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マインドフルネスとマインドレスネス マインドフルネスサロンMelonに通って学んだこと

マインドフルネスサロンMelonに通い始めて8ヶ月。グリーンヒルの地橋秀雄先生の1day合宿にも2度、参加した。私の瞑想体験を少し書いてみようと思う。

マインドフルネスとマインドレスネス

心は過去や未来に彷徨う。過去の嫌な出来事を思い出してイライラしたり、未来のことを心配して不安になったり・・・。そういう時、心は今ここではなく未来や過去にある。未来や過去は頭の中の概念であって、実際には無いものだ。現実にあるのは今だけ。未来はまだ無いし、過去は既に無い。だが心は過去や未来に彷徨う。頭の中の概念の世界に彷徨い、囚われる・・・。現実にある今に注意を向けることによって、心を今にあらしめる(存在させる)。瞑想は呼吸に注意を向け続けることによって、心を今ここにあらしめる(存在させる)。呼吸は常に今ここにある。過去の呼吸は既に無く、未来の呼吸はまだ無い。今ここにある呼吸に注意を向けることによって心を今ここに存在させるのだ。呼吸だけではない。五感によって感じ取っている感覚は常に今ここにあるものだ。呼吸や体の感覚を意識している状態、気づいている状態。これをマインドフルネスと呼ぶ。反対に心が今ここに無い状態、心が過去や未来、今ここではないどこかに彷徨っている状態をマインドレスネスやマインドワンダリングと呼ぶ。過去や未来のことを妄想し、囚われている状態で、無意識的に妄想していて、今に気づいていない状態だ。今だけが実際に存在する現実で、過去や未来は頭の中の出来事だ。

嫌な出来事があった時、それを何度も頭の中で反芻して、嫌な思いを何度も繰り返していることはないだろうか。嫌な出来事が第一の矢だとすると、反芻して嫌な思いをしているのは、第二、第三の矢である。第二、第三の矢は過去の嫌な出来事を思い出して嫌な思いをしている状態で、心が過去に彷徨っている状態である。心が今ここにないマインドレスネスな状態だ。
過去に心が囚われているマインドレスネスな状態に気づき、心を今ここに戻す。心をマインドフルな状態にする。
瞑想することによって、マインドフルネスを高めると、今に気づきやすくなって来る。

アウェアネス

瞑想のやり方はYouTubeで確認して欲しい。一般社団法人マインドフルネス瞑想協会 代表理事の吉田昌生先生の動画がおすすめだ。

瞑想し、呼吸に意識を向けていると、やがて意識が呼吸から思考や妄想に逸れていることに気づく。気づいたら、意識を呼吸に戻す。また意識が呼吸から思考や妄想に逸れるので、呼吸に戻す。その繰り返し。思考や妄想に逸れた意識を呼吸に戻す体験を繰り返すことによって、気づく力(アウェアネス)が養われる。

脱同一化

マインドレスネスな状態の時は、思考や妄想、ネガティブな感情に囚われている時だ。怒り、憎しみ、恨み、嫌悪・・・。こうしたネガティブな感情から離れ、距離を取る。「怒り」を対象化し、客観的に見て、離れたところから対象化された怒りを眺める。怒りに囚われ、自分と怒りが同一化した状態。そこから抜け出すことを脱同一化と言う。

手放す

瞑想を続けていると執着を手放せるようになってくる。例えば、憎しみや恨みは、憎い人への執着だ。心は憎しみや恨みに囚われ、頭の中で憎い人のことを何度も反芻し、辛い思いをする。憎い人に心が縛られてしまっている。憎い人への復讐に費やす時間も相手に費やす時間だ。憎い人に時間が奪われている。私はここで気づいた。「心が恨みに支配されている!恨みの支配から抜け出さねば!」こうして恨みの支配から抜け出し、憎い人への執着を手放すことが出来た。
瞑想を続けていると執着も手放しやすくなってくる。私が恨み、憎しみを手放すことが出来たのも、瞑想のおかげだと思う。


サティを入れる

マインドフルネスとはパーリ語の「サティ」の英訳だ。「サティ」は日本語では「気づき」と訳される。思考に囚われていたら、サティ(気づき)を入れ、思考の後続切断を行う。思考や妄想に囚われ、苦しんでいるのは第二、第三の矢が刺さっている状態だ。サティを入れ、思考を断ち切り、思考の後続切断を行う。瞑想している時も、そうでない時もこれを行う。

評価、判断せず、ありのままに見る

瞑想の際、呼吸や体の感覚を評価、判断せずありのままに見る。「評価、判断せず、ありのままに見る」とは対象を言語化せず、ありのままに見るということだ。言語=思考は頭の中の概念の世界だ。人間は五感で感じ取ったものを言語化し、思考し、頭の中の概念の世界を作り上げてしまっている。これは現実の世界をありのままに見ていない
。「ありのままの世界」を、「言語化した世界、思考の世界、頭の中の概念の世界」に変換してしまっている。瞑想の時は、対象を評価、判断せず、ありのままに見る。言語化せずにありのままに見る。対象を感じるままに感じる。ありのままに感じる。

「何もしない」

瞑想中「何もしない」。何もしないでいると自然と呼吸や体の感覚が感じられてくる。ありのままに感じ、ありのままに見る。

私が体験した瞑想の体験の中で比較して深かった瞑想体験

・座って瞑想を行っていた時、「無になる」と思い、そうした。その無になると思った瞑想の最中「観察している意識」とその「観察している意識」の対象である体の感覚がふたつあった。どれくらいか時間が経つと「思考している意識」が生じてきた。「意識を消滅させなきゃ!」と思い、無になり、その「思考している意識」を消滅させた。「観察している意識」と観察対象であるふたつの体の感覚だけになった。

・座って瞑想を行っていた時、「集中できない自分」とそれを「観察している自分」がいた。「集中できない自分」には集中できないことの焦りがあった。焦りの感情があった。「観察している自分」が「集中出来ない自分」に「集中出来なくていいんだよ」と優しく声をかけてあげていた。
「集中出来ない自分」と「観察している自分」。ふたつの意識があった。これは、マインドフルネスサロンのMelonのインストラクターによると、デュアルアウェアネス(二重意識)と言うらしい。

・瞑想していない時のことだ。不快なイメージが3つ頭に浮かんでいた。それらのイメージを距離を取って眺めている「観察している自分」がいた。不快なイメージを対象化していた。不快なイメージは3つとも、「観察している自分」とは距離があり、離れていた。「観察している自分」の意識は不快感を全く感じていなかった。「不快なイメージ」から「自分」が脱同一化されていた。「不快なイメージ」と「自分」が完全に別れていた。

ジャーナリング

ジャーナリングで自分の思考の癖に気づいた。いくつか気づいた。その中には21年来、私を苦しめていた思考の癖もあった。その思考の癖に気づくことによって、その思考の癖が原因で生み出される苦しみから抜け出すことが出来た。具体的には話せないが、ジャーナリングによって思考の癖に気づいたり、ひらめいたりすることがある。思考と距離も取れることがある。今までに何度か、ジャーナリングによってひらめきや気づきを得た。
瞑想の効果を期待しない。これはジャーナリングも同じで、ジャーナリングを行うことによって、ひらめきを求めたり、思考の癖が明らかになることを求めたりはしない。そういったことは求めず、ジャーナリングを行う。

「1日10分で自分を浄化する方法 マインドフルネス瞑想入門」

マインドフルネス瞑想の本でおすすめなのが、吉田昌生先生のこの本だ。この本で瞑想について理論的な理解を深め、瞑想を実践する。瞑想の理論と実践は車の両輪だ。瞑想を実践し、体感、体得してから本を読むと、理論的な理解が深まる。理論的な理解は瞑想を実践する上で役に立つ。この本は平易な言葉でマインドフルネス瞑想について書かれている。瞑想を実践してしばらく経ってから、この本を読むと、「ああ、そういうことか」と新たな理解が得られる。


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