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「東京ラブストーリー」から見る依存から抜け出し、東京を故郷にする方法について。

「東京ラブストーリー」というドラマの主人公は誰だったのだろうか?
 最後まで見て、最初に浮かんだ問いがそれでした。

 多くの人が永尾完治と言うと思うし、僕も途中まで、このナイーブで人を傷つけたことがない青年の視点から「東京ラブストーリー」というドラマを見ていました。
 けれど、途中から、永尾完治を「カンチ」と呼ぶ同僚の赤名リカの物語なのではないか? と思うようになりました。

 ちなみに、僕が見た「東京ラブストーリー」は1991年版なのですが、2020年にリメイクしているんですよね。
 どちらも見れる環境にはあったのですが、1991年に放送されたものを僕は見ました。

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 理由は単純で、僕が1991年生まれで「東京ラブストーリー」が放送されたのが、1991年1月7日から3月18日となっていたからです。
 僕が生まれたのが1991年の2月なので、がっつり放送している間に僕は生まれました。

 数日前のことなのですが、母からお盆の予定に関する電話があり、丁度「東京ラブストーリー」の終盤を見ていたので、少し話をした後に「今、東京ラブストーリーを見ている」と話をしてみました。
「東京ラブストーリー? あぁ、江口洋介が出ているドラマだっけ?」
 という回答がありました。
 あれ? あまり反応が芳しくないなぁと思ったのですが、考えてみれば当然ですね。

「東京ラブストーリー」が放送されていた頃に母は僕を産んでいるのですから、ドラマをゆっくり見る余裕なんてあるはずがないんです。
 それに気付いた瞬間、電話口ですぐさま話題を変えました。
 けれど、その後に再放送とかはしてそうだなぁと電話が終わった後に気づきました。

 という話題にもなったので、個人的に1991年版を見れて良かったと思います。
 こういう時代に僕は生まれたんだな、と実感することができたので。

 ただ、2020年(令和)にリメイクされた「東京ラブストーリー」はどういう形で語られたのか、と言うのは気になって調べたところ、簡潔にまとめられた記事を見つけました。

「東京ラブストーリー」平成版と令和版はここが違う!女は、男は、どう変わった?

 この記事の中で、平成版赤名リカと令和版赤名リカの台詞を比べている箇所があったので、引用させてください。

(平成版リカ)女子力で可愛がられて仕事をとる
(令和版リカ)企画力で認められて仕事をとる
 
(平成版リカ)24時間、私だけを愛して。私だけを見て。
(令和版リカ)私をしばらないで。私を自由にさせて。
 
(平成版リカ)海外赴任の辞令を恋愛の駆け引きに使う
(令和版リカ)カンチに相談せず海外で働くことにする
 
(平成版リカ)カンチに焼きもちを焼かせようとする
(令和版リカ)カンチに黙って子どもを産もうとする

 僕が平成版(1991年)の「東京ラブストーリー」を見て、最初に違和感を覚えたのは、恋愛に対する絶対の信頼感でした。
 仕事や生活よりも恋愛の方が大事。
 引用された「(平成版リカ)海外赴任の辞令を恋愛の駆け引きに使う」とか、凄いですよね。

 本編で赤名リカが「これが人生最後の恋愛だって思って、私は恋愛をしているよ」という意味の台詞があって、本当に人生全部使って目の前の恋愛にぶつかっている姿が、現代の僕から見ると危なっかしくて、少し怖いくらいでした。

 引用した記事の中で、平成版と令和版の違いを以下のように書いています。

「東京ラブストーリー」は、29年の歳月を経て、「依存」の話から「自立」の話に変わったんじゃないかな。

 少し話は違いますが、津村記久子の「ポトスライムの舟(2009年)」という小説の中で結婚し、自分の貯金していたお金を全て使われた後に離婚し、家もお金も失い、子供だけが残った女性が登場します。
 その女性が、電話口で元旦那に「お金、返してよ」と言うシーンは、ほとんど血を吐くような切実さがありました。

 僕らが生きる現代では、「自立」することが大前提にあって、そうしなければ恋愛も「依存」もできない、という価値観ないし、現実がある気がします。
 1991年はそういう意味で「自立」しなくとも恋愛ができて、もし失敗したとしても、失敗した自分を受け止めてくれるセーフティネットが幾つかある(金銭的にも、コミュニティ的にも)、豊かな時代だったんだなとドラマを見て思いました。

 よく恋愛などで結婚はゴールじゃない、と言いますが、1991年の「東京ラブストーリー」は結婚がゴールです。
 少なくとも、そういった価値観が前提にはあるようでした。
 これは専業主婦が成立していた時代だったからこそ、前提とされている価値観だったのでしょう。

 僕の父も結婚後は、母には専業主婦でいて欲しかったらしい、という話を聞きました。
 それが当然の時代だったのでしょう。
 ちなみに父は九州生まれです。

 ここで、一つ話題に出しておきたいのですが、「東京ラブストーリー」のメインにいる青年、永尾完治は愛媛出身なんですよね。
 そして、永尾完治を「カンチ」と呼ぶ赤名リカは引っ越しが日常の子供時代を過ごして、海外にも友人がいるとされています。
 他の登場人物、完治の友人、三上健一や関口さとみも学生時代の付き合いである為、この二人も愛媛出身です。

 となると、「東京ラブストーリー」というタイトリングがされているにも関わらず、東京生まれ、東京育ちの人物が一人も登場しないんです。
 東京生まれの多くの人が自分には故郷がない、と考えているという話がありますが、東京という土地そのものが故郷になりにくい性質を持っているのかも知れません。

「東京ラブストーリー」というドラマの中でも、東京はあくまで場としてあるだけで、東京故の何か、みたいなものが描かれていたか、と言うと少し首を傾げます。
 むしろ、東京という場によって際立ったのは、愛媛という故郷だったのではないか、と僕は思います。

「東京ラブストーリー」は永尾完治と赤名リカの恋愛模様が描かれるのですが、その横で進行し続けていたのが、愛媛から上京した同じ故郷を持つ三人の物語です。

 永尾完治と三上健一と関口さとみ。
 この三人は同じ高校に通い、文化祭や卒業式といった思い出を共有しています。
 永尾完治は関口さとみが昔から好きで、関口は三上健一のことが気になっている、という三角関係が「東京ラブストーリー」の前半で展開されます。

 途中で、関口と三上が付き合うようになり、それを知った完治がリカと付き合うようになります。
 リカは三人の故郷を共有している関係性を知って、その輪に加わろうとします。
 当初、リカは完治という好きな男の子の友達である三上と関口と仲良くしようとする程度でした。けれど、完治の中に関口を想い続けた時間や、三人が愛媛で共有した学生時代が完治のアイデンティティに深く結びついている、とリカは知ります。
 それは今、ここにいる、私(赤名リカ)よりも完治が優先してしまうものです。

 だから、完治は所々で今付き合っている恋人であるリカよりも、三上の浮気を目撃した関口のもとへ行ったり、関口を傷つけた三上に文句を言いに行ってしまいます。
 大前提として、永尾完治は東京で出会った赤名リカよりも、故郷で出会った人達を大事にしているんです。
 リカはこの時点で、完治の故郷よりも蔑ろにされていると言えます。

 とくに顕著だったのは、リカが完治の家にかかってきた電話を取り、両親と親しく長電話をしたことに対する完治の怒りです。
 完治の言い分は、自分の両親は田舎の人間で、家に女の子がいて、その子が電話を取ったりしたら、結婚するんじゃないか、と勘違いするんだよ。
 というものでした。
 ここには、自分は田舎出身である、という劣等感も垣間見えます。リカのように故郷を持たない人間の自由さ、正直さ、というものを完治は持ち得ません。

 完治は東京にいながら、常に愛媛の、故郷の常識のもとに動こうとしています。
 それ故に、彼が選んだのは故郷を共有し、昔から好きだった関口さとみでした。

 僕が永尾完治を主人公として見なせない理由の一つに、選んだのが関口である、という点があります。
 結局、完治は故郷の常識から抜け出せず、田舎出身の劣等感を払拭することもしなかった。
 リカの持つ自由さや正直さというものを自分の中に取り入れることもなく、ただただリカとの思い出を一つの失恋と捉えているだけです。
 最終回で、関口と一緒にいるにも関わらず、リカらしい姿を人混みの中で見つけて、声をかけるくらい彼は鈍感で愚かです。

 永尾完治は「東京ラブストーリー」という物語の中で、何も学んでいないし、成長もしていない。
 それが良いか悪いかは、視聴者の判断になってしまいますが、僕個人の感想としては支持できません。
 完治は今後も自分に都合の良い女性の傍にいて、手に負えないものは投げ捨てていくだけです。

 本編で、完治は今まで(自覚を持って)人を傷つけたことがなかった、というような台詞もありましたが、それはつまり、常に自分が悪役にならないように立ち振る舞っていただけです。
 それを優しさや包容力とは言えないでしょう。
 幾つか「東京ラブストーリー」内では、そう言われていましたけど、ずっと、どこが!?って思っていました。
 
 さて、永尾完治は「東京ラブストーリー」内で成長せず、停滞したままだった為、主人公とは言いにくくなってしまいました。
 物語の主人公が必ずしも成長しないといけないのか? という問題定義は当然可能です。

 ただ、では成長しない人物を主人公に置く意味とはなんだろう? という問いが発生してしまいます。
 正確には完治だって成長していない訳ではありません。
 関口と一緒にいるし、仕事だってできるようになった。
 けれど、それらは赤名リカがいなくとも、「東京ラブストーリー」という物語がなくとも、可能だったことです(関口とは一緒にいないかも知れないけど。いや、いるか)。

 やはり、「東京ラブストーリー」の主人公は赤名リカだと思います。
 彼女は、これが最後の恋愛だと思って全身全霊で完治に恋をし、前半の言説を引っ張ってくるなら「依存」し、完治が抱える故郷的なコミュニティーにも参加しようとし、彼のアイデンティティの源である愛媛にまで自らの足で訪れます。
 そして、その悉くに敗北します。
 もし仮に、リカが完治と上手くいっていたとしたら、「東京ラブストーリー」は赤名リカが故郷を手に入れる物語になりました。

 それは三浦哲郎の「忍ぶ川」の志乃が結婚した後、新婚旅行へ向かう間に、夫の家の屋根を見つけて、「自分の家が見える」とはしゃぐくらい感動的な物語になるはずです(志乃は戦争によって、自分の家を持たず常に生活してきた女性でした)。

 僕は三浦哲郎の「忍ぶ川」が好きすぎるので、赤名リカにも故郷を与えてくれ。
 結婚という制度には唯一それができるんだ。
 と願っていたのですが、それは叶いませんでした。

 赤名リカは故郷を持たず、会社にも在籍せず、最後はどこかで働いているのだろうけれど、何をしているのかは明かされずに終わります。
 彼女はもう何にも依存していません。
 なぜ、赤名リカはもう何にも依存していないのでしょうか。

 最終回で数年越しに再会したリカに完治が電話番号を聞こうとし(また会おうと思っているんですね)、それを断り以下のように言います。

 いいいじゃん、その方が。
 今日みたいに街角で偶然再会って。
 そう、また何年後かに。

 リカは完治とまた再会すると思っています。けれど、それは数年後なのです。

 なぜでしょうか?
 あくまで僕の考えですが、リカには帰るべき故郷がありません。それを結婚(依存?)で手に入れることもできませんでした。
 リカが人生の中で故郷を手に入れられるとすれば、今まで自分が会ってきた過去の人達しかいません。
 つまり、土地ではなく、人を故郷にする。
 帰れる場所にする。
 それが赤名リカが選んだ故郷だったのでしょう。
 
 これが東京を故郷にする唯一の方法なのかも知れません。
 土地そのものは目まぐるしく変わってしまうし、そこに住む人たちもそれに振り回されてしまう。
 けれど、東京で働く人を故郷にしてしまえば、街中ですれ違うことで故郷と出会い、懐かしさに浸ることができます。

 故郷は必ず必要なものなのか? という問いは可能だと思います。ただ、上京する地方出身者の多くは故郷を持ち、その土地に根差した常識や思い出を抱えています。
 故郷は時に自分は一人じゃないと思わせてくれる、御守りのような役割を持つ瞬間があります。
 
 もちろん、それを煩わしく思う人もいるでしょう。
 しかし、それは持っていなければ分からないものです。

 繰り返しになりますが、赤名リカは最終回で完治と再会した時、誰にも恋をしていないと言っていました。
 彼女は依存することを止めています。
 なぜ、赤名リカは誰にも依存(恋)することなく、生活できるようになったのでしょうか。

 それは東京に無数の故郷を手に入れたからではないか?
 と書いて今回は終わりたいと思います。
 長々とした文章を読んで下さり、ありがとうございました。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。