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『忘れもの』 【第5話】 「芽吹き」

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 足元はぺんぺん草の緑と白でにぎわっている。
 アシナガの森も新たな季節の到来に心が踊っているようだとノエルは思った。
 切り株の椅子の周りを覆うスギゴケの絨毯にも色とりどりの模様がそれぞれの芽吹きに合わせて頭を出した。
 冬の寒さを耐え抜いた植物たちは、春になると勢いよくその芽を伸ばし、太陽の光を身体いっぱいに浴びる。押さえていた感情をぱっと開放するように咲く花々には、待ってましたとばかりにモンシロチョウが挨拶にやってくる。
 しんとした森の空気もこの季節だけはどこか軽やかになり、風に揺れる草木はまるで踊っているようだとノエルは思った。
 こんな日に食べるサンドイッチはどんな味がするのだろうかと、切り株の椅子の半分に腰掛け、オオサワ老人が来るのを待った。
 ぶらぶらと足を揺らしながら、目の前を飛び回るモンシロチョウの数を数えていると、オオサワ老人がいつもの籠を手に持ち、樹の茂みから現れた。
「お待たせしたね。今日はいい天気だ。蝶々も楽しそうに飛んでいるね」
 顔の皺を幾重にも重ね、オオサワ老人が微笑む。
「今日も持ってきてくれた?」
「もちろん!さぁ、召し上がれ」
 ノエルは、オオサワ老人が手渡してくれたサンドイッチにかぶりついた。
 タマゴの甘さと小麦の香ばしさが鼻に抜けるのがたまらなく好きだ。
 ノエルは、森の空気を鼻から思い切り吸い込んだ。
 孤独が、寂しさが、すぅっと消えていくような気がした。
 ノエルの心にずっと空いたままの穴が、優しく覆われていくような、そんな不思議な気持ちになった。
 ずっと見ないように、そしてずっと隠してきたところが、明るく照らされていくようにも感じ、自分の中でこれまで保っていたバランスが大きく崩れていくような感覚にノエルはおそわれた。
 不安にも似たその感情に抗うかのように、ノエルは語り始めた。
「ボクね、ずっと待ってるんだ」
「ボクのママ、いなくなっちゃったんだ。だからボク、ママが帰ってくるのをずっと待ってるんだ」
 オオサワ老人はノエルをその優しい瞳でじっと見つめたまま黙っている。
「ボクね、パパのこともママのことも大好きなんだ。でもね、パパとママは仲良くなくて、いつも喧嘩ばかりして、そしていつの間にか嫌いになっちゃったみたいで」
 ノエルの目にはビー玉のような涙が溜まっては流れ落ち、小さなその手の甲には涙で地図ができていた。
「ボクね、ずっとボクのせいだと思ってるんだ。パパとママが喧嘩しちゃうのは、ボクがいるからなんだって」
「ボクがいけない子だから……。ボクがダメな子だから……。だからパパとママは……。だから毎日、神様にいい子になるようにお願いしようって思って……」
 ノエルはその小さな肩を上下に震わせている。
 ノエルの心に空いた穴にずっと閉じ込められていたものが、堰を切ったように溢れ出た。
 自分でもどうしてこんなに話しているのかわからないといった表情のまま、言葉だけがノエルの身体から流れ出た。
「そうなんだね。ノエルくんは、本当はパパとママと一緒に暮らしたいんだね」
 ゆっくりと、優しい声で、オオサワ老人がノエルに語りかけた。
 ノエルはくしゃくしゃになった顔を下に向けたまま、大きく頷いた。
「ボクなんて生まれてこなければよかったんだ。パパとママだってきっとそう思ってるんだ」
 ノエルは残りの力を振り絞るかのように吐き出した。
 
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