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『珈琲の世界史』との格闘

序章と終章を除いて十章で構成される『珈琲の世界史』、その第一章を読み進めながら、私は激しく後悔していた。

本書の内容を面白く感じることが、まるでできずにいたのだ。

それもそのはずである。

珈琲を飲むことは年に数えるほど。私にとってコーヒーとは眠気を覚ますために飲むものであり、インスタント製品で十分と感じる”違いのわからない男”なのである。そんな私にとって、本書を読む作業は眠気を誘引する以外の何ものでもなかった。

そんな私がなぜ『珈琲の世界史』を手にしたのか。

長くなるので細かな経緯に関しては割愛するが、文章力向上を目的とするオンラインコミュニティの課題図書に本書が含まれていたからだ。

さておき、私は本件を、

『人は関心をもてないモノゴトに対して、とことん非能動的になる生き物である』

『課題図書における本の選定は慎重に行うべきである』

以上の二点を教訓にすることで闇に葬ることを画策しはじめていた。

言い訳を繕いながらも、せめて基礎理論くらいは抑えておこうと考えた私はコミュニティにアップされている講座動画を視聴することにした。

ヒントは、そこにあった。

”情報に対する自分なりの切り口と飲み込み方、そこにオリジナリティが宿る”

私はもう一度『珈琲の世界史』と対峙した。そして、本書を『珈琲における体験価値をあげる物語の本』として切り口を定め、私にとって関心の強い”物語”という要素をキーにして珈琲との再接続を試みた。

そうして、私は珈琲の体験価値を変えるであろう3つの物語を纏めた。

1.珈琲豆と人類の歴史
珈琲が確実に飲用された記録が残っているのは15世紀ごろのこと。お茶(5000年)やカカオ(4000年)の歴史と比べると浅いが、珈琲豆の原料であるコーヒーノキ属は1400万年以上も前に出現している。そのため、我々の太鼓の祖先はお茶やカカオよりも先に珈琲に巡り合っていた可能性があるとも言われている。

2.豆から一杯のコーヒーが生まれるまで
一杯のコーヒーができあがるまでの加工過程には壮大な物語がある。コーヒーは豆の品種とブレンドの比率に加え、産地、栽培から精製方法、焙煎の仕方、抽出方法と、味やコク、香りに影響を及ぼすパラメータが多い。変わらない日々が続くように感じられても同じ日は存在しない人生のように、大人にしか分からない奥深い味わいが一杯のコーヒーに秘められている。

3.間と結びつく珈琲の物語
革命によって激動する17世紀ごろのヨーロッパにおいて、コーヒーハウスやカフェは「市民交流の場」として社会に多大な影響を与え、市民階級へのコーヒーの普及のきっかけを担った。
現代においてもカフェは様々な形で私達の憩いの場となっている。親しい人とのお茶会、お気に入りの小説を読みながらゆっくりとくつろぐ時間、スタバでのMacBookなど、カフェの利用方法は多岐に渡る。もちろん、カフェ以外にも職場の休憩所や私的な空間での一時の隙間を埋め、その体験価値を引き上げる役割としてコーヒーは重要なファクターとなっている。

『積みあげたものの重さ』、『唯一無二性(オリジナリティ)』、『日常への接続性』。

体験価値をあげる物語として、これらの要素を含めることはとても有効である。

あれだけ苦戦した本からそんな発見ができたことに満足した私は一仕事終えた心持ちで椅子から立ちあがった。そして、ある種の使命感をもってキッチンへと足を運ぶ。

戸棚を探る。

見つかったのは、インスタントコーヒーが二種類。

一つは、いつも飲んでいるネスレのゴールドブレンド。

もう一つは『京都祇園 京町珈琲』と書かれたフィルター付きの簡易なドリップ抽出式のもの。黒と金色の個包装のパッケージからは、いかにも”ちょっと贅沢そうな雰囲気”が伺える。

普段の私ならば前者を選んだことだろう。しかし、私は迷わず後者を手にとった。今の私ならば、これを飲むに値すると感じられたのだ。

封を切り、折りたたまれたフィルターを取り出す。フィルター上部を軽く指先で弾き、コーヒー粉をふるい落とす。キリトリ線に沿って包装を切り取っていくと、珈琲豆特有の芳醇な強い香りが漂ってきた。

パッケージの裏側を見て、豆の産地を確認する。続いて、記載された手順に沿ってカップにフィルターをセットする。お湯を注ぐと、ドリップコーヒー特有の泡溜まりが浮かび、立ち込めた湯気とともに再びコーヒーの香りが昇ってきた。濃度が薄まったおかげか、ほどよい濃さの、大人の香りをじっくりと味わいながら、泡溜まりが弾けるのを見つめ、30秒かけてコーヒー粉を蒸らす。

数回に分けて適量のお湯を注ぎ入れ、フィルターから滴る焦げ茶色の雫までを、できるかぎりカップに注ぎ、コーヒーはついに完成した。

僅かなことではあるが、いつもよりも丁寧に入れたコーヒー。カップを持ちあげ、湯気から漂う香りを充分に嗅覚で味わいながら、私は京町珈琲を口に含んだ。

ソムリエのごとく舌の上でコーヒーを転がす。

正直、コクとか味の深さはよく分からない。分からないのだが、なんとなく美味しく感じるような気がする。いつもよりも苦味と酸味が薄く、まろやかな味。

これがプラセボ効果によるものなのか、コーヒーの種類や入れ方の違いによって生じたものを私の舌が感じとったのかは定かではない。ただ、色々と思いを巡らせながら、本来コーヒーはお茶と同じく日常に安らぎの間を与えてくれるものだと、今さらながらに気がついた。

そして、それは物語も同じなのではないか。物語において必要不可欠なのは”浸れるだけの時間的余裕”、つまりは間である。

そんなことを感じながら飲むコーヒーは、やはりいつもより少し違う味がするように感じられた。

あらゆるモノゴトが加速することを求められる現代社会に置いて、ゆっくりとコーヒーを味わいながら、珈琲の物語に思いを馳せるひとときに、私は少しばかり酔いしれることができた。

コーヒーの味について”違いのわかる男”になれたのか定かではないが、コーヒーブレイクの味わい深さについて、ほんのちょっぴり”違いのわかる男”に近づけたのかもしれない。

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