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「マティアス&マキシム」を見る(3月21日(祝))

昨日寝た時間  :24時半
今日起きた時間 : 7時10分

今日は休日だけど出勤しなくてはならない。7時10分に起きて、7時半に家を出る。オフィスには今日は誰もいないから、ベレー帽を被って、髭も剃らずに出勤。

9時から14時半まで、ろくに休憩も取らずにとにかく集中して働く。明日、山口で仕事の案件があり、15時過ぎの新幹線に乗る。新幹線に乗る時間はなんと4時間半弱。長い。

こういうときにしか読めない本を、と思い、鈴木涼美「AV女優の社会学」を新幹線のなかで読む。通勤の在来線では、この本は横隣りの人に見られたら気まずいし、家でも読めないので、これまで読めていなかった。新幹線では隣に人がいなければ読めるだろうと思い、指定席で切符を買うときに人がいないことが確認できたので、列車に乗り込んでから読むことにする。本を読むまではBLUE NOTEのプレイリストを聞いていたのだけど、なんだかそんな感じの本ではないので、APHEX TWINに切り替える。

楽しみにしていた本ではあったのだが、正直いまいちな感じで、途中に午睡を挟みつつもぱらぱらと一応最後までページを捲って、もうそれでいいやあ、と読むのを辞めてしまった。何だか、何も書かれていないような気がした。会社員の仕事よりも、没入感が強く、ロールプレイングゲーム的に自己演出をしていく様が書かれていたように思うし、それでも自分を自分の意志で放る、ということはどの職業でも変わりがない、というのも分かった気がする。特別ではなく、他の職業と変わらない、という側面がしっかり描かれていたように思う。それでも、この本にはなぜだか何も書かれていないと感じた。僕はこの本に何を望んでいたのか。

何せ、4時間も新幹線に縛り付け、ということなので、幾つもKINDLEに映画をダウンロードしてきていたので、そのうちの一つの「マティアス&マキシム」を見る。こまめに映画を見ることなんてできなくなっているけれども、グザヴィエ・ドランとフランソワ・オゾンと岩井俊二は折を見てみるようにしている。

自分のなかでは、「君の名前で僕を呼んで」の流れもきっとあったのだとう、という気がする。因みに、ダウンロードした映画のなかには「アデル、ブルーは熱い色」もある。

「君の名前で僕を呼んで」に比べると、比喩がストレートで分かりやすい。恐らく、僕がグザヴィエ・ドランを好きな理由がそこにある気がする。音楽とか、目線とか、今回で言えばいつも自然にあるオフィスの観葉植物とか。これは、関係性が変化するかもしれない話で、グザヴィエ・ドランの永遠のテーマであろう家族とセクシャリティの両方をこれまでで一番ストレートに打ち出した映画な気がした。誰が見ても、恐らくミスリードしない(好きになるかならないかは別として)、とても分かりやすい映画だった。没入してみることができた。主人公の痣とは、どういう意味だったのか。何かの印の隠喩だとして、しかし、それが当然として自分も周囲も認めてればそれは何のメタファーにもならず、むしろ生身の血の方がショッキングに伝わる。しかし、可視化させ、顕在化させればそれは痛々しい跡として露見させる。この映画での痣のことを考えると、社会における許容性を測っているような気がする。

全くグザヴィエ・ドランに似つかわしくない気もするけど、僕はこの映画を見たあとで、タモリと赤塚不二夫の「俺たち、こんなに好き同志なんだから、愛し合えるんじゃないか」といって、トライしてみた話を思い出していた。それも、何だか美しい話だ。そして、「君の名前で僕を呼んで」でエリオのお父さんが最後の方で言っていた「自分が試みなかった過去」にも符号する気がする。

明日の帰りは何も見て帰ろうか。期待していないけど、「ジオラマボーイ・パノラマガール」を見るか、それとも持ってきている幾つかの本を読むか。

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