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29歳の僕が10代だった頃の僕へオススメすると仮定して選んだ10冊。

 緊急事態宣言が5月4日に延期にすると決定されました。
 カクヨムで「長い春休みにオススメしたい小説 10選」という内容を書いていたので、こちらにも載せたいと思います。
 読む本などを探している方などいらっしゃれば、参考にしていただければ幸いです。

 ただ、本屋や図書館などが開いていないので、手に入れるのかな? と思いつつ……。
 

・原田宗典「時々、風と話す」

 ところで人生というのは、辛いものである。辛くって辛くって厭になっちゃう時が、しばしばある。
 ぼくの場合、十八歳からの五、六年間が、ちょうどそういう時期だった。二十年やそこら生きただけで人生が辛いだなんて片腹痛いぞ、という意見もあるだろうが、本当に辛かったのだから仕方がない。
  (中略)
 そういう時期に、小さくてもいいからバイクが一台あれば、ぼくの毎日はどんなに鮮やかだったろう。

 引用文は「あとがき」からです。
「小さくてもいいからバイクが一台あれば」と書くように、バイクに関する二十の話が集められた短編集です。一編一編は短く挿絵もあるので読みやすいです。
 続編として「黄色いドゥカと彼女の手」という一冊もあって、全体を通してバイクが必ず登場する為、ハードボイルドな空気が多めなのですが、原田宗典らしい純粋な感情と共に、子供が大人へとなっていく過程をぎゅっと詰め込まれています。


・恒川光太郎「夜市」

 いずみは考える。
 才能が買えるなら自分なら何を買うだろうか。何を買っても同じなのかもしれない。例えば、ピアノの才能を買ってピアノがすごく上達しても、世の中にはすごく上手いピアニストは何百人もいるだろう。おそらくそれを職業にするのは難しいだろうし、兄弟を売るほどのものじゃない。

 日本ホラー小説大賞受賞作です。
 望むものが何でも手に入る「夜市」に、小学生の時に迷い込んだ裕司は、自分の弟と引き換えに「野球の才能」を買った。
 野球部のヒーローとして成長した裕司は弟を買い戻すために、再び夜市を訪れる。
 引用文はそんな裕司に誘われて夜市についてきた、いずみという女の子の独白です。
「美しさに満ちた感動のエンディング」と帯にはあるのですが、夜市の肝は売られていった弟視点が語られる後半です。
 そういう怖さがあったかと思わされて、ぞっとします。


・朝井リョウ「星やどりの声」

「お母さんだって、私が生まれた瞬間にお母さんになっただけで、これまでもずっとお母さんだった訳じゃないんだよね。私みたいに、まだまだ自分は子どもだって思ってるときに、いきなりお母さんになっちゃうんだよ。なり方も、これからどうしていいかもわからないときにいきなりだよ。ふと気付いて足元を見たら、線の向こう側に立っちゃってるの」
 あおいは耳に髪をかける。
「だからしょうがいないんだよ、きっと」
 あおいは弁当箱に蓋をした。
「大人になる瞬間なんて、ないんだよ」

 海の見える町で、喫茶店「星やどり」を営む早坂家。
 三男三女母ひとり。父は亡くなっています。
 小説は六章構成で、一章にひとりずつ子どもたちの名前が付けられています。家族の物語であり、最後に父が仕掛けたあることが明かされた時、その優しさに驚きます。
 引用文は二男の凌馬の同級生、あおいの台詞です。
 さりげないシーンですが、物語全体を通して考えた時、一つの肝だったかな? と思い引用しました。
 個人的に三男の真歩という小学生の男の子の章が大好きでした。

「星やどりの声」のキャラクターは本当に魅力的で、朝井リョウにはこっちの方向にも進んで欲しかったと、今でも思います。
 なんなら「星やどりの声」続編を朝井リョウのデビュー十周年記念(今年がそうなんだそうです)でなんとか、お願いします。


・乙一「きみにしか聞こえない CALLING YOU」

 僕の周囲には本を読むことはあまり好きじゃないけれど、小説家になりたいと言う人が結構いました。
 そんな人たちに十代の頃に好きだった本を尋ねると、乙一の「きみにしか聞こえない CALLING YOU」は結構な確率で言われていました。
 三篇の短編で構成されている為、非常に読みやすくなっています。中でも「calling you」は、みんな大好きです。
 そして、僕も大好きです。
 女の子の頭の中に想像で作った携帯電話があって、その電話がまったく知らない男の子と繋がっていて、話しているとほんの少しの時間のズレがあると分かります。
 そんな二人が現実で会おうとするけれど……。
 という話なのですが、今考えると新海誠の「君の名は。」に近いものがありますね。
 切ないけれど、まったく救われない訳じゃない。
 その塩梅が非常に上手い作品となっています。
 

・米澤穂信「春限定いちごタルト事件」

 小市民シリーズの第一巻です。続くのが「夏期限定トロピカルパフェ事件」「秋期限定栗きんとん事件 (上)(下)」、そして、今年十一年ぶりに新刊の「巴里マカロンの謎」が発売されました。
 本シリーズは本格ミステリーにカテゴライズされ、扱う謎は日常の謎です。
「秋期限定栗きんとん事件 (上)(下)」から、やや日常を逸脱した内容となった印象もありますが、根本の謎を解き明かすと、これは日常の、というか一人の女の子の感情に起因する謎だったと納得します。

 一人の女の子、小佐内(おさない)さんという存在が日常的なものなのかは、やや疑問はありますが、ド派手な謎という訳ではありません。
 そんな慎ましやかな内容にも関わらず、手に汗をにぎる展開の数々なのが今シリーズの魅力です。

 個人的に慎ましくありながら、ハラハラ読んだのは「夏期限定トロピカルパフェ事件」の第一章「シャルロットだけはぼくのもの」です。
 シャルロットというケーキを三つ買ってきて、二つを小佐内さんに渡すつもりだった主人公が、シャルロットのあまりの美味しさに二つ目を一人で食べてしまった。
 小佐内さんに最初からケーキは二つしかなかったと思わせる為の知恵試し。
 一つのケーキを隠すだけで、そこまでの心理戦が起こる? って、レベルのハラハラ感が味わえます。
 

・三田誠広「いちご同盟」

 近所の図書館でYA(ヤングアダルト)コーナーというのがありました。アメリカの定義で言うとYAは「十三歳から十九歳の世代の人たちで『若いおとな』という意味」らしいです。
 若いおとなに読んでもらいた小説として、まず浮かぶのは「いちご同盟」です。
 出版されたのは一九九〇年で、僕が生まれるより前の小説ですが、今のYA世代が読んでも共感できる内容となっています。
 僕は二十代になってから読みましたが、「いちご同盟」を若いおとなの頃に読んでいたら、何か違ったのかな? と考えないでもないです。
 ただ、二十代で読んだ僕は「いちご同盟」の最後にまぁ泣きました。ちょっと自分でも引くレベルでした。

「いちご同盟」を読まれた方、もしくは読むか悩まれている方は漫画の「四月は君の嘘」を手に取ってみるのをオススメします。アニメでも良いです。
 途中で「いちご同盟」が引用されるんですが、これもまた素晴しいです。「四月は君の嘘」でも僕はまぁ泣きました。


・高田大介「図書館の魔女」

 十代の頃、分厚い本を読むことに憧れていた部分があります。
 ということで、「図書館の魔女」です。
 文庫本の一巻を開いていただきますと主要登場人物の一覧があり、次のページに広大な地図が載せられていて壮大な物語を思わせます。その期待感は絶対に裏切りません。
 一巻の帯には大森望が「正真正銘、世界レベルの大傑作!」と言っています。間違っていません。
 原稿用紙3000枚の超弩級ファンタジー、全四巻。
 しかも、第45回メフィスト賞受賞作。
 最強にして最高です。

 内容もよくて、史上最古の図書館に暮らすマツリカは「魔女」と恐れられているのだが、自分の声を持たない少女だった。そんなマツリカに手話通訳として仕えることになった少年、キリヒト。
 マツリカは自分の声を持たない代わりに古今東西の書物の知識があって、その知識によって謎を解決したり、戦争に向かいそうな世界情勢をまとめたりします。
 キリヒトはマツリカの声となって彼女を支えます。その関係性がたまらなく良いんです。マツリカは図書館の魔女として、一つの国を背負わされていると言って良い環境にいます。
 そんなマツリカがキリヒトの前では普通の女の子になって、我儘を言って、少女らしく少年を振り回していきます。
 そこを読む為だけでも、「図書館の魔女」を手に取る価値があります。
 ただ、挫折の可能性は濃厚です。
 というのも、著者が言語学者なんですね。
 あらゆる面でガチなんですよ。
 描写は綺麗なんですが、物語の進みが非常に遅い。よく分からず読み飛ばす部分もあるかも知れません。
 しかし、大人になったら分かる……かも知れません。


・森博嗣「科学的とはどういう意味か」

 新書です。森博嗣は小説家ですが、新書も幾つか書いています。彼の新書は読みやすく為になる部分も多いです。
 本書は3.11後に書かれたせいか、そこに触れた部分が幾つかあるんですが、不覚にもその部分で僕はちょっとだけ泣きました。
 新書で泣くって意味が分かりませんが。


・紙木織々「弱小ソシャゲ部の僕らが神ゲーを作るまで」

 ライトノベルです。ソーシャルゲームを遊ぶのではなく作る話。高校生がソシャゲの運営に回って、如何に遊んでもらうかについての工夫などが語られます。
 ラブコメもありつつ、ゲームで遊んでいる時には見えない作り手の苦悩や悩みがちゃんと描かれているので、最後の方は結構感動します。

 
・東浩紀「ゆるく考える」

 批評家、東浩紀のエッセイです。あとがきに書かれていますが、「平成の批評家」でもある東浩紀の試行錯誤を繰り返し迷い続けた軌跡が描かれています。

 今回、新型コロナウィルスの感染対策として、全国の小中高、3月2日から臨時休校の要請があった時、不穏な空気が日常へと浸食してきた感触を覚えました。
 新型コロナウィルスはもちろん恐いのですが、それ以上に人間が恐い。
 東浩紀の「ゆるく考える」の中に、こんな言葉があります。

 ぼくにとって、政治について考えることとは、むしろ抽象化と数値化の暴力について考えることである。そしてその暴力が抱える逆説について考えることである。ぼくたちは政治がなければ生きていけない。けれども政治はぼくたちをかぎりなく残酷にする。その逆説をどう制御するか、その知恵を編みだそうと努力することである。

 日常を、例えば学校へ通う日常を、奪っていくのは残酷になった人間です。
 それは仕方がないことだと理解もできるのですが、僕が恐いと思ってしまうのは、その残酷さを制御する方法を殆ど持ち合わせていないことなのかも知れません。

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