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日記 2021年7月 「時代的に正しい性欲と、正しい身体を持てる」ことの幸福。

 7月某日

 職場の後輩の男の子とは部署が違ってしまったので、朝の休憩室でしか会話をしなくなった。
 話す内容は7月に入ってから、混雑した電車やビルのエレベーター内が暑くて汗が止まらなくなる、というものが大半だった。
 朝の休憩室で喋られる時間は五分くらいなものなので、当たり障りのない話になってしまう。

 そんなある日、顔を合わせると「さとくらさん、聞いて下さいよ」と話しかけてきた。
 彼は以前からオンラインゲームにハマっていて、そこで色んな人と知り合って仲良くなる、ということを繰り返していた。
 その仲良くなる人たちの繋がりで、プロゲーマーの人と仲良くなったのだ、と言う。
「プロゲーマーって、凄いんっすね! マジで毎日十時間はゲームしていて、本当に好きじゃないと続けられないんだなって思いました」
「へぇ」
「で、そのプロゲーマーにプレイ褒められて、嬉しかったんですけど。年齢を聞いたら、十八歳で。めちゃくちゃ年下だったんですよ!」
「ゲームは若い方が強いって言うよね、そういえば」
「いや、本当にそうですね」
 などと話をして、ふと引っかかった。
「その十八歳の子ってプレイ褒めてくれたりして、社交的なの?」
「めちゃくちゃ社交的ですね!」

 個人的な認識ではゲームとか漫画って、社交性のない子供たちの逃げ場所で、誰とも関わらなくて良い空間だった。
 けれど、今のオンラインゲームはプレイヤー同士のコミュニケーションによってミッションをクリアして行くものが大半だし、漫画にしても書いた絵をネットにアップするのであれば、コメントや反応を求めての行動だから、それなりの対応能力が必要になってくる。

 僕の認識は古くて、今のものと合っていないんだなぁと改めて実感した。
 にしても、僕が小説を学ぶ専門学校に通っていた頃、社交性がなくてスーツを着た普通の仕事はしたくないから、小説家を目指しているって人が一定数いた。そして、そういう人の小説が僕は結構好きだったし、ある作品では読みながら泣いちゃうくらい感動した。

 小説もお仕事にするなら、一定の社交性は絶対に必要だとは思うけれど、書く瞬間は一人でいられる。それは美徳の一つだと思う。

 何にしても、今はこの社交性がないけど、そんな自分を受け入れてくれる場所ってどこになっているんだろう。少なくともゲームはもう、そういう場とは言えなくなりつつある感じはある。
 
 7月某日

 文學界8月号のリレーエッセイ「私の身体を生きる」第六回が金原ひとみでタイトルが「胸を突き刺すピンクのクローン」だった。

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 第一回から追っているリレーエッセイで、毎回新しい発見がある。今回の金原ひとみの「胸を突き刺すピンクのクローン」はエッセイというよりは、優れた掌編のようなテンポ感で始まる。

 そういえば、金原ひとみのエッセイって読んだことがない。と思っていると、後半で金原ひとみ自身の体験なのだろう話が入ってくる。彼女の対談やインタビューを読み漁っていた身としては、「パートナーに心身を明け渡すような関係性を築いていた」というエピソードはすんなり受け入れることができた。

 日に何度も繰り返されるレイプにいつしか慣れ、私は抵抗しなくなり、それはレイプではなくなった。その流れはどこか、動物や虫に近いものを思わせた。最初は反発したり攻撃したりして交尾に至らなかった二匹が、交尾を経て番いになっていくあの感じ。

 金原ひとみはそれを不幸ではなかった、と書く。また当時の彼に性的なモラルを求めていなかった、とも。

 このエッセイが書かれている現在の金原ひとみの横には別のパートナーがいて、「彼はレイプ=不幸と考える人」で「ダメなことはダメ絶対」という性格らしい。
 そんな彼を金原ひとみは気に入っていると書く。

 彼といると、私は時代的に正しい性欲と、正しい身体を持てる。でも時代的に正しいから、私は彼を好きになったわけではないし、時代的に間違っているから、前の彼と破綻したわけでもない。正しさで人を好きになれないし、間違っているからといって嫌いにもなれないから、私たちは時々無残な恋愛を繰り広げる。

 吉行淳之介ポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」を読んでいると、僕なんかは間違った性欲と身体が描かれているように思ってしまう。
 けれど、それは僕の物差しが今の時代のものだからで、その当時の空気感とか環境で生まれ育っていた場合、また別の物差しを持っていたことは想像に難くない。

 長い歴史の中で人々の性欲がどのように変化していったのか、僕は正確に把握している訳ではないけれど、少なくとも「O嬢の物語」の描く「服従の哲学」や「奴隷の喜び」といったものと比べれば、今の時代的な正しい性欲と身体はとても健全に思える。
 少なくともレイプに関してはダメなことで、それに慣れて抵抗がなくなれば、レイプではなくなるなんて性欲が正当化される時代は肯定しちゃダメだろ絶対と思う。

 7月某日

 前回の日記に関連する訳ではないけど、ちょっと面白かった記事。「強いオス魚は「寝取る」ため他のオスに求愛行動を代行させていた

 最後まで読むと常に強いオス魚が「寝取る」ために動いていた訳ではなく、あくまで「努力しないで交尾する」方法を模索していたのだと分かるけど、何にしても表現の仕方には笑ってしまった。
 いや、言われてみれば、その通りなのだけれど。

 個人的に感心したのは、強いオス魚は状況把握が的確で、求愛行動以外の準備に余念がない(住処や産卵場所として最適なチューブをまず占拠するとことか)ので、結局は見えないところで努力する賢いヤツが勝つみたいな話。
 魚の世界でも、そういう感じなのか……

 7月某日

 ハヤカワノジコの「えんどうくんの観察日記」なる漫画を読む。
 出版社は大洋図書となっていて、ネットで調べると女性向けのコミックを出版している会社だった。
えんどうくんの観察日記」は表紙が幻想的でおしゃれな感じがある。
 そんな空気感に惹かれて購入した。

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 内容は言ってしまえば、BLなんだけれど「窮鼠はチーズの夢を見る」みたく肉体的な接触が濃くある作品という訳ではなく、ゆるーく、けれど切実な感情の動きから、男の子二人が惹かれていく作品だった。
 特別、大きなきっかけや事件がある訳ではなく、ただ互いに惹かれ合っていく感情の動きが綺麗な絵で丁寧に描かれていく。

 面白かった。
 とくに、津田くん(攻めの方かな?)が、いつもはオールバックなんだけれど、喧嘩した時とか休日は髪を下ろしてるのとか、ギャップ萌えってこういうことですか!?ってなった。

 7月某日

 最近、ちゃんとした性描写のある恋愛小説(もしくは官能小説)を書いてみようと思っている。
 そんな話を倉木さんと電話した時にした。

 倉木さんは二次創作(確か、アイドルマスターだったかな?)を書くと言っていて、僕は性描写のある小説。
 なんだか、二人とも次なるステージへ進んだ感じがある。

 電話の中では性描写って技術だし、学んでおくことに損はないと思うんですよ、って話をしたが、しっくりきていない部分があった。
 なんだろう?と思って考えてみると、僕が書きたいのは島本理生の「Red」なんだと思い至る。

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 島本理生は恋愛小説をメインに書いていながら、がっつりとした性描写を書いたのは「Red」が初めてだ、ということをインタビューで答えていた。
 個人的に島本理生の「あられもない祈り」も好きな部類の小説だったのだけれど、こういうのを書いてみたいと思わなかった。

 上手く言葉にできないけれど、島本理生が獲得した性描写によって小説世界が一つ深いところへと達した感じがあった。
 それは村上春樹の「ノルウェイの森」でも言えることで、あの小説に性描写がなかった場合、全然違った印象になっていたことは間違いない。

 僕が書きたいのは「Red」や「ノルウェイの森」のような小説なんだろうな、と最近改めて思う。
 その為に、性描写を学ぶというのは安易な気もしつつ、ひとまず目についたことをやっていきたい。

 7月某日

 4連休明けに職場の同期の女の子と「休日、なにしてた?」というお決まりの話をした。
 同期の子は彼氏と民泊へ行ってきたらしいのだけれど、そこが本当に普通の住宅街だった、とのこと。
「近くに海もスーパーもあるってあったから、行ったんだけど、周りは本当に普通の人が住んでいるところで。近所を散歩してみるとチラシで『民泊反対』って至る所に貼りつけられてて……」
「めちゃくちゃ怖いじゃん!」
「本当に! で、そのチラシをスマホで撮っている時に、チラシを持った夫婦と対面しちゃって、近くに車も止めてるからナンバーも見られちゃったのね」
「ホラー映画の冒頭みたい」
「本当にホラーだったよ! で、話かけようとしてきたから、彼氏が挨拶して、民泊に反対されているって知らなかったって説明したのね。その間、ずっと愛想笑いだよ!」
「そりゃあ、そうなるわな」
「で、夫婦の方も分かってくれたのか、笑顔になって、夜遅くまで五月蠅い人が多くてねって言ってたのね。彼氏が『騒ぎませんので』って言ったら、納得してくれたんだけどね」
「緊張の一瞬だったね」
「本当にっ! で、さとくらくんは?」
「軽い熱中症になって、アイス枕がないと寝れない休日でした」
「え? 大丈夫だったの?」
 大丈夫だけれど、ベッドに横たわっている方が多い連休だった。

 7月某日

 藤本タツキ「ルックバック」という読み切りが話題になっていて、その時に読んだ。

 漫画でしか出来ない表現をぎゅっと詰め込んだ名作だった。「ルックバック」の後半で僕は声を出して泣いた。
 こんなの卑怯だよ、と。

 ツイッターなどで「京都アニメーション放火殺人事件」を「ルックバック」は意識しているのではないか? という考察が盛んに行われた。
 実際、「ルックバック」の中で、それに似た事件が起こる。と同時に、それを救うフィクション故の展開がラストで起きていく流れは、津原泰水の「五色の舟」や舞城王太郎の「勇気は風になる。」を思わせた。

 けれど、今回はそのフィクション故の救いの話は脇に置いて、「京都アニメーション放火殺人事件」について書きたい。
 この事件は、京都アニメーションの第1スタジオに男が侵入し、ガソリンを撒いて放火したことで、男を含む71人が死傷した、というもの。
 起きたのは2019年7月18日だった。

ルックバック」が掲載されたのは2021年07月19日だった。
 この1日違いは、意識するなと言う方が難しい。
京都アニメーション放火殺人事件」の衝撃は2年が経った今でも、変わらぬ生々しさで残っている。
 同時にガソリンを買って、対象の場所まで行きガソリンを撒いて放火する、というお手軽な犯行。
 そして、犯行動機は「自分の小説を盗まれたから」というもの。京都アニメーションではアニメの原作となる小説を募集する賞があった。

 2009年に出版された、宮台真司香山リカの対談本「少年たちはなぜ人を殺すのか」という本の中に「酒鬼薔薇事件が起こった際、「この事件に呼びかけられたと感じる奴が絶対いる」と、他殺連鎖を予測しました。」と宮台真司が語っていた。

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 事件に呼びかけられたと感じる人。
 それは、どういう人なのだろう。

 2021年の3月に徳島でご当地アイドルの「Baby dolls」がライブを行っていた雑居ビルが放火された。ビルにいた人たちは非常階段を使って屋外に避難したため、全員無事だった。
 という事件があり、容疑者は「京アニ事件まねた」と供述している、とのこと。

 この容疑者が宮台真司の言う「この事件に呼びかけられたと感じる」人だったのかは分からない。
 ただ、事件当時から散々言われていたことだけれど、犯行があまりにもお手軽な為、模倣しやすいことは間違いない。

 7月某日

 8月2日から緊急事態宣言ということで、大阪在住の僕は少々うんざりした気持ちにはなる。
 更に、僕の勤めている会社が入っているビルは先日から、コロナの陽性者が続けて発生してしまい、ある階の会社が営業停止となってしまった。

 以前までは大人数の会食は控えるように、という通達だったのが、今回は飲み会の禁止、日中においても会食などを慎むようにと書かれていて、お願いとあるけど、ほとんど脅しに近い文面だった。

 営業停止に伴う損害は結構な額になってしまうのだろう。
 僕としても、一ヶ月無給といった展開は本当に勘弁願いたい。流石にないと思うけれども。

 というような状況であるので、7月最後の日に髪を赤に染めた。真っ赤という訳ではなくて、赤しそみたいな日の光に当てると赤っぽい感じの色合いになった。
 本当のことを言えば、赤に染めたかった訳ではないけれど、美容師のお兄さんのノリが良くて、それに乗っかった結果、赤になった。

 ついでにピアスの穴も開けようかな、とピアッサーを買った。こうしてみると、30歳にして不良デビューみたいになっている。

 世間への反抗心で、という訳ではないけれど、せっかくなので学校の窓ガラスではなくて、アクリル板を割っていく不良になりたいと思う。
 いや、冗談だけど、2021年の不良を描こうと思ったら、どういう感じになるのかは、ちょっと興味がある。


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