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ART & ESSAY《4》|熊谷めぐみ & 野村直子|『二都物語』——パリ

 1775年のパリ、18年の間囚われの身となっていたマネット医師は娘ルーシーに連れられて、ロンドンへ渡る。5年後、ロンドンの裁判所では、フランス側のスパイの疑惑をかけられたチャールズ・ダーネイが死刑の判決を受けようとしていた。絶体絶命のピンチに、無気力な弁護士シドニー・カートンが救いの手を差し伸べる。ルーシーに惹かれる男たちは、それぞれの立場で彼女を幸せにしたいと願うが、海の向こうで響き始めたフランス革命の足音は、彼らの上に暗い影を投げかけるのだった。

 月日は流れ、ルーシーはチャールズ・ダーネイとの結婚の日を迎える。しかし、辛い過去を持つルーシーの父マネット医師にとって、それは喜びであると同時に恐怖でもあった。ダーネイはイギリスでの名であり、その正体はシャルル・サン・テヴレモンドという名のフランスの貴族であった。叔父である侯爵や一族の悪行に耐え兼ねたダーネイは、フランスでの社会的地位を手放し、イギリスに渡り生計を立てていたのだった。やがて二人の間には子供が生まれ、イギリスでの幸せは、長く続くかのように思われた。

 しかし、運命は容赦なく彼らの平和な日々に足音を響かせて迫ってくる。パリでは革命が起こり、怒りに燃えた群衆が、狂乱の中、血の雨を降らせていた。市民に拘束されたという、かつての使用人に手紙で救いを求められたダーネイは、領民に対して寛大な扱いをしていた自分がフランスを離れた理由を話せば、きっと市民に理解してもらえるはずだとの楽観的な希望を持ち、無謀にもひそかにパリへと旅立つ。

 しかし、圧制と飢餓に苦しみ、復讐と血に飢えたフランスの民衆たちは、もはや聞く耳など持っていなかった。無実の者も、貴族でない者も、次々に容赦なく処刑されていった。そして、ダーネイは、本人には罪がないにも関わらず、その家柄から、革命の中心的な人物であったドファルジュ夫妻にとって絶対に逃がすことのできない敵であった。彼は捕えられ、パリのラフォルス監獄に送られる。

一年と三か月。その間ずっとルーシーは一時間おきに、明日夫の首が断頭台で落とされるのではないかと怖れ続けた。

 ダーネイがパリに渡り、投獄されたことを知ったマネット父娘は、テルソン銀行の仕事でパリに滞在していたローリーを訪ねる。ルーシーはダーネイの身を案じながら、パリで夫が解放されることを待ち続けるのだった。

 ルーシーの結婚直後に、再び心理的な錯乱状態に陥ったマネット医師は、暴力と混乱に満ちた革命のパリにおいて、むしろ生き生きとした活力を取り戻していた。これまで、娘に支えられてきたマネットは、バスティーユ監獄に囚われていた自分は市民たちにとって英雄であり、影響力があるということを確信し、今度は自分が娘を救おうと、ダーネイの釈放に奔走する。

 一方、監獄内に陰謀が渦巻く中、怪しまれないようダーネイに手紙を送ることもできず、ルーシーは夫の無事を信じ、待ち続けるしかなかった。そして、希望が少ない中でも、決して絶望することなく、家の中を整え、幼い娘の世話をし、父親を支え、パリでの質素な暮らしを堅実に送った。数週間が経ち、午後三時ごろに監獄にいるダーネイから姿が見えるかもしれないという場所を父親から知らされると、ルーシーはどのような天候の日であっても、一日も欠かさずにその場所へ行き、二時間の時をそこで過ごすようになる。

 野村直子がパリを舞台に描いたのは、投獄された夫のために、監獄から見えるかもしれない場所に毎日通い続けるルーシーのひたむきな姿である。パリの街にはいくつもの自分を見つめる目があり、危険もある。二時間待ったところで、ダーネイがその日、自分の姿を見ることができたかどうかもわからない。それでも、ルーシーは、晴れの日も雨の日も、時には幼い娘を連れて、一日も欠かさずに通い続ける。そうした、ルーシーの信念、意志の強さが、愁いを帯びながらもしっかりと前を見据える彼女の表情に現れている。

 雲の多い空は不穏に乱れ、建物はルーシーを圧倒するかのような濃い影を頭上から投げかける。だが、その中にわずかに射し込む光は明るく、影と強いコントラストを成す形で、小さいけれど確かな希望の在りかをルーシーに指し示しているかのようである。あるいは、それはルーシー自身が抱く希望の光の具現化なのかもしれない。

 ロンドンのオールド・ベイリーを前に白いドレスを着たルーシーは、まだどこか少女の面影を残していた。今、パリで夫の無事を強く信じ、ていねいに整えられた黒いドレスを着て、彼がいる場所の近くへと通い続けるルーシーの表情には、美しさは同じであっても、決して諦めないという固い意志と、大人の女性の内に秘めた強さがある。

 パリの街は、美しく、不穏である。革命下のこの街において、ルーシーは何もできない小さな存在に過ぎないのかもしれない。しかし、彼女は、もはや裁判の行方を見守ることしかできなかった少女ではない。自分の足で、自分の意思で、深い愛情のもと、夫の近くへと通い続ける。ルーシーの変わらぬひたむきな愛情、誠実さ、信頼は、彼女を取り巻く人々を動かす。時代は残酷な方向へと進んでいた。しかし、ルーシーのそうした愛情、優しさに報いたいと願う人物が再びダーネイを、そしてルーシーを救おうと動き始めていた。

熊谷めぐみ|ヴィクトリア朝文学研究者 →Blog
『名探偵コナン』からシャーロック・ホームズにたどり着き、大学の授業でチャールズ・ディケンズの『互いの友』と運命の出会い。ヴィクトリア朝文学を中心としたイギリス文学の面白さに魅了される。会社員時代を経て大学院へ進み、現在はディケンズを研究する傍ら、その魅力を伝えるべく布教活動に励む。モーヴ街5番地、チャールズ・ディケンズ&ヴィクトリア朝文化研究室「サティス荘」の管理人の一人。

野村直子|美術家 →Twitter
舞台美術、衣装デザイン、立体造形、人形制作など、舞台や映像作品を中心に活動。宇野亞喜良助手としても多くの演劇作品に携わる。



作家名|野村直子
作品名|二都物語より パリ、ラフォルスに向うルーシー
 
アクリルガッシュ・ケント紙ボード
作品サイズ|26.5cm×18cm
額込みサイズ|41cm×32cm
制作年|2022年(新作)

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