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子ども向け映画じゃない『劇場版ミッフィー どうぶつえんで宝さがし』が私に教えてくれた、大切なこと。

子どもが生まれる前、私は「子が小さいうちは絶対にYouTubeやテレビを見せないぞ!」と息巻いていた。
YouTubeやテレビを目的もなくつけ、ただ観せているだけというのは、子どもにとってよくない、特に小さければ小さいほどそれが与える影響は大きい、ということをなんとなくの知識として知っていたから。

だけどそんな息巻いていたのも束の間、我が家では早々と、いわゆる”子ども向け”と呼ばれる番組や映画にお世話になっている。

お散歩に行ったりもできなくはないけれど、今の時期、大人でもうだるような暑さの中、乳児をベビーカーに乗せて出歩くことはそうできない。おもちゃで遊ぶのもまだ難しい。絵本も、ずっと読み続けてあげるには限界がある。そしてこのご時世ということも、もちろんある。
全て子の時間軸の中でこなさなくてはならないワンオペでの家事育児は、想像してた以上のマルチタスクで、どうしても一緒に遊べない時間だってある。

必然的に子の世界は、ほぼ私と二人きりで過ごす家の中だけとなり、しかもまだ自分一人でうまく動けないから、景色もたいして変わらない。刺激が少ない毎日を過ごさせてしまっていることに、もやもやとしていた。


「なんでも良いから、好きなものが早く見つかると良いね」と、常々夫と話している。好きなものが見つかれば、それが自分を守ってくれたり助けてくれたりすることもあるし、世界をもっと楽しむことができると思うから。
本でもスポーツでもゲームでも、虫でも花でも宇宙でも、乗り物でも恐竜でもぬいぐるみでも。人を傷つけるもの以外なら、なんでもいい。
何を好きになるかわからないから、いろいろなものに触れる機会を作ってあげたい。こちらが「良くないもの」と判断して排除したものの中で選ばせるのではなく、ありとあらゆるものに触れ、その先に自分で「好き」と「好きじゃない」を決められるようになってほしい。そんな風に私たちは考えている。

この哲学でいうならば、私たちにとってテレビや映画やYouTubeも、一概に悪とは言えないことになる。だから私は、私が今抱いている悩みを解決する手段の一つとしても、それらにはとてもお世話になっている。


様々な子ども向け番組や子ども向け映画を観てみた結果、我が子に今一番響いているのは、どうやら『劇場版ミッフィー どうぶつえんで宝さがし』のようだ。
あらすじは次のとおり。(Amazonより引用)

メラニーとグランティといっしょに動物園へやってきたミッフィー。そこで待っていたのは、おとうさんとおかあさんが計画してくれた“宝さがし"でした。宝ものへとつながる5つの手がかりは「宝さがしの歌」の中に隠されています。「宝さがしの歌」をたどって、手がかりとなる動物たちを探しにでかけます! さまざまなトラブルが起こりながらも1つずつクリアしていくミッフィー。そんなミッフィーたちを最後に待っていた「宝もの」とは・・・?

茶色いうさぎのメラニー、オレンジのこぶたのグランティ、犬のスナッフィー、そしてご存知白いうさぎのミッフィーが、動物園で宝探しをするというお話。
ストーリーはとてもわかりやすく、キャラクターもみな可愛らしい。劇中なんども流れる「宝さがしの歌」は、終盤になると思わず口ずさんでしまうほど中毒性のあるメロディーとリズム。この歌が我が子にクリティカルヒットしたらしく、バウンサーに乗って観ているときなんか、この歌が流れるたびにバインバインと弾み、「きゃー!」と「ひゃー!」の中間くらいの歓声をあげて全身で喜びを表現したりする。「この歌、好き!」というのがこちらにとてもよく伝わってきて、それが嬉しい。(ただこの曲はあまりにも短く、ものの15秒で終わってしまう。私に技術があればうまいこと編集して3分くらいの長さにして存分に聴かせてあげたいところなのだけど。)

♪  たからをさがしに みんなで行こう
 たからさがしは たのしいね
 5つのたから みんなでいっしょに
 さがしに行こう ひとつずつ

動物探しのお題は、おとうさんとおかあさんから出題される。一つ目のお題は、黄色いどうぶつ。

♪  まずはじめは黄色いどうぶつ 黄色いどうぶつさがしてね
 きらきら黄色のどうぶつ見つけたら 次にすすみましょう

ミッフィーたちは途中、ワニやホッキョクグマを見つけたりしながら、「ワニは緑だから黄色じゃない」「ホッキョクグマは白い」と、動物や色の名前を丁寧に教えてくれる。また、寝ているホッキョクグマをマネして「みんなもあくびしてみて!」だったり、犬のスナッフィーが迷子になったときは「見つけたら名前を呼んで教えてね」だったりと、要所要所で観ているこちら側に話しかけてくれる。子どもたちが飽きないような工夫のひとつなんだろうなぁと関心しながら、我が子が画面に向かって「スナッフィー!」と名を呼ぶところを想像しては悶絶している。(まもなくそんな日も来るのだろう。そんなのって…そんなのって…可愛すぎる!!!!!)

1番目は黄色い動物、2番目はしましまの動物、3番目は素早い動物ときて4番目は「4の数字」最後は「大きな音」と、動物なのかも定かではない問題にだって一生懸命取り組むミッフィーたち。宝ものを手に入れるための手がかりとなる動物を探し、最後には無事宝ものを手に入れてめでたしめでたしとなるのだけれど、何度も観るうちに私はこう思うようになった。

この映画は、決して「子ども向け」のものではない。

ミッフィー、メラニー、グランティはみんなお友達。
この映画におけるそれぞれのキャラクターを簡潔に説明すると、メラニーはやや勝気でおしゃまさん。グランティはみんなより年下で、まだまだできないことやわからないことがたくさんある妹キャラ。ミッフィーはストーリーテラー的な役割も担っているからか、他の二人(二匹?)に比べると良い意味で目立つところが少なく、ただただ優しいみんなのお姉ちゃん、という感じ。
もう10回くらいは観ているけれど、私はこの映画に出てくるキャラクターたちから大切なことをたくさん学ばせてもらった。

例えば。
グランティは、わからないことを「わからない」と言えるし、できないことも「できない」とちゃんと言える。これって、とっても難しいことだと思う。大人になればなるほど、「わからない」や「できない」は言えなくなるし、それを言わせない環境におかれたりもする。
二番目のお題である「しましまのどうぶつ」を探す際、グランティは少しモジモジしながらも、きちんと「しましまがわからないの。しましまって何?」とミッフィーに質問する。
ミッフィーは「え?しましまはしましまだよ」と答えになってない答え方をすることもしないし、「なんでそんなことがわからないの?」とバカにすることももちろんない。
「虹がしましまよ。色が全部ちがうしましま」とグランティは教えてもらうのだ。
私は虹をしましまと思ったことはなかったし、「色が全部ちがうしましま」という表現もしたことがなかったので、そういう答えもあるのかと目から鱗だった。

また、グランティは「さようなら」がきちんと言える。これはこの映画を通して、私が一番グッとくるポイントだ。
いろいろな動物に出会う三人(匹)だが、ミッフィーもメラニーもそれがお目当の動物ではないことがわかった途端、「早く見つけたい」という思いからか、「これは◯◯じゃない。行きましょう」と言ってそそくさと次の場所へ向かってしまう。だけれどグランティは「待ってー!」と言いながらもその動物に「さようなら、◯◯さん」とお別れの言葉をきちんと伝えることを決して忘れずにするのだ。(乗っていた三輪車にも「ばいばい、三輪車さん」と言う)

挨拶は、まじで、基本中の基本だ。
私はこれがきちんとできているグランティにぞっこんだし、勉強させていただきましたという気持ちで尊敬すらしている。

ミッフィーとメラニーからは、相手が「怖い」や「苦手」と思っていることを「大丈夫」に持っていく、その導き方を教えてもらった。
フクロウのおうちに入ったとき、真っ暗が怖いグランティは入るのを渋る。「無理して行かなくても良いよ」と言うも、グランティは行きたがり、入ってみたけれどやっぱり怖い。するとミッフィーは、目をつぶることを提案する。目をつぶったグランティに「暗闇が見える?」と問うと、グランティは「何にも見えない」と答える。

ミッフィー(以下、ミ)「暗闇が見える?」
グランティ(以下、グ)「何も見えない」
ミ「暗闇が見えなければ怖くない?」
グ「うん!怖くない!」
ミ「よかった!だったら目をつぶったままでいればいいわ」

そして手を繋ぎながら歌いだす。

♪  なにもみえない とても暗い中
 ふるえてないで 楽しい歌を歌いましょう 
 フクロウのように ホッホー

するとグランティは安心した顔で一緒にホッホー言いまくる。
だけど途中でまたあの犬(スナッフィー)がどこかへ行ってしまったことに気付く三人(匹)。ミッフィーとメラニーはフクロウのおうちの中を探し回るけれど、目をつぶったままのグランティは一人取り残されてしまう。

メラニー(以下、メ)「目をつぶったままだと探せないでしょ?目を開けて?」
グ「目を開けたら暗闇が見えて怖いもの」
ミ「つぶってると何が見える?」
グ「なにも」
メ「全部真っ暗?」
グ「そう」
ミ「暗闇と同じじゃない?」
グ「そう!暗闇とおんなじ」
メ「じゃあ、目をつぶってるときも怖いと思う?」
グ「ううん」
ミ「だったら、暗闇で目を開けても平気でしょう?」
グ「うーん…」
メ「片方開けてみて?何が見える?」
グ「メラニーが見える。それにミッフィー!」
ミ「つぶってる方の目はどう?」
グ「真っ暗なまま」
ミ「まだ怖い?」
グ「ううん、そうでもないみたい」
ミ「だったらもう暗闇は平気よ!」
グ「…ほんとに?」
メ「もう片方の目を開けて?」
ミ「どう?怖い?」

そして両方の目を開けたグランティは「もう暗闇でも怖くないわ!」と笑顔になるのだ。

暗闇が怖いなら目をつぶればいい。目をつぶれば不思議と怖く無くなるけれど、何も見えないのは暗闇も同じ。それなら楽しい歌を歌ってから、片方ずつ目を開ければ、暗闇も怖く無くなっている。

ことわざみたいだな、と思う。
我が子にもこれから、怖いものや苦手なものが色々と出てくるはず。子が本当に「怖い」と思うものに出会ったとき、私はきっと「平気だからやってごらん」とか「怖くないよ」というだけになっていただろうと思う。なんで平気なのか、なんで大丈夫なのか。そこまでの道筋を順序立てて一緒に歩いてあげることって、きっと大切なことなんじゃないだろうか。
ミッフィーやメラニーのような導き方で「怖い」を取り除き、「大丈夫」と感じさせてあげたい。
そして子がこのアプローチの仕方を身につけたら、怖くなったときも自分で自分を「大丈夫」の方へもっていけるようになるんじゃないかな、そうなったらそれは自分を守るための武器にもなるだろうな、と思ったりもしている。

この映画を観て、絵本作家の五味太郎さんが著書『絵本をよんでみる』の中で、「どの年齢にどの絵本があうとか、あわないとかいう、よく世の中で言われる絵本年齢論のようなもののナンセンスさ、無意味さ」ということについて話されていたことを思い出した。
子どもに与えられるものは、こちらが持っている一種の基準(難しいゲームやパズルは年長向き、積み木やボールなどの単純なものは幼児向け等)によって変化してしまっている、という文章を読んだとき、私はハッとした。たしかにそうだ、と思ったのだ。

使う側の幼児がクレームつけたりしないし、あまり深く考えないことも事実だから、そのままなんとなく、他愛ないものは子どもになじむっていうふうに、いわば文化化しちゃってるような気がするね。絵本もその文化観の中で、シンプル、単純なものを漠然と「幼児の絵本」としているような感じが満ちている。

五味太郎・小野明(2006),絵本をよんでみる 平凡社

五味さんはディック・ブルーナの『うさこちゃんとうみ』がテーマとなっている章で、それを「シンプルであるが故にとんでもない複雑さをもった本」と紹介している。わざと複雑に見ているのではなく、自然に複雑に見えてくる不思議さのある絵本。でも絵本てそういうものだよね、とおっしゃっていて、この映画も私にとってはその感覚に近い作品だったなと思う。

子ども向けと言われているものから、大人の私はとてもたくさんのことを得たし、単純にこの映画を好きになった。

◯歳向け、子ども用、大人用。
赤ちゃんにはまだ早い。大人にはつまらない。

それら不確かな設定によって、見落としてしまっている大切なことって、案外たくさんあるのかもしれない。

劇場版ミッフィー どうぶつえんで宝さがし』はAmazonプライムにあるので、もし興味が湧いた人はぜひ。小さな発見があるかもしれないよ。全然楽しくなかったとしても上映時間70分なのでそう無駄にはならないと思います。あときっと、観終わったら「♪たからさがしのうた」が歌えるようになってるよ。


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