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日記 2021年2月 「幾度目の始まりは 澱むこの世界で 遊ぶためにある」のなら、普通でない世界を生きる。

 2月某日

 2月13日午後11時8分ごろに地震があった。
 福島県沖を震源とするマグニチュード(M)7.3で、最大震度6強を観測したとニュースにあった。
 来月には、2011年3月の東日本大震災から10年ということもあって、警戒するようなツイートを見かけた。

 僕は、その時、前の職場の上司とLINEをしていて、丁度その上司が福島出身だったと気づいて、「実家は大丈夫なんですか?」と尋ねてみた。
 すると、「佐藤健」から「大丈夫?」「落ち着いて行動することを心がけましょう。 無事でありますように。」とLINEが届く。
 上司も「佐藤」だった為、一瞬だけ僕の上司って「佐藤健」だったっけ? という気持ちになる。

 そんな話を職場でしてみたところ、ビックリするくらい滑った。笑いの道はきびしい。

「というか、郷倉さんって佐藤健の公式LINEと友達になっているんですね」
 と同僚の女性に言われる。

 え? ダメ? 他にも菅田将暉とも(公式LINEで)友達なんだけど?
 と思いつつ、あれこれ話す流れで「ユーリ!!! on ICE」の劇場版はいつやるんだよ、という話題に発展した。
 同僚の女性と僕はユーリ・プリセツキーこと、「ユリオ」が一番良いよね、という話で落ち着く。

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 思い返してみても、僕が佐藤健の公式LINEと友達になっている話から「ユーリ!!! on ICE」の劇場版に繋がったのか分からない。
 ただ、途中で「絶対BLになる世界 VS 絶対BLになりたくない男」のドラマ化は結構、期待できるって話はした記憶がある。
 
 2月某日

 誕生日の朝、休憩室で同期の女の子に「誕生日おめでとう。いつもお世話になっております」とお中元を渡すかのように、チョコレートをいただく。
「いえいえ、こちらこそ」
 という謎の低姿勢でチョコレートを受けとった。

「三十歳になったご感想は?」
 と言う変なインタビュー形式で質問をされた為、健康診断の結果が再検査で病院をまた予約しないといけない、という話をする。
「身体が健康じゃないって、三十歳でしょ?」
 とドヤ顔で言ってみる。

「え? 大丈夫なの?」
 という結構ガチな心配をされる。

 一週間以内(もしくは一ヶ月以内)に必ず検査してくださいとは書かれていないから、大丈夫なんじゃないか? と言うも、実際はよく分からない。

 出勤して、席で仕事の準備をしている中で「誕生日おめでとう」の嵐をいただく。
 お返しと言わんばかりに健康診断が再検査だった話をして回る。
 上司で主婦の方が「私の知り合いに三十代で亡くなった方がいて」という、怖い話をいただく。

 え? なに、僕死ぬ可能性とかあんの?

 体調が悪い時、いつも僕がやるのは水をたくさん飲む、というもの。目安は2Lくらい。とりあえず水を飲めば何とかなる、と僕は思っている。
 と書いて気づくが、アホっぽい。けど、ずっと最近は水を飲んでいる。

 後輩の男の子と同期の女の子と僕の三人で、もし余命1年と診断されたら、どうやって過ごすかという話をする。
 僕は、まず半年、普通に働きつつ会いたい人に順番に会っていってから、仕事をやめる。最後の半年は実家で、死ぬ前に読んでおきたい小説を読んで、映画を見る。
 と職場で答えた。

 嘘ではないが、小説を書いていることを職場では言っていないので、さきほどのような答えだった。
 なので、本音を言えば、その1年で小説を書きたい。具体的には「ノルウェイの森」みたいな小説を書きたい。

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 まさに、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」日々だろうから。

 2月某日

考える人」というサイトの小谷みどりの連載エッセイが面白い。

 タイトルは「没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!」で、「没イチ」の説明は以下のようなものだった。

 没イチという言葉を初めて聞いた人も多いだろう。私の造語ではないが、この言葉に嫌悪する人も多い。私は、「バツイチです」と同じように、配偶者と死別して「没イチです」と言えるような風潮になればいいなと思って、使っている。
 
 中略
 
 壊れたものや使えなくなったものを処分するという意味の「ボツ」ではなく、没年月日の「没」から没イチ。好き好んで没イチになりたい人はいない、でも残されてしまったのだから、その後の人生をどう生きるかを考えなければならない。

 2011年のゴールデンウイークに42歳の夫が「死因不詳」で亡くなり、そこから小谷みどりがパン屋をはじめる、本当にタイトル通りのエッセイだ。

 ただ、小谷みどりは「第一生命経済研究所で、死生学を専門とする研究者」で、エッセイの中でも自分を鑑みたり、実際の死生学のデータを使って語られる部分が多く、普段漠然と感じている違和感のようなものを的確に言葉にしてくれる為、とても面白い。

 例えば

「未亡人」という言葉も好きではない。「私は未亡人です」と、たまに自分でも使うことがあるが、勝手かもしれないが、人から「あなたは未亡人ですね」と言われると、あまり気分が良くない。字だけをみると、「まだ死んでいない人」という意味なので、他人に使っていい言葉ではないはずだ。しかも妻と死別した男性には「未亡人」とは言わない。

 という箇所。確かに男性が配偶者と死別しても未亡人とは言われない。
 言われて初めて気づくことに、世界は満ち溢れている。


 2月某日

専門家にお話を聞いて知った、現在のDV問題」というネット記事が面白かった、というか考えさせられた。

 信田さよ子というDV問題に長年取り組んできたカウンセラーから、「DVの問題をより多くの人に知って」もらう為の連載とのことだった。

 その中で、信田さよ子は「1970年代から、アルコール依存の治療をしている精神科の病院で心理士として働いて」おり、「日本でDVの存在に一番早く気がついたのはアルコール依存治療の関係者だった」と言う。

 まず、1970年代のアルコール依存症(当時は「慢性アルコール中毒」と呼んでいた)の男性は「第二次大戦から命からがら帰ってきた」人が多く、その理由は「明日敵がやってくるからそいつらを倒せと毎日言われる」戦地で、「上官から、現地で生産された高粱酒(コーリャンしゅ)というアルコール度数の高いお酒を飲まされ」たことから、お酒を飲むのが常習化した。

 80年代に入り、信田さよ子はアルコール依存症の男の妻たちを中心とした「家族会」に参加するようになる。
 そこには、「片方の耳が聞こえない奥さんが」多く、「酔ったアルコール依存の夫に顔を殴られて鼓膜が破れた後遺症だった」とのこと。

家族がみんな父親の暴力に晒される。そして、DVされた妻が子どもを虐待しはじめることがわかってきたんです。さらに、虐待された子どもには家庭内暴力や不登校が多いこともわかってきた。だから、日本でDVの存在に一番早く気がついたのはアルコール依存治療の関係者だったんですよ。依存症、DV、虐待、あと性暴力も、必然的にセットでつながってくるんです。

 僕の父親もアルコール依存症の一歩手前で、家庭が荒れ果ていたことがある。父親がお酒に逃げた原因は決して戦争とか、そういう話ではない。
 けれど、父親は自分の父(僕からすればおじいちゃん)を殆ど憎んでいる部分があって、その背景には信田さよ子の話は当てはまるような気がした。

 2月某日

 最近、気づいたこと。
 ハライチのターンの岩井勇気の過去のフリートークを聞く。個人的に、パンサーの向井慧との話が好き。
可愛いかよ」って岩井が向井に事あるごとに言っていて、僕も最近よく使ってしまう。

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 最近、気づいたこと。
Dr.STONE」が面白い。

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 何かに似ているなぁ、とずっと思っていて、二十話くらいまで見て「ドリフターズ」だと気づく。ドリフターズって思想のぶつかり合い、みたいな部分があって、それが「Dr.STONE」にもある。最近の楽しみ。

 最近、気づいたこと。
 星野源の新曲「創造」がめちゃくちゃ良い。
 妙な中毒性があって、一度目は楽しい曲って思って、二度目はカッコイイ曲と思う。三度目は、どこか物悲しい? と繰り返す度に印象が変わっていって、どれが自分の本当に思っている感情なのか分からなくなる。
 おそらく、その全部が「創造」って曲なんだろうけれど、不思議な曲だなぁと思う。

 最近、気づいたこと。
 キャベツの塩昆布あえがめちゃくちゃ美味しい。ごま油が、こんなに良い仕事をするのか、と感動。
 思わず、ごま油に向かって手を合わせて頭を下げた。

 最近、気づいたこと。
 職場で仕事を振る時に、上司が時々国会答弁のように「さとくら君」と呼んでくる。
 なんとなくボケたくなって、「ごめんなさい、僕には好きな人がいて」と言ったらウケた。
「なんで俺、名前を言っただけで、フラれたんだよ」
 と上司がぼやくので、「ちなみに僕の好きな人は二次元です」と言ったら「それじゃあ、仕方ない」と納得された。

 2月某日

 ずっと、マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)という言葉に違和感を覚えていた。
 その違和感に答えてくれるようなネット記事を見つけた。「あなたは「自分は森さんじゃない」と言えますか? マジョリティの“特権”とは何なのか

 こちらは、「東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長としての発言を女性差別と批判された元首相の森喜朗氏」に関する記事なのだけれど、以下の内容になるほどと納得させられた。

マジョリティ(多数派)は、社会に不公正・不平等があるという問題を、そもそも気付くことができない。もしくは気付いたとしても、スルーできる、立ち去ることができる。そうして、意図せずともそのような構造の維持や再生産に加担してしまうのです。さらには、問題を見て見ぬフリをすることで、利益を得ることもあります。
 
一方でマイノリティ(少数派)は、進学や就職、昇進など、日々の生活の様々な局面で、情報や資源、機会へのアクセスを阻まれたり、不利益を被ったりしています。したがって、社会の問題点を「気にせずにはいられない」のです。

 なるほど、マジョリティは気づくことができない。
 気づくことができない事柄に関して、人は何も考えられないし意見を持つこともできない。

 最近、映画の「ヒミズ」を見ていて、主人公は普通であろうとし続けるのだけれど、それが「マイノリティ」になることに対する恐怖に見えてしまう部分があった。
 日本という国の話にして良いのか分からないけれど、目の前にある問題を見て見ぬフリをすることで、自分に不利益が被ったとしても、マジョリティ(普通)であれば大丈夫だと思っている人っているような気がする。

 僕が生きてきた中でも、マイノリティ(少数派)は普通じゃなくて、それは恥ずべきことなんだ、というような空気を当たり前にぶつけられ続けてきた。
 自分はマイノリティだと胸を張って言い、社会の問題をみんなが気にする(マジョリティだから見て見ぬ振りをしない)ものになって、より良い方法を模索する世界になれば良いと思う。

 誰かの問題は誰かだけのものではなくて社会の問題であって、社会の問題は自分の問題でもある、そういう風に世界を捉えられるように(少なくとも僕は)なりたい。

 2月某日

 2月に入って、おみくじを引く。
 小吉で内容は以下のようなものだった。

「もう人を思うことはしないと言ったのに、また恋をしてしまった。私の心は朱華の花のように変わりやすいのかしら」という意です。
自分自身の心をうまくコントロールして、今日を乗り切って下さい。

 もう人を思わないって、少年漫画の悪役みたいじゃん。
 ってか、僕は今「恋をして」いるのかな?

 恋って、こっちとらもう三十歳だぞ。
 という風に不満に思う心を「うまくコントロールして、今日を乗り切」れってことなのかな?

 あと、朱華って「はねず」って読むのを初めて知った。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。