「適応障害か…」
診断を受けたけど、納得するもしないもない。
そもそも初めての経験だから自分が今どういう状況なのか分かっていない。
ただ苦しくて、何も頑張れない。
よくあるホルモンバランスの乱れとか一時的な精神不安定ではないのだけは分かった。
明らかにいつもと違う感覚。
仕事中は知らぬ間に気が抜けていて、話も入ってこなければ返事もできない。
ぼーっとしたくてしてるじゃない。
頑張りたくても頑張れない。
何が嫌って訳では無いけれど、もうとにかくこの職場環境にはうんざりだった。
毎日ここへ足を運ぶことが億劫で、出勤する度に「今日も来てしまった…」という軽い絶望感を味わっている。
やっとのことでこのことを親友に打ち明けると心療内科を勧められた。もちろん初めて行く。
患者も医師も看護師も普通の病院と何ら変わらない様子で、「こんな感じなのか」とキョロキョロしていた。
いくつか質問をされて淡々と答えた結果、私は適応障害と診断された。
医師からはこの診断書を職場へ持っていくようにと言われたからその通りにした。
正直、こんな紙っぺらで何が変わるっていうんだと私は少し投げやりになっていた。
とりあえず上司に申し訳なさそうな顔をしながら提出してみることにした。
すると上司は「あ〜君もか。まぁこれって気の持ちようだからね。病は気からっていうし、心の病気は考え方で治せるから!」と。
分かっていた。
こんな紙っぺらを出したところで、どうせ上司には響かないなんてことは。
分かっていたけれど、私のこの精神状態を赤の他人が勝手に軽く見ているようで、この上ないやるせなさを感じた。
もう正直上司に対して怒りとか反抗とかいう感情はとっくの昔に置いてきている。
最近は呆れしかなく、このときも最上級の呆れしか感じられなかった。
心療内科を勧めてくれた親友に後日談としてこのことを話すと突然海へ連れていかれた。
なんで海?と聞くと、自然には人間を超える力があるんだよ とよく分からない返事をもらった。
電車で小一時間くらいかけてわざわざ少し遠くの海へ向かった。
駅を降りて割とすぐの場所に海があった。
突然のことだったから海へ行くような格好もしていない。服や靴が汚れるからと、私たちは海から1番離れた砂浜の端に腰掛けて音を聞いていた。
そういえばYouTubeの睡眠導入BGMでこんな感じの音聞いたことあったな。
最近は眠れず、そういう動画に頼ったりしていた。
砂浜の小さな凹凸で波の最終地点は見えなかった。
ふと「海に行く」はこんな遠くから眺めることじゃないと思った。もっと近くで海を見て音を聞いて、なんなら裸足にでもなって、もっといえば海で泳ぐことなんだと。
私は親友を他所にもっと海に近い場所に腰掛けた。
少しの距離なのにこんなにも音が違う。
音が大きく、心地よいとは別に少しだけの恐怖を覚えた。
目を瞑るとそのまま波に呑まれてしまいそうなくらい。
でもこのまま呑まれてもいいと思った。
この流れに乗って海と一緒になっちゃっても悪くない。今なら後悔なくぱっと消えられるかもしれない。
さっきGoogleマップで見たときはあんなに小さな海岸だったのに、いざ目の前にするととてつもなく広大な景色に見えた。
私が生きてる社会はもっともっと小さくて、私なんてもっともっともっと小さな人間なんだと自覚した。
数人のサーファーが波と戯れていた。
もし私がサーフィンをするとなれば、メイクが落ちちゃう、日に焼けちゃう、髪や肌が荒れちゃうなどと、一体どこの誰のことを気にしてるのかよく分からない懸念が邪魔をするはずだ。
そんな懸念を一切捨てて海に入ってみたくなった。だけど入ってみたくなっただけで、実際にそんな勇気はなかった。
地球が起こす自然現象に身を任せてみるなんて、本来人間があるべき姿なのではと、サーファーに尊敬すら感じてしまう。
時計ではなく潮の満ち干きで時を感じたいし、仕事のメールなんて気にせず波の音だけを聞いていたい。
そんな瞬間ですら仕事のメールは届く。
一体どうしたら。
こんな広大な景色の中、近くに誰もいない砂浜にぽつんと座って、私は嗚咽するほど泣いていた。
綺麗な景色を見て涙を流すことはあったけど、嗚咽するほど泣きじゃくることは今までに1度もなかった。
単なる感動や感激ではなかった。
映画やドラマでよくあるような海に向かって叫ぶほどの気力も、海岸をのんびりと歩くような穏やかさもなく、ただ海の近くに座って海を見て、音を聞いて、泣くことしかできなかった。
ポンポンと肩を叩かれ、顔を少し上げると親友の足元が見えた。
「限界迎えてたんじゃない?」
早々に私は退職した。
色々言ってやりたいことはあったけれど、それすらも面倒くさい。何せ私には診断書という武器がある。紙っぺらなんかじゃない。
「これが全てだ」と言わんばかりに診断書を提出した。
無論上司は「適応障害は1番軽い症状で…」とよく分からない日本語を誰かに喋っていた。
これが逃げなのか、前向きな退職なのか分からない。
でも、海を目の前に嗚咽するほど泣きじゃくっていたのはあの広い海岸で私だけだった。
※このお話はフィクションです。
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