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日本の教育システムのパラダイムシフトを!(本来の目的に立ち返ろう!)

教育とは何か?とても大きく深い問いです。

教育は、知識を教え込むことや、大人や社会(国家権力)が求める「兵隊」(上の命令にそれが間違っていると感じていても忠実従順な人、現代科学技術文明の社会装置の部品的人間の喩えです)になるための規範への服従訓練が、目的では本来ありません。

近年、不登校児童生徒が激増してます。昨年10月4日に発表された
『児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要』(文部科学省)によると、小中学生の不登校児童生徒数は前年度から54,108人(22.1%)増の299,048人で過去最多になりました。
「嫌な学校に子供を強制収容して子供に修練させることが必要」という前提が共有されている学校を拒絶する子どもが増えているのも大きな要因ではないか?
子供が輝きを失っている。
その最大の原因は「学校という名の強制収容所」にあるのではなかろうか?。
学校がそのような「強制収容所」であるなら、子供が学校を嫌うのは当たり前でしょう。
根本的な発想の転換が求められているんです。


”普通教育”を受ける場を、学校(学校教育法第1条で定める学校)以外の場(フリースクールなど)に開放するべきだと思います。
同時に、学校教員の過酷な労働条件を大幅に緩和し、意欲的で質の高い教師を大幅に育成増員し、学習指導要領や検定教科書を廃止し、学校という場を子どもたちにとって魅力のある、行きたくなる場に変えるべきです。
その明治維新以来の教育大改革に、国や自治体は大きな未来への投資を行うべきなんです。その目的と方向性は下記に述べます

そもそも、日本はエデュケーションという言葉を「教育」と訳してしまったところに、間違いがあったのではないでしょうか。
エデュケーションのエデュースというのは、「引き出す」という意味なんです。
それを日本は「教える、授ける」と思ってしまったわけです。
先生が生徒に与えるのではなくて、先生は子どもの能力を引き出すことを第一段階にやるべきことで、ですからエデュースと言うんです。

その人の内にある人それぞれの個性的な”潜在能力”を引き出し、自由に、そして自立しつつ助け合って”生きる力”を育む場が学校であり、教育の本来の使命ではなかろうか?

一つの物差し(例えば通知簿の評価や偏差値)で子どもをジャッジして序列化する競争原理(ラットレース)に基づく教育は根本的に間違っています。

このやり方の歪みが、現場では差別やいじめ、そして不登校などの原因となり、新たな階級社会(学歴社会というか学校歴社会)を生み出しています。
教育は、無理やり知識を詰め込む「強育」でも、
落ちこぼれになて人生の敗北者になることへの恐れを煽る「恐育」でも、
点取り競争して、”相対的”にいい成績をあげていい学校に合格したら褒められる「競育」でもない。

なぜ、特権意識をもつ医者やら政治家、法曹(弁護士)、有名大学教授に鼻もちならない、くそくだらない人間が多いのでしょうね?(もちろんそうはない尊敬すべき方もたくさんいますが・・・・)
ここで挙げたブレた動機でお勉強に励まれて、外(支配層)からの評価試験でいい成績を上げてその地位につけた「偏差値秀才」のお歴々が多いからなのかな?

「学び」は大事です。それは知りたい真理や真実への気づきと自己探求、やりたいことができる能力を身につけることであり、誰かの指示命令で嫌々やらされるているうちは身につきません。
勉強というのは自分でするものであって、勉強には自発性(内から出てくる意欲)と、学び(勉強)の喜びや楽しさが必要なのです。
好きなことをやっていると「勉強」していると自分は思ってないけど、外から見たら勉強なんです。

その意味において、教師のあり方姿勢にも価値観の大転換が必要です。
ウィリアム・アーサー・ワード(英国 19世紀の哲学者)はこう語って
ます。

凡庸な教師は喋る。
良い教師は説明する。
優れた教師は示す。
偉大な教師は心に火を付ける。

さらには
人間は一人では生きていけないのです、生きる場・くらすば(コミュニティ)みんなの共同(お互いの協力)があってこそ社会は正常に機能するので、教育は、大人も子どもも、立場年齢などの違いを超えて共に学び、協働しながら、成長する「共育」であるべきです。そのプロセスには終わりはありません。だから生涯学習なんです。

そして、教育の究極の目的は、生きることの意味、自分の使命に気づき、自分の意志で自分を磨き、魂(精神)を成長させて、ほんとうの自分になる「自己実現」ができるように、広義の教師たる者がサポートすることです

最後に、私は「教育を変えれば、日本は変えられる」と信じています。

日本の蘇生のためには、教育制度の抜本的な歴史的大変革が避けられないと思う。だから足枷でしかない文科省と教育委員会は一旦解体して、建替え立直し(破壊と創造)した方がいいかもしれませんね。
そのためのヒントはフィンランドの教育にあると思います。

フィンランドの教育がすべてにおいて素晴らしいと礼賛するつもりはないですが、進化をずっと続けようと、変えることを恐れず、教育現場からのボトムアップと国民的議論を通じて教育改革の挑戦しつづけるフィンランドの教育を通して、日本の旧態依然たる、朝令暮改で問題だらけなのになかなか変わらない公教育の抱えている課題が見えてくると思います。

⚫フィンランドの教育の特徴〜椅子から自由になれば子どもは伸びる!〜

フィンランドの教育改革は2016年9月からスタート。新しい国の教育課程の枠組みに基づいて授業の再編成を行った。

[1]科目横断型の「実例に基づいた教育」制度を導入する
教科書ありきのお勉強ではない!実践的、体験型の学び

新教育課程は、1年間のうち少なくとも数週間は「実例に基づいた教育」を実施するよう義務づけている。「実例に基づいた教育」では、1つの科目ではなく、広範囲の異なる分野にまたがったテーマに焦点を当てて学ぶ。
教師は歴史や経済を単一で教えるのではなく、例えばEUを授業で取り上げて、そこにEUにまつわる歴史や経済などを盛り込んで教える。教え方に関しては、学校や地域にある程度の自由裁量が与えられるそうだ。
この新教育課程の責任者のイルメリ・ハリネン氏は、技術化とグローバル化が進み、持続可能性の問題に直面する社会に対応する能力を生徒たちは身につけなければいけないと、フィンランド教育省のウェブサイトで述べている。

[2]生徒自身がともに授業を計画する

先生やカリキュラム(学習指導要領的な教師への指示書)ありきのお勉強ではない!

フィンランドの生徒たちは、新教育制度の計画作りに自らも携わり、そして自分の成果を評価をする。
個々の科目を重視し、教師が一方的に指導するあり方を変えることは、教育に大きな変化をもたらすチャンスだと考えられている。

[3]共同作業に重点が置かれる
試験ありきのお勉強ではない!社会を個人が相互尊重しあいつつ役割分担して共同でつくっていく。

新教育課程では、教室での生徒たちの座り方も変わる。これまでは教師が前に立ち、生徒たちはその前に並べられた席に座って授業を受けていた。しかし新教育課程では、生徒たちはいくつかのグループに分かれて授業を受ける。グループで座ることでコミュニケーション能力の向上をはかるのです。
また、新教育課程では「学ぶことの楽しさ」が重視されている、とフィンランド教育庁は説明してます。
「新教育課程の柱となっているのは、肯定的な感情を生み出す経験、共同作業、他人との交流、そして創作的な活動を向上させる学習です」

以下、「フィンランド教育」に関する現場の具体的な情報です。
ご参考まで。

⚫︎「フィンランド教育」の特徴とは? 「教育費無料」にとどまらない、教育大国のシステム⤵︎

⚫︎フィンランドの学校でインターンをした3ヶ月間を写真とともに振り返る⤵︎

(執筆者:文責)能村 聡

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