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『忘れもの』 【第6話】 「追憶」
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駅舎がだんだんと大きく近づいてきた。小刻みに揺れていた電車は、ポイント切替のところで一瞬上下に跳ねた後、ゆっくりとプラットホームに向かって徐行をはじめた。
車窓からは街のずっと遠くまで、立ち並ぶ建物の全体を見渡すことができる。
高層ビルの隙間を縫うように走る首都圏の電車から見える景色とはあきらかに違うものがそこには広がっていた。
青く澄んだ空の先は、弧を描きながら視線の遠くむこうにかけてくだっていく。
葉山ヒカルは窓枠に頬杖をつきながら、ぼぅっとそれらの景色を眺めていた。
車窓に映り込む景色の流れは、目まぐるしく変わっていく職業人生に重なって見えた。すべては一時の出来事で、次から次へと人もサービスも入れ替わっていく。支店という箱は変わらないが、その中身はどんどん変わっていく。誰も止められないし、誰も待ってはくれない。だからこそ、自分自身を変えていかなければこの世界では生き残っていけない。
停車線ぴったりにとまった電車がプシューッと溜まった空気を吐き出すような音を立て、扉がゆっくりと開いていく。
「もう、後戻りはできないんだな」
心のなかでそうつぶやきながら、葉山ヒカルはこれから始まる新しい生活の第一歩を踏み出そうとした。電車とホームの間を隔てる隙間は、まるで此岸と彼岸をわける境界線のように感じられた。はたして、これから踏み入れる世界が自分にとって極楽浄土になるとは到底思えないが、あきらかにこれまでと違う世界であることは疑いようもないことであろうと葉山ヒカルは納得した気持ちで身体を前に進めた。
九州の澄んだ空気が温かく心地良い風に運ばれてホームを駆け抜けていく。
思わず深呼吸をしたくなる。
一週間分の着替えの入ったサムソナイトの黒いキャリーケースを引きながら、改札の方向に歩き出すと、折尾名物「かしわめし弁当」と書かれたのぼりが目に飛び込んできた。
「これかぁ。ネットよりずっと普通だなぁ」
葉山ヒカルは思わずひとりごちた。
昨晩のこと、あわてて荷造りをしていると、妻の沙也加がスマホで調べた折尾周辺の飲食店情報についてあれやこれやと説明してきた。その一つに折尾駅のホームにあるキヨスクで買える折尾名物の「かしわめし弁当」があった。よほど気に入ったのか、沙也加はその「かしわめし弁当」の画像と関連するURLをLINEに送ってきたのだった。
「なんだ、普通の三色弁当じゃん」
沙也加につっけんどんに言ったきり、目の前ののぼりを見るまですっかり折尾名物の弁当ことなど忘れていた。
ビジネスホテル周辺の飲食店の多くは、日曜日は閉めているのだと沙也加が言っていた。東京や横浜ではありえないだろうと言いながらも、それが地方というものなのかもしれないと妙に納得したことを思い出してきた。
福岡空港に降り立ってからずっと鈍行列車に揺られてきたせいか、かなり疲れていた。早く横になりたい気持ちもあり、「夕飯はこれでいいか」とキヨスクで「かしわめし弁当」と缶ビールを一本買い、改札を出た。
ビジネスホテルに向かう道の途中にきらぼし銀行折尾支店はあった。
2階建ての縦長長方形のビルの正面に、かがやき銀行の看板が掲げてあった。白いモルタル塗りの壁が雨風の影響でねずみ色っぽく霞んでいる。すぐ近くにある地元銀行の北九州銀行の方がよっぽど都市銀行に見えるほど、きらぼし銀行の建物が貧相に見えた。
「まじかよ……」
葉山ヒカルは足をとめることを一瞬、躊躇したが、明日からお世話になる支店なのだと気を取り直して、支店の前を二、三度、行ったり来たりしながら、その位置を確認した。
「まぁ、こんなものか……」
横浜支店の20分の1の規模であることは頭で理解していたが、あらためて支店の姿を目の前に、その規模感に加え、この支店に与えられた役割が、すとんと腹に落ちたような感覚を覚えた。
右手にはブリーフケースを載せたキャリーケースを持ち、左手には折尾名物「かしわめし弁当」の入ったキヨスクのビニール袋を下げた葉山ヒカルが醸し出す空気感は、折尾の街からは浮いていた。
あまりジロジロと支店周辺をうろつくことに気が引け、ビジネスホテルへの道を急いだ。
ビジネスホテルは12階建てだった。全国チェーンのビジネスホテルで、これまでも出張で何度か利用したことがあり、勝手はわかる。
最上階の12階、1205と記載されたカードキーをフロントで渡された。
部屋の窓からは折尾の街の半分が一気に見渡せるだけでなく、遠くには門司港と思われる景色が薄っすらと広がっていた。船から上がる蒸気が低い雲となって揺れている様子は風情があって落ち着く。この景色をまだ明るい中で見ることができたことに、早めにホテルに入ってよかったと葉山ヒカルは思いながら、缶ビールの栓を開けた。
ホテルの窓際にある一人がけの椅子とテーブに「かしわめし弁当」を置き、缶ビール片手に景色を眺める。17時を過ぎたことが街に流れるチャイムの音でわかった。
「のんびりしてるなぁ」
ここ数日、家に帰るとやけ酒の深酒が続いていたこともあり、今日は缶ビール1本にしておこうと駅のホームでは決心していたが、とても飲んだ気になれず、先程、ホテルの自動販売機で3本買い足してきたところだった。
田舎暮らしを「のんびりしてていい」といった大学の同級生の話を思い出した。システムエンジニアをしていたその友人は、数年前に脱サラして縁もゆかりもない福井県に移住した。「幸福度No.1の県」として若者の移住促進プロジェクトに応募し、今では小さな果樹園を経営し、ウメやカキ、クリ、梨などを育てている。
その友人が「のんびりしてていい」と言ったのだが、その意味を葉山ヒカルは未だにわからないでいる。「のんびり」の何がいいのか、そもそも「のんびり」とは何なのか。忙しくしていることが当たり前で、なおかつ、忙しく動き回ることで心のバランスをとっていた葉山ヒカルにとって、これまでの人生の中で「のんびり」という言葉から最も遠いところで生きてきた自覚がある。
そんな自分の目の前にある環境は、大学の友人が言った「のんびりしてていい」という世界なのか、それとも、その世界とはまた違った何かなのだろうか。葉山ヒカルは、本当に未知の世界に足を踏み入れたような思いをあらためて感じているのだった。
アルコールのせいで、食欲が刺激されたようで、かしわめし弁当に手を伸ばしたくなった。駅弁が美味しいなんて思ったことはないが、電車で移動中の酒のツマミとしては悪くない。
蓋を丁寧にあけると、四角いわっぱの左下から三角形をつくるように鶏肉が敷き詰められ、その上に錦糸卵、そしてそのまたすぐ上に刻み海苔が平行に並んでいた。右上の三角形のエリアには漬物やグリーンピースなどのおかずが並んでいる。
「三色弁当だな」
ネットより普通だとキオスクで思ったが、蓋を開けてもその感想は変わらなかった。
茶色、黄色、黒のコントラストは馴染みもあるのか心地よく感じる。
鶏肉とご飯をすくって口に運んだ。
甘じょっぱい醤油の味が鶏肉にしみ込んでいて、口の中でぱぁっと広がっていく。関東の薄口醤油にはない旨味を鶏肉の歯ごたえとともに舌の上で何度も味わうことができる。思わず、錦糸卵と刻み海苔も合わせたくなり、口いっぱいに三色の具材を頬張った。
噛めば噛むほどに肉汁と九州醤油の甘みが滲み出てきて、それを海苔の塩味が引き立たせる。そして、卵の甘さがそれまでの味の濃さを中和するかのように包み込む。
次から次へと口に運びながら、葉山ヒカルは初めて食べた味ではないことを感じていた。懐かしく切ない味。一口、一口、噛みしめれば噛みしめるほど、身体に刻まれた記憶が呼び起こされていくようだ。
「ひょっとして……」
半分も過ぎた頃からは、味と記憶を追いかけるように箸を進めていく。
噛み締めては味を確かめ、味を確かめては記憶をたどる。
頭では忘れているが、舌は覚えている。
その記憶を一つずつ呼び起こしていく。
「やっぱり……」
25年前に自分を残して家を出ていった母親が作ってくれていた味……。
甘じょっぱいあの味が、いま、口の中いっぱいに広がっている。
「母さん……」
あの日から会ったことも連絡をとったこともない母の姿が、記憶の彼方から呼び戻されてくる。
細くすっと伸びる長い指。それでいてしっかりとした骨格の手をいつも眺めていた。
保育園までの道のりが唯一、母のぬくもりを感じられる時間だったように思う。つないだ母の手を見ながら歩く時間が好きだった。
あの日、母の後ろ姿が震えていた日から、自分の記憶の蓋を固く閉じて生きてきた。
どんな辛い思いをしても、決して泣かないと決めてずっと走ってきた。
だからこそ、これまで自分の人生は自分で切り開いてきたという自負がある。
「どうして……」
弁当の角に箸を立て掛けると、葉山ヒカルは缶に残ったビールを一気に飲み干した。
「どうして、今になって……」
動悸は早くなり、額から大粒の汗が流れてきた。
窓の外は上の方から濃い藍色に染まり、北斗七星がうっすらとその顔を出していた。
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これまでのお話(第1話〜第5話)はこちらからご覧いただけます。よろしければ併せて御覧ください!
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