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【小説】西日の中でワルツを踊れ26 西日。沈みかけた太陽。終わりかけた今日。

前回

 日は傾きつつあった。昼が終わり、夜が始まる。

 その丁度、真ん中。昼と夜にかかった橋の上に今、ぼくはいる。朝が始まる瞬間と夜が始まる瞬間。光は一日の中で最も特別な色で世界を照らす。
 その光を背中に感じながら、石段の階段を登りきって鳥居をくぐると、本殿の賽銭箱の前に紗雪が立っているのが分かった。
 息を整えつつ、ぼくは紗雪に近付いていった。風が吹いて木々のざわめきが起こり、その中にぼくの足音はまぎれた。

 あと五歩で、紗雪に触れられる、という距離で彼女が振り向いてぼくを見た。そこには怯えた表情や怖れはなかった。冷静を保った笑みを紗雪は浮かべた。
「すみません。突然、逃げ出してしまって」
 紗雪の声は普段通りだった。少し意外な気持ちでぼくは口を開いた。

「いえ、こうして見つけられたので良かったです」
「そうですね」
 言って、紗雪は挑むような目でぼくを見た。「なんとお呼びすれば良いでしょうか?」
「西野ナツキ、と」
「それは川田元幸を無かったことにする、ということですか?」
「いえ」
 と否定した。「ぼくは川田元幸でした。今も記憶が戻ってくる気配はありませんが、ぼくは川田元幸です。キンモク荘の鶴子さんを脅した連中の仲間だった人間です」

 紗雪は僅かに眉を寄せる。
「けれど、西野ナツキを名乗るんですか?」
「はい。ぼくは西野ナツキです。紗雪さん、いや、紗雪。お願いがあります。君の力でぼくと川田元幸を会わせてくれませんか?」
 死者と会う力で、ぼくは川田元幸を会う。
 それはつまり――。

 ぼくの言わんとすることに気づいたのか、紗雪が僅かな怒りを込めて、ぼくを睨む。
「ナツキさん、貴方は、私に兄を死者として扱え、と。そうおっしゃるんですか?」
「はい」
 ぼくは残酷なことを頼んでいる。
 遠回しに、過去好きだった人を殺せと、ぼくは紗雪に頼んでいる。
 けれど、それは……。
「紗雪。ぼくはぼくのままで川田元幸に会わなくちゃいけない。そうしなきゃ、前に進めない」

 西野ナツキの話を聞いた時、それをぼくは背負えないと思った。
 川田元幸であり、キャラクター西野ナツキである、ぼくではそれは背負えない。
 だから、彼はその話をぼくにしたのだ。

 本当に嫌な悪人だ。
 ぼくが西野ナツキを背負う為には、まず川田元幸と話をしなければならない。
 彼が何故、西野ナツキにあれほど執着したのか。
 見ず知らずとは言え、一人の女性を拉致する計画を立てるほどに狂った理由を知らずに、ぼくは『西野ナツキ』を名乗れない。
 紗雪が俯いて、小さな声で言った。

「勝手だよ。ナツキさんは勝手っ……」
「分かってる。でも、紗雪にしか頼めない」
 この世界に紗雪と同じ力を持った人がいるなら、ぼくは間違いなくその人を頼っただろう。
 けれど、この世界に死者を見て、会うことのできる人間は井原紗雪以外に存在しない。

「ナツキさん。私は死ぬのが怖いんです」
 と紗雪が言った。「死者の意思を知れば知るほど、人は死んでも楽になれない事実に、時々起き上がれなくなるくらい怖くなります。死者は最も弱い立場の他人で、生者はそんな彼らを好き勝手に扱う。私は、兄をそういうものにするんですか?」
「違うよ」
 とぼくは否定した。
「少なくとも紗雪が川田元幸を死者にするんじゃない。ぼくが目覚めた時、彼は一度死んでいるんだ。もちろん、記憶が戻ってくれば彼は蘇るのかも知れない。けど、それは以前の彼とは違っている」

 だから、とぼくは続ける。
「川田元幸を殺したのはぼくだ。それはぼくが背負う事実だ」
 曖昧にすることもできた。
 いつか、もしかしたら川田元幸の記憶が戻ってくるかも知れない、と。
 そういう思考停止の希望によって、ぼくは紗雪と一緒にいることができた。 

 けれど、それでは川田元幸だけの言葉をぼくは知ることができない。
 ここで彼を殺す以外に、ぼくは彼と対話する術がない。
 紗雪がぼくを見た。
「死者を背負うの?」
 子供のような無防備な声だった。

「背負うよ。彼が残したもの全部まとめて」
「その中に私は入ってる?」
「もちろん」
 そっか、と紗雪は頷いた。
「やってみる。でも、記憶喪失の意識を死者として扱ったことはないから、上手くいくか分からないよ」
「出来なければ、それはそれで考えるよ」
 言いつつ、ぼくは上手くいかないとは欠片も考えていなかった。
 紗雪が一つ頷き、目を閉じた。

 その瞬間、世界が一変した。

 場所は変わらず久我家の神社だった。
 ただ、日の光が先ほどとは少し違っていた。深く重い光。それは藤田京子の時にも見た光だった。

 ――この光は、西日なんだとさ。西と日を合わせると、晒すっつーけどよ。ここでは何を晒してんだろーな。

 賽銭箱に座った男が口もと歪めて、ぼくを見つめていた。
「同じ頭なのに、ぼくの中にはない知識ですね」

 ――だろーな。紗雪と最後に会った時に聞いた話なんだが、ここに来るまで覚えていなかったからな。

 まるで鏡を見ているようだ、なんて思うのかと予想していたが、そんなことはなかった。
 ぼくと川田元幸は確かに同じ外見をしていながら、その実、表情の作り方から声の出し方まで、まったくもって違っていた。

 ――お前さぁ、西野ナツキになんの?

「なります」
 川田元幸はどこからか取り出した煙草の箱から一本を取り出し、ライターで火を点けた。死者の国でも煙草は吸えるらしい。

 ――西野ナツキになって、お前は何すんの?

「ぼくの周囲にいる個人的に思う人、思い入れのある物、そういう全てを守ります」
 ぼくの言葉に川田元幸の目が鋭くなったのが分かった。

 ――俺に出来なかったことをするっつーのか?

「川田元幸を殺すんです。それくらいします」

 ――なぁ、お前は俺をどう殺すって言うんだよ?
 煙草の煙を吐きだし、彼はぼくを睨んだ。

 ――確かに、お前は俺に出来なかったことをする覚悟をしているのかも知れない。だが、その程度で今まで俺が積み上げてきた全部を殺せると思ってんのかよ。

 考えていなかった訳じゃない。
 この身体の歴史を最も抱え込み、記憶と経験をぼくよりも持つ人間。
 それが川田元幸だ。
 数週間の記憶と経験しか持たないぼくが、彼を殺さなければならない。そうしなければ、ぼくはぼくとして生きて行くことはできない。
「殺し尽くすよ。ぼくはその為にここに来たんだ。ちっぽけな記憶と経験しかないぼくが、川田元幸を殺す」

 ――どうやって?
 バカにしたような笑みで川田元幸がぼくを見た。

「川田元幸が出来なかったことをし続けることで」

 ――俺に出来なかったことっつーのは、さっき言っていた全てを守るって言う曖昧で荒唐無稽な戯言か?

「一つ、具体的な誓いを今から殺す川田元幸にします」

 ――あ?

「ぼくは川田元幸よりも紗雪を幸せにします」
 煙草の煙を吐きだし、彼はバカにする笑みを消す。
 そして、頷いた。

 ――オッケー。じゃあ、それが出来なかった時、俺はお前を食い殺す。今日、ここで俺がお前に殺されるのだとしても、食い殺す。良いな?

「もちろん」

 ――んで、お前は俺に何が聞きたいんだよ。

「西野ナツキについて」
 風が吹いた。
 ここでも風が吹くのか、と空を見上げるとくすんだ色の太陽が昇っていた。
 西日。沈みかけた太陽。終わりかけた今日。

 川田元幸は煙草を一本吸い切ってから、口を開いた。
 ――俺にとって、西野ナツキは父親だった。二番目とかじゃなく、唯一の父親。歪んでいるけど、真剣に俺はそう思っていた。

「片岡潤之助じゃなく?」
 彼は短く舌打ちをした。

 ――あれは単なるクズだ。

 そう言って、川田元幸は話を始めた。

つづく


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