憶があります。
バカ正直のナオ」の神崎直を演じた戸田恵梨香を認識したのは、「LIAR GAME」より「デスノート」が先だったと思いますが、この二つを並べるだけでも、ある種のゲームに巻き込まれがちな場所にいるなぁ、と思います。
 あと、地味に「野ブタ。をプロデュース」にも、戸田恵梨香は出演していて、これも日常をゲーム化している作品な印象です。

画像10

 この三つを並べてみても、一から十までのオリジナルゲームというよりは、現実的な要因を含んで如何にゲームを成立させるか、という部分に重点は置かれていますね。

『倉木』

 少し、ライアーゲームから離れてしまったので、元に戻ります。

 個人的には、ゲームが微妙と感じただけで、ライアーゲームの映画がうみだす空気感は見事につくりこまれていました。さすがは、TVシリーズが二回もあり、映画化までされた作品やね。

 映画の魅力というのは、世界観の作り込みを楽しむっていう部分もあると思う。一方で、その作り込みを漫画に寄せてしまったせいで、失敗した漫画原作の作品も多いイメージ。

 この点は、2010年の作品に限ったことではなく、それ以前の作品でもそうなんやけどね。
 ライアーゲームもそうやけど、もっと古くならばショムニのドラマとかも、役者の顔のアップを多用する演出が多かった。正直、あれ嫌い。漫画なら、顔のアップを一つのコマで贅沢に使って表情を読ませるってことなんやろうけど、映像作品であれは嫌い。

 実にもったいない演出やから、僕は嫌だ、なんかな。メインの表情を見ている別の役者の演技も見たいのに、それだけを見せられてもって感じ。だいたい、不協和音(欅坂46の楽曲)のMVの平手友梨奈の鬼気迫る表情だけをうつすカットに比べても、パンチが足りないんだよなぁ。

画像5

 いまの一例を語るうちに、漫画に寄せようとして失敗した他の例も思い出した。
 20世紀少年。簡単なあらすじは以下の通り。

画像6

 ケンヂの周りでの不可解な事件と、世界各国での伝染病による大量死。これらは、かつてケンヂたちが小学生の頃に作った「よげんの書」のシナリオ通りに起こっていた。
「よげんの書」に書かれた人類が滅亡する日、ケンヂは世界を陰で操る謎の男“ともだち”と対峙する。果たして正義のヒーローを夢見た仲間たちは、地球を救えるのか。

 この年の映画ではないので、三部作の冒頭だけのあらすじだけを説明しました。
 この三部作の第一作目は、漫画でも登場するコマをそのまま役者にやらせたシーンがあった。原作ファンは興奮するのかもしれんけど、映画としての自由度が漫画に引きずられて見事に死んでいたからなぁ。

 三部作の終わりに近づくにつれて、その不自由さから解放されていくことで、最終的には漫画よりもわかりやくオチを見せてくれたから、20世紀少年は好きですよ。

 実写と漫画は別物だから、その通りにやっても、映像としてはダメになるんだなって話。だから、改変は絶対に許さないという原作ファンに気をつかっては名作の映画は生まれないんだろうな。

 ちなみに、僕はライアーゲームの原作を読んでいました。まだ実写版を見ていない頃、逆に実写版しか見ていない友達とライアーゲームを語る機会があって、福永ユウジという登場人物の話をしているのに、会話が噛み合わない経験をしました。

 これは単純な話で、福永のキャラが変更されていたって話。このとき、原作を知っているせいで、単体の映像作品として見る目が曇るんだなぁって思ったりした。
 そして、このキャラ変更こそ、ライアーゲームの魅力的な部分だと僕は思います。

画像10

画像11

 そもそも、福永ユウジは、原作・実写版ともに活躍する主要キャラです。
 原作では坊主頭のニューハーフで、美しい女性の姿。実写版では、きのこ頭のメガネが特徴的な男の姿。
 原作を読んでいただけで、単行本を購入した訳ではない僕にとっては、どちらの福永も魅力的にうつった。そして、最終的には姿が全然ちがうのに、どちらにも同じ魂が宿っているように感じるほどだった。

 福永の器用でずる賢い性格という重要な要素を吸い上げたからこそ、形を変えても成功するんやろうね。そのあんばいを調整するのが、監督や脚本家の役目なので、失敗したら目もあてられなくなる。

 キムタクがヤマトのクルーのコスプレをしているだけでは、魂が宿らない。あれは、失敗作。というか、ヤマトに限ったことではなく、ジャニーズが出た場合は、視聴者が察してやらなあかん空気ってあるよな。出演者で察してくれという、造り手側からのメッセージが込められている。これは、アイドルのコスプレ映画だから、期待しないでね、って。

 それに、ジャニーズを起用すると脚本がどうなるのかという問題点が浮き彫りになる作品も多い。これは後々、ガンツニノでも語ります。ジャニーズでも例外はいるというのは、本年のシーサイドモーテルや、後年のヒメアノ~ルで触れたいなぁ。

『郷倉』

 福永ユウジの話、面白いですね。
 魂が宿っていれば、姿は違っても同じ役割を担い、画の中で存在感を放つ。そういう点では漫画を実写映画化させる時点で、同じ姿で画面に存在させることはできなくなるんですよね。
 二次元と三次元の違いって言う、凄く当たり前のことですが。

 そういう当たり前の差異が漫画の実写映画化には付き纏っている感じはあって、それを如何に乗り越えるか? というのは、一つ課題になっている印象があります。
 そして、「」という単語は、ある種その差異を乗り越える為に必要な一要素なように感じます。

【2010年 実写化映画】執筆に活かせる技術がつまっている映画。

『倉木』

 では、続いて。せっかくならば、さっきの流れでヤマトを語ろうかとも思ったけど、ライアーゲームに続いて批判的な話を続けるのもあれなので、次は純粋に面白い映画を語るね。

 ボーイズ・オン・ザ・ランかシーサイドモーテルで迷ってる。どちらも、漫画原作とか関係なしに、邦画として完成度が高い。
 映画として面白く完結しているために、原作漫画をわざわざ読まなくてもいいやんと思えるほどやった。
 これが、前後編とか三部作とかならば、次作の公開までに続きが気になって原作漫画に手が伸びていたかもしれない。

 特にシーサイドモーテルは、キャスティングが素晴らしい。
 なにを演じてもキムタクになる人や、アフロ田中を演じる前のクールな役が多い松田優作の息子とちがい、様々な役を演じられる役者を出演させてくれているので、安心して映画鑑賞ができた。
 喋りながら、ボーイズ・オン・ザ・ランも、松田優作の息子が出演してんじゃんって思ったりもしたので、シーサイドモーテルの話をすることに決めた。

画像8

 海もなく山に囲まれているのに何故か「シーサイド」と名付けられた小さなモーテルを舞台に、その4つの部屋で繰り広げられる11人のワケアリ男女による愛と金と欲のダマし合いと駆け引き、そして様々な人間模様と葛藤をコミカルに描いた一夜の物語。

 ウィキペディアのあらすじが上記の通りになります。ウィキペディアって、作品によって、あらすじの長さがちがうよね。短いからといって、作品が面白くないわけじゃない。単に知名度がそこそこってだけかな。てなわけで、本作は隠れた名作。そういうのに出会ったら、映画みてて嬉しくなりますよね。

 なんにせよ、あらすじがシンプルすぎるので、掘り下げます。

 本作は、部屋ごとの短編が四つあり、それぞれの物語が微妙に影響し合うことで、予期せぬ方向に話が転がるつくりです。
 なので、部屋ごとのあらすじを簡単にまとめてみます。

103号室
 人を騙すことに染まりきれないインチキセールスマンの部屋に、三十路前のコールガールがやってくる。嘘を売る仕事の二人が偶然出会ったことで、愛の駆け引きが繰り広げられる。

202号室
 借金を踏み倒して逃避行を続けるカップルの元に、ヤクザの兄貴分と子分のチンピラがやってくる。借金男と兄貴分は幼馴染なのだが、組の金にまで手をつけていた借金男への報復として、その世界では有名な拷問職人による仕事がはじまる。

203号室
 ED夫と美人妻のマンネリ夫婦が旅先で別行動をとる。普段とちがう刺激があれば、EDが治るのではないかという言い訳から、夫はコールガールを呼ぼうとする。だが、執拗なまでに浮気を疑う妻に、夫は女装と化粧をされてしまう。

102号室
 いままで大金をつぎ込んできた思わせぶりなキャバ嬢を今夜こそ落とそうと目論む常連客。客は入念な計画をたててていたのに、予定外なことが起こる。

 さてさて、あらすじからでも察することが出来そうなもので、四つの短編があるからといって、映画全体を通しての重要度が綺麗に四等分とは言い難かったです。あくまで個人の感想ですが。

 なんにせよ、四つの物語どれもが訳ありの大人の話です。このことからも、映画を観てもらいたい層を絞っているようにも思えました。たとえば一つか二つの部屋での物語を女性や十代の学生に刺さるようなものにしとけば、他の層も面白がってくれたかもしれない。
 でも、しなかった。
 あるいは、山奥の小さなモーテルという舞台を選んだことで、そういう話をつくると途端にリアリティーがなくなると感じたのかもしれない。

『郷倉』

 どれも確かに大人な物語ですね。
 モーテルという舞台装置が必ずしも女性や十代の学生を楽しみ作品の舞台になり得ない、とは言えませんが、現実的にモーテルを利用する訳ありな人々を選出すると、自然と「シーサイドモーテル」のような作品になる、と言うのは分かります。

 山奥の小さなモーテルに行ったことが、それほどある訳ではありませんが、現実がどうあれ、自然と浮かんでくる人物像は中年男性になって来る印象です。

 重要なのは舞台である山奥の小さなモーテルである、という点なんですね。

『倉木』

 そうなんよ。四つの部屋での物語を繋ぐのは、モーテルという舞台装置なんよ。
 そこを利用する客が、この一夜泊まっているという偶然が下地にあることで、本来ならば独立した短編が、絡まることを許されて長編となっているという印象を受けた。事実、他の部屋で起きた出来事の末に、203号室の小粋なオチに繋がるのは、見事やで。おそらく、203号室の物語を追いかけているだけでは、あそこまでの感動を与えられなかったやろうな。

 今回、本企画によってこの作品を数年ぶりに視聴し直したことで、創作にいかせる部分が多いやんと感じたのは、嬉しい発見やった。
 よくある話やたいしたことがないとかで、お蔵入りにしようと思っていた短編の質を、長編にすることで向上させる方法論みたいなものが、隠されている名作映画。

 あくまで僕個人の経験なんですが、お蔵入りにする自分の作品は、意外性が足りないのが問題ってことが多い。
 だからといって意外性をもたすだけでは、物語が破綻することがある。実は○○だった! っていう急展開は、伏線がなければ、そんなわけあるかって読者を白けさせる危険性すらある。
 けれども、物語の登場人物だけは驚いて当然で、読者はあの伏線をここで回収ね、と気持ちよくさせる方法があるんですわ。

 意外性を登場人物に与えながらも、視聴者だけはわかる。意外性と説得力のバランスをちょうどよく描く方法をシーサイドモーテルから学んだ。

 単純な話、別の視点人物の物語で、別の物語の伏線をはるだけでいい。シーサイドモーテルでいえば、たとえば103号室では流されるような情報が、別の部屋では重要な伏線回収と利用される形です。
 ノベルゲームでも似たような手法があるね。ギャルゲーとかで、ヒロインAを攻略しているときに、他のヒロインの情報が手に入る感覚に近いかな。

 作中の登場人物は伏線がはられているのを知るよしもないので、急展開が起きて自然に驚く。そこには、当然のように意外性もある。でも、読者は別の部屋で起きている物語の中で、予備知識としてその情報を持っている。なので、急展開だったとしても、そうかあれが繋がってこうなったのかと納得してくれる。

 つまり、読者のほうがそれぞれの話の主人公よりも情報を多くもっているわけです。
 これって、視点人物は視聴者や読者よりも少しだけアホにしといたほうがいいという創作論にも自然につながっている。

 ちなみに、視点人物を読者よりもちょっとアホに設定した場合、主人公が理解できていないことならば、理解できぬままでも面白い話をつくらなければなりません。実際にシーサイドモーテルでも、その基本は守られていました。103号室で得た情報だけで、103号室に泊まる男が伏線を回収する流れもあります。

 でも、現実だと、あれってどういうことやったんや? と、答えを見つけられぬまま終わる問題ってあるよね。それもリアリティーだと開き直ってしまうのもいいかもしれないけれども、フィクションであるならば回収しておくべきだと思う。でも、不自然に回収したらご都合主義が強くなる。この伏線回収を他の部屋(短編)ですることにより、短編が絡み合い小粋な長編に進化する。

 完成度の高い脚本を演じきった連中が素晴らしいってのも本作の魅力。邦画にも、こんな役者たちがいるのならば未来が明るいやん、と思ったものや。

 メインどころを、山田孝之や生田斗真が演じているのもすごい。
 山田孝之の役者としての凄さは言わずもがな。見事に物語を引っ張ってくれる。

 生田斗真は前述したジャニーズなんですが、あれはもうジャニーズとは別枠の存在やね。本人も曲を出さずに役者だけで精巧した唯一のジャニーズと語っていた記憶が。
 シーサイドモーテルで演じるのもジャニーズらしからぬ役だった。詐欺商品を売るセールスマン。ふらっと立ち寄ったモーテルで、デリヘルが部屋を間違えて訪れるんやけど、そのデリヘルとのやりとりにちょっとした感動もある。

 なんにせよ、こういう風に、執筆に活かせる技術がつまっている映画は、義務教育で見せてほしいものや。洋画の「500日のサマー」とか、思春期に見せるべき映画ってのは多いと思う。

画像9


中編につづく)

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。