見出し画像

環境と心変わり

今年からフリーランサーになり、時間の自由ができた。

やったー、サーフィン三昧だ!

と思いきや、いつでも行ける状況になるとそれはそれで、「わざわざ風の出ているときに行かなくてもいいな」などとコンディションを選り好みするようになって、実際にはサーフィン三昧といえるほどではないまま1ヶ月が過ぎた。

これまでだったら、「今日は行ける」という日時に多少の風が吹いていても、乗れる波さえあればありがたく波乗りに出かけた。

ところが今は、ほとんど毎日がその気になれば「今日は行ける」日なので、「今行かなくても先に仕事を済ませて午後の様子を見てからにしようかな」「明日も行けるから今このコンディションの中、わざわざ行くこともないか」と考えられるようになり、結果的に行かないことが増えてしまったのだ。

かといって、「あー、今日も海に行かなかった!」という後悔もない。

状況として行けないわけじゃなくて、自分の選択として行かなかったので、後味が違うのだと思う。

それにしても、つくづく、人の感覚って、環境の影響をもろに受けるんだなぁ。

前はあんなにガツガツしていたのに、ガツガツしていい状況になったらガツガツがなくなってしまうという。

環境の影響を受けるというのは、環境に応じて相対的であるとも言えると思うんだけど、それに関していうと、亡くなった夫の闘病中のことが思い出される。

病気が進行して、いつもやっていたことが次第にできなくなっていく中で、亡夫は最初こそ「あれができなくなった」「これができなくなった」とぼやいていたけれど、そのうちまだできることのほうを見て、「今日もごはんが食べられてよかった」というような小さなことによろこびを見出すように変化していったことに私は心を打たれたのだった。

亡夫が意識的に考え方を変えた部分も、もしかしたらあったのかもしれないけれど、人間の本能として防御反応というものがあって、自分の心身を守るために、できなくなったことより、できていることに自然と目を向けるように適応したのだ、と私には感じられた。

病気が進行するにつれ、何によろこびを感じるかを、相対的に変化させていったのだ、と。

先日、マインドフルネスのプログラムで、「苦痛はそれだけで苦痛だけど、それに抵抗することで苦悩が増える」というようなことを教わった。

それはその通りであるなぁと納得する一方で、亡夫のことを思い出し、抵抗することで苦悩を増やしてしまったとしても、苦悩が最大限に達すると、人は本能的に、防御反応の一環として、自然に抵抗をやめるのかもしれないなぁとも思ったりした。

もちろん、苦悩が最大限になる前に減らせるほうが楽ではあるので、抵抗を手放す努力をすることに意味がないとか、やらなくていいとは思わないのだけど、抵抗を手放せないこともまた人間のさがで、抵抗しまくった先には結局、似たような解放が起こるのではないか、と。

話がまとまらないけれど、いつでも当たり前にできると思っていたことが、当たり前にできなくなるということもまたあることで、だからこそ当たり前にできている今がありがたいというのも真理であるから、気分が乗らない日はサーフィンに行かないという選択ができるということはありがたいことなのだってことだけは忘れずに、マイペースに波乗りを楽しみたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?