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「学び方を探す旅〜主体性と自分ごと〜」

7月にトークセッションをすることになりましたー😊

まちがキャンパスとなり,「学ぶこと」が
新しい自分、仲間、知識、居場所との出会いとなる。
学び合うことで「まちづくり」に繋がる、西宮の新しい学校のカタチです。

こちらが決まってから、頭の中でエンドレスで流れているのはこの歌🎵
3人が思い描く「学びの旅」がどのように交差して,
どこに向かうのでしょうか⁉️・・・自分でもドキドキです😆笑

🟧学びの「主体性」って⁉️

学校ではそろそろ個人懇談が実施される時期だと思います。そこで当然のように話題に上がるのが通知表(あゆみ)。教科ごとに観点別で3段階や5段階でつけているところが多いのではないでしょうか⁉️
(♯通知表について言い出すとスーパーエンドレスに熱くなってしまうので,今回はそこスルーで🥹)

観点の一つに「主体性」という言葉が。
もう一言「一体何やねん😤」に尽きます。

これまでも通知表はつけてきましたが,やっつけ仕事以外の何でもありませんでした。学校の授業でやっていることのほとんど(もう全てに近い)は与えられている課題です。それに対して一生懸命頑張ったことを「主体性」としていいの⁉️疑問を持っている先生もいれば,もう付けることが当たり前で考えていない先生もいます。疑問を持っていたけれど,だんだんとそれが当たり前になって割り切っている先生もいます。

我が子の通知表を見て,お父さんお母さんはどう思っているのでしょうか⁉️
主体性の観点に「A」がついていたら,主体的に学んでいると思っているのでしょうか⁉️あくまで「与えられた課題に対して一生懸命取り組んだ」という一つの事実に過ぎないということを理解しなければなりません。
(♯もちろん,頑張ったことは素晴らしい!)
(♯一生懸命やったことも素敵なこと!)
ただし,その動機が「成績を上げるため」とか「やらないと先生に怒られるから」だったとしたら,どうでしょうか⁉️悪い成績を取ると「お母さんやお父さんに怒られる」から,「塾に行かされるから」頑張っているのだとしたら⁉️もう学びに対して「主体性」の「し」の字もありませんね😰

人は
「与えられ続けると意欲をう失っていく」
「与えられ続けた人間は,いずれ与え方が悪いと文句を言うようになる」

と,工藤勇一氏がどこかで話してました。

学校教育では「主体性」を育てるはずなのに,課題を与え続ける今の仕組みでは,真逆の「他責思考」を生み出す装置でしかありません。
その状況で,子どもたちが自ら学ぶように工夫しなさいと先生たちは求められるわけです。矛盾しかないわけで,当然真面目で一生懸命な先生ほど追い詰められていくという悪循環に陥ってしまっていますね。

🟧自分で決めて,失敗する‼️

自分で決めずに,失敗するから「先生や親のせい」になります。
先生や親のせいになるから「失敗させないように」します。
失敗体験がないから「挑戦しない」ようになります。
挑戦しないから「挑戦する人の失敗を笑う」ようになります。
結果,みんな自分から動かず誰かのせいにするようになります。

全ての根幹にあるのは「自分で決める」こと。
我々大人はそれを尊重して、信じて見守ること。

そこまでできてやっと「主体性」の議論の入り口に立てるはずです。


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