『忘れもの』 【最終話】 「忘れもの」
******
森の入り口を案内するように、シロツメクサが元気よく咲いている。
子供の頃、春の森が好きだった。
花の匂い、鳥の声、風に吹かれて草木が揺れる音。
その全てに色があり、華やかだった。
「変わんないなぁ」
アシナガの森に立ちながら、葉山ヒカルはひとりつぶやいた。
森には春の陽が放射線状に差し込み、まるで光のシャワーのように草木に降り注いでいる。
その昔、神武天皇がこの森で旅の疲れを癒やしたことがあるという言い伝えは本当だったのかもしれないと思うほど、「神々しい」という表現がしっくりくる場所だ。
ゆっくり森の中を歩くと、昔の記憶が身体の奥深くから蘇ってくるような感覚に襲われた。
葉山ヒカルは思わず足を止め、目を閉じて深呼吸をした。
頭の中を絶えず動き回っていた思考は止まり、胸のあたりがぞわぞわする。
瞼の裏側に、幼い頃の自分の姿が映り始めた。
それはとても暗い場所の中で泣いている自分の姿だった。
そして、手の平を眺めたり、その手を擦ったり、それらを何度も何度も繰り返しながら、ずっと涙を流し続けている。
心の中には穴が空いていて、楽しい思い出や愛された記憶がその穴から次々と落ちていく。
泣いている自分はその穴から落ちていく温かな思いや感情には気づいていないようだ。
「早く塞がなきゃ!」
思わず声が口からついて出た。
ハッと我に返って目を開けると、辺りは先程までと変わらず、春の陽が燦々と降り注ぎ、草木は元気よくその光を跳ね返していた。
森の道はデコボコしていて、小さな丘が何個もあるように見える。子供の頃はその丘のひとつひとつに名前をつけて遊んでいた。
大人になって見渡してみると、決して大きな森とは感じないが、子供の時分には、このアシナガの森がひとつの惑星なんじゃないかと本気で思っていたこともあった。
子供ながらに自分を守ってくれる安心な場所として、この森を捉えたかったのではないかと、葉山ヒカルは歩きながら考えていた。
しばらくすると、いつも一人で遊んでいた原っぱにつながる小道が見えてきた。
森の中にできたその広場には、スギゴケがまるで緑の絨毯のように広がり、周囲を囲んだ大きな樹樹の間からは空を眺めることができた。
たくさんの陽の光がその原っぱにはいつも降り注いでいた。
原っぱの真ん中あたりには樹の切り株があり、その切り株を椅子にして、毎日のように一人きりで遊んでいた。
「まだあるのかなぁ」
心の中でそうつぶやきながら、葉山ヒカルは原っぱに続く道を歩いた。
しばらくすると、天井から降りてくる光のカーテンと、その光に照らされて、周囲よりも一段と鮮やかな色をした緑の地面が目に飛び込んできた。
原っぱは、大自然が創り出す光のベールに包まれ、ひときわ守られているように見えた。
一歩ずつ、光の中に歩みを進めていった。
スギゴケが光に反射して足元を照らした。
葉山ヒカルの目が無意識に切り株を探していた。
切り株には、一人の少年が座っていた。
足をぶらぶらさせながら、シロツメクサを束にしながら遊んでいる。
離れたところからしばらく眺めていたが、声をかけないのもかえって怪しくみえるかもしれないと思い、葉山ヒカルは少年に近づいていった。
「こんにちは」
突然声をかけられ、少年の肩がびくっと上下に動いた。
「こ、こんにちは……」
小さな声だった。
逆光でその表情がきちんと見えないが、斜め下から見上げるような顔の角度と、少年の放つ空気感から、不安な気持ちが伝わってきた。
「きれいな花束だね」
葉山ヒカルは少年の手に握られたシロツメクサの束を指差して言った。
少年はさっとシロツメクサの花束を持った手を後ろに隠した。
子供の扱いがつくづく苦手だと思いながら、自分の顔が明らかに不自然な笑みをつくっているのだろうと想像した。
自分の子供ですらどれだけあやしても泣き止まないことに嫌気がさすほど、子供が苦手だと自覚している。
いや、子供が苦手というよりも、それ以上に、人とのコミュニケーションがそもそも面倒くさくて苦手なのかもしれない。
きっと、人に対する優しさとか愛情とか、そういう人間として持つべき温かい部分が自分には欠けているせいなのだろうと思う。
いずれにせよ、このままでは、変な大人が声をかけてきたと泣かれてしまうかもしれない。
葉山ヒカルは慌てて、少年に訊ねた。
「ここで誰かを待ってるの?それとも一人で遊んでるの?」
少年は少し間を置いて、答えた。
「おじいちゃんを待ってるの」
「そうなんだ。おじいちゃんはキミのお家から向かってきてるの?」
少年は首を横に何度か振った。
「じゃあ、おじいちゃんと待ち合わせ?」
また少年は首を横に振る。
「オオサワのおじいちゃんは……、ボクのお友達なんだ……」
少年は斜め下に目を落としたまま、そう答えた。
「オオサワ……さん? あ……、そうなんだ。その、オオサワさんは近所のおじいちゃん?」
少年は首を大きく横に振った。
葉山ヒカルはますます状況が飲み込めなくなった。
この辺で適当な相槌を打って退散するのもいいかなとも思ったのだが、不思議とこの少年のことが気になり始め、もう少し話を続けてみたいと思った。
「ふーん、そうかぁ。そのおじいちゃんとキミは仲良しなの?」
少年はすっと顔をあげ、少しだけ笑みを浮かべた。
「うん、そうだよ。オオサワのおじいちゃんは、いつも美味しいサンドイッチとカフェオレを持ってきてくれるんだ!とってもとっても美味しいサンドイッチなんだよ」
どうやら、そのオオサワという老人は、少年とは血縁関係はないものの、少年にとって大切な存在であることは間違いなさそうだ。
それにしても、家族でもない老人と少年がこのアシナガの森で一緒の時間を過ごしているということに、本当にそんなことがあるのだろうかと疑いたくなる気持ちが葉山ヒカルの心の中でどんどん前に出てくる。
「おじさんの名前は、葉山ヒカルって言うんだけど、キミの名前を訊いても良いかな?」
葉山ヒカルは、もっと深く少年の話を聞いてみたくなった。
「ノエル……」
少年は答えた。
「ノエルくんか。よろしくね」
ノエルと名乗ったその少年は小さく頷いた。
「おじさんも、小さい時にその切り株に座ってよく遊んでたんだぁ。ノエルくんは近くに住んでるの?」
「うん……。でも、お家にはいたくない……」
ノエルの顔から笑みが消えた。
お家にいたくないという言葉には、暗い色が見えた。
灰色よりもっと黒色に近い色が、その言葉の裏にあるように思えた。
葉山ヒカルの心が震えているような感覚を覚えた。
共鳴しているのか、微量の振動を胸のあたりに感じる。
「お家の人と喧嘩でもしたの?」
ノエルはうつむきながら首を横に激しく振った。
「お家にいても楽しくないんだ。誰もボクのことなんて好きじゃないし。ママだっていなくなっちゃったし……。おばあちゃんもボクなんかいなければいいって思ってるし。パパ……、あんまりおしゃべりしないからわかんない」
葉山ヒカルの胸が大きく震え、強い痛みが走った。
心臓の鼓動が外に漏れるのではないかと思ってしまうほど、激しく心が震えている。
「ねぇ、ノエルくんはママと一緒に暮らしていないの?」
葉山ヒカルは、こんなことは聞くべきではないと頭ではわかっていたが、自分の内側から突き動かされるようにノエルに訊ねていた。
「うん……。ママ、出ていちゃったまま、戻ってこないんだ。もうずっと……」
ノエルの顔から凹凸が消えていった。
表情がなくなったからなのか、内側の感情が心の声となり、ストレートに伝わってくるような気がした。
ノエルを見つめながら、葉山ヒカルは自分を残して去っていった母親のことを、ノエルの母親に重ねた。
重なる経験は、そこに残してきたはずの感情を呼び起こす。
孤独に押しつぶされそうだったあの寂しさが、葉山ヒカルの心にじわっと蘇ってきた。
「おじさんも、小さい時にお母さんがいなくなったんだ。それからずっと会ってないんだ」
ノエルの目がまん丸になってこちらを見ている。
「ずっと?」
ノエルが葉山ヒカルの顔を覗き込むように見ながら訊いた。
「そう、ずっと会ってない」
「寂しくないの?」
ノエルが不安そうな目で訊ねた。
「そうだなぁ……。ノエルくんくらいの歳の時には、とっても寂しかったかなぁ。毎日、お母さん帰ってこないかぁって泣いてた。でも、そのうち、寂しくなくなった……。うん……、寂しくなくなった……、のかなぁ……」
答えながら、「寂しくなくなった」と断言できない自分に葉山ヒカルは驚いた。
大人へと成長する道の途中で、ある時から母親がいないことを寂しいなんて思わなくなったと、自分では思っていた。だから、寂しいかと問われたら、寂しくないと迷わず答えてきたし、自分の心もそうであるのだと疑うこともなかった。
それなのに、ノエルの問いに、戸惑う自分がいた。
「おじさん、本当に寂しくないの?」
再び、ノエルが覗き込んでくる。
「……」
しばらく沈黙が続いた。
葉山ヒカルは必死に自分に問いかけていた。
本当はどうなんだろうか、本当の自分はどう思ってきたのだろうか……。
遠い昔に閉じ込めたものが、息を吹き返して自分の中で動き出している。
……。
……。
……。
「本当は……、おじさんはお母さんがいなくなってずっと寂しいのかもしれない……。寂しくないって、ずっと嘘ついてきたのかもしれない……。そう、俺は……、本当はずっとずっと寂しかったんだ」
どこからともなく、ウグイスの鳴き声が響いてきた。
甲高いその鳴き声が、樹の幹に跳ね返りながら森の遠くまでこだまするように響いていく。
自然と口をついて出てきた感情も、春の風に乗りながら、すっと空に向かって樹の間を螺旋状になって昇っていくように感じた。
空高くこの思いが届いたとして、寂しかった過去が消えるわけではない。
しかし、遠い過去に封印した素直な感情が、初めて表に出ることができ、思い切り呼吸している。
その時の自分を否定していたのもまた、自分自身であったことを、その感情が教えてくれているような気がした。
「おじさん、泣いてるの?」
ノエルの顔が目の前にあった。
自分の目に、大粒の涙が溢れ出ていることを葉山ヒカルは気づいた。
「涙が出てる……」
葉山ヒカルは、嬉しかった。
涙なんてもう一生流すことはないと思っていた。
喜怒哀楽の波は最小限にしてきたし、過剰に何かに反応することも、自ら押さえてきた。
感情の起伏は、それだけで自分を疲れさせるからだ。
だから、そうやって自分を押さえ、感情にも蓋をしてきた。
それ故に、感情に突き動かされて涙を流すことなんてないと思っていた。
でも、そんな自分から涙が溢れ出た。
ただそのひとつの事実が、まだ人間としての温かい部分を残していることを証明したようで、葉山ヒカルは嬉しかった。
葉山ヒカルは不思議だった。
これまで、幼い時からの孤独をずっと必死に隠してきたし、そうすることで自分を保てているのだと信じてきた。
しかし、こうしてノエルに問われ、自分の本心を図らずも打ち明けてみた時に、自分でも信じられないほどの安堵感が湧いてきたのだ。
そして、安堵したことで本来の自分を認められたような気持ちになった。
それがまた、何とも言えない安心感に包まれたのである。
どういうことなんだろう? 葉山ヒカルは必死に頭を働かせて理解しようとしたが、なかなか頭の中だけでは整理できない。
自分にとって否定すべき過去だからこそ、自分で蓋をして生きてきた。
それが、その蓋を開けた途端に、自らの心は軽くなり安心している。
これまで自分自身を守るために心にまとってきた鎧は、むしろ自らを苦しめる重石であったのだろうか。
ならば、自分がこれまで必死に守ってきた自らの生き方とはいったいなんだったのだろうか。
自分は果たして、正しくない道をずっと歩んできたということなのだろうか……。
葉山ヒカルは必死に自問自答を繰り返した。
「そのままでいいんだって……」
ノエルが足をブラブラさせながら言った。
「え?」
反射的に訊き返した。
「『そのままの自分でいいんだ』ってオオサワのおじいちゃんがボクに教えてくれたの。お母さんがいなくなったのはボクがいけない子だからだって泣いた時に、オオサワのおじいちゃんがそう言ってくれたの。だから、おじさんだってそのままでいいんだって、きっと、オオサワのおじいちゃんなら言ってくれると思うよ」
ノエルの顔に再び凹凸ができて、小さなほっぺたのコブが微笑んだ口元に押し上げられるようにこんもりと盛り上がっていた。
ノエルの微笑んだ顔は、とても美しかった。
「オオサワのおじいさんは、そんなことをノエルくんに教えてくれたんだね。とっても優しい人なんだね」
葉山ヒカルの言葉に、ノエルは嬉しそうな顔をしながら、首を縦に大きく振って頷いた。
「ボクは生きてていいんだって!ボクのことが大切なんだって!ボク、そんなこと初めて言ってもらえたから……」
ノエルがまた嬉しそうに微笑みながら、でも、今度は少し照れたような表情をした。
葉山ヒカルの視線に気づいたノエルは、ほっぺたをさくらんぼ色に変え、下を向いた。
しかし、下を向いたノエルの顔には温かな笑みが溢れていた。
オオサワという老人の優しさが、ノエルの冷えきっていた心を癒やし、人肌の温もりを取り戻させたのだろうと、葉山ヒカルは思った。
誰かに必要だと言われることが、人間にとってどれだけ大切なことか、葉山ヒカルは目の当たりにしているような気持ちになった。
自分もこれまで誰かに認められ、評価されたいと思って生きてきたし、そのために努力も重ねてきた。
しかし、それは、自分の暗い部分を悟られないために、人の評価を自分の鎧に変えてきたのであって、常に条件付きのものだった。
そうやって、評価される自分と、評価する相手との間で、無言の駆け引きを行いながら生きてきたのだと思う。
すべてが見返りを求めた関係だったのだと思う。
オオサワという老人がノエルに与えたものは、自分がこれまで駆け引きによって掴んできた仮染の信頼関係とは全く違う、見返りなど求めない無償の優しさであり愛情なんだと葉山ヒカルは理解した。
そして、それを頭ではなく、心の中心で受け止めたからこそ、ノエルの心はオオサワに開かれ、心から彼を信じているのだろうとも思った。
「おじさん、また、泣いてるの?」
ノエルが笑いながら訊いてきた。
「なんだかわかんないけど、涙が出てくるんだ」
答える葉山ヒカルも笑っていた。
顔は涙でずぶ濡れだが、そのかわりに心はどんどん晴れやかになっていくような不思議な感覚に包まれた。
自分が失ったと思いこんでいたもの、そして、自分がずっと探し求めていたものに、ようやく巡り会えたのだと、葉山ヒカルは感じていた。
その探しものは、どこでもない、自分の中にあったのだ。
自分の中にあったのに、自分自身で何重にも頑丈に蓋をしていたのだ。
「ごめんね……」
目を閉じながら、葉山ヒカルは自分自身にそうつぶやいていた。
春の陽射しがいっそう強く樹樹の茂みの間から降り注いでくる。
春の風に樹樹が揺られ、その度に光のシャワーもゆらゆらと波のように動く。
光を浴びた草花は、光の波にあわせてダンスをしているように見える。
ノエルと葉山ヒカルは、切り株の椅子に肩を並べて座り、森に広がる春を黙って眺めていた。
鳥たちが群れをつくって森の天井を横切っていく。
誰からもはぐれないように、等しい間隔を保ちながら飛んでいる。
「ノエルくん、今日はありがとう。そろそろ帰るよ」
切り株の椅子から立ち上がり、葉山ヒカルはノエルに言った。
視界の斜め下で、ノエルは足をブラブラさせながら笑顔を返してきた。
ゆっくりとスギゴケの絨毯の上を歩き、小道の方に向かった。
原っぱの端っこまで光のカーテンが続いて見える。
もう一度、ノエルに「さよなら」を言おうと、手を挙げながら切り株の椅子の方を振り返った。
……。
ついさっきまで切り株の椅子に座っていたはずのノエルの姿がなかった。
次の瞬間、手を挙げた葉山ヒカルの身体の周りを温かな春の風がふわっと包み込むように回転し、すうっと通り抜けていった。
そして、その春風の勢いに背中を押されるように、葉山ヒカルは光のカーテンをくぐり、小道に出た。
シロツメクサが森の出口を案内するように白く光っていた。
葉山ヒカルは勢いよく走り始めた。
アシナガの森を振り返ることなく、まっすぐ前だけを見て、走り続けた。
(完)
******
<ご挨拶>
最後までお付き合いくださり誠にありがとうございます。
試行錯誤の連載小説でしたが、書き綴っていく中で多くの気づきや学びを得ることができました。
これもひとえに、時間を割いて読んでくださった全てのみなさまに与えていただいたパワーのおかげだと思っております。
あらためて、心より御礼申し上げます。
皆様に再び拙作ではありますが作品をお届けできるように、引き続き、執筆を続けてまいりたいと思います。
今後とも、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
<これまでのお話のまとめ>
第1話から第12話までのお話は以下リンクよりご覧いただけます。
併せてお楽しみください!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?