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ミュージックビデオの身体論⑤ダンスそのものを映し出す──マイケル・ジャクソンの革命

5. ダンスそのものを映し出す──マイケル・ジャクソンの革命


今回から、連載のヘッダー画像をイラストレーターの湖海すずさんに描いてもらうことになりました。本文で紹介しているMVをモチーフにして、毎回新作を描き下ろしてもらう予定です。こちらもお楽しみに!

イラスト:湖海すず

前回まで(③映像そのものがダンスする/④カメラレス・ダンス)は、身体としての映像そのものがダンスを踊っているような種類のMVを「映像のダンス」と呼び、それにかかわる様々な作品を紹介してきた。順番が前後するようだが、本稿ではより一般的な意味での「ダンスの映像」、すなわち、アーティスト自身がダンスを踊る姿を撮影・記録した映像を用いたMVを取り上げ、論じることにしよう。(調査協力:伊藤礼恩、杵島和泉、北村眞子)

5-1. ダンスとメディア文化

1981年のMTV開局当初、放映されたMVの中で「ダンス」の存在感はそれほど大きなものではなかったが、当時の人々がダンスに関心を持たなかったわけではない。むしろ70年代から80年代にかけては、ディスコナイトクラブが大きな盛り上がりを見せ、ダンスシーンを盛り上げた時代だった。

ディスコ(disco)はフランス語でレコード室を意味する「discothèque」を由来とする。その名が示す通り、生演奏ではなくレコードディスクで音楽を流して踊る場であり、MVと同じく、複製技術と分かち難く結びついたダンス文化だった。そこで生まれたダンスや流行したダンスはテレビや映画でも大々的に取り上げられ、フロア内や周辺地域を超えて、国中、世界中へと拡散していく。その代表例の一つが、ジョン・トラボルタを一躍スターにした映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(ジョン・バダム、1977)だ。

ジョン・バダム『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)

振付家・パフォーマーのロバート・ヒルトンは、『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界的な流行がダンスの歴史を歪めて伝えてしまったと指摘する(『[ヴィジュアル版]ダンスの歴史——宮廷ダンスからブレイキンまで』原書房、2023年)。トラボルタが片腕を伸ばして天井を指差す印象的なポーズは、実はロック・ダンス(Lock Dance)の創始者ドン・キャンベルが生み出した「アンクル・サム・ポイント」(米軍の募兵ポスターを真似て周囲を指差す動作)をアレンジしたものであるという。ビジネスの領域でダンスが無断利用され、本来の意味や文脈が忘却されてしまうことを、ヒルトンは批判している。

I Want You for U.S. Army poster (1917)

アンクル・サム・ポイント

ダンスであれ音楽であれ、いかなる芸術表現も単一の文化の中だけで純粋培養されることはあり得ず、様々な文化が衝突・混淆を繰り返す中で形成されていくものだが、複製技術および情報通信技術の発展は、そうした文化混淆の流れを極端に加速させると共に、世界規模に拡大させる。それはアーティストの個人的な表現やローカルな文化を人々に知らしめる武器・手段となる一方で、文化の均質化や文化の盗用といった問題も含むものだった。

ドン・キャンベル自身、ダンスチーム「ザ・ロッカーズ」を結成して「ソウル・トレイン」(1971-2006)や「サタデー・ナイト・ライブ」(1975-)といったテレビ番組に出演し、ロック・ダンスの伝道を行なっているし、ロッカーズのメンバーの一人であるアドルフォ・“シャバドゥー”・キノーネスも、映画『ブレイクダンス』(ジョエル・シルバーグ、1984)にオゾーン役で出演。ブレイクダンス流行のきっかけを作った。

ジョエル・シルバーグ『ブレイクダンス』(1984)

ブレイクダンス』にはキノーネス以外にも、現在では「伝説的」存在として称えられるダンサーが出演している。例えばマイケル・“ブガルーシュリンプ”・チェンバースは、マイケル・ジャクソンにダンスを指導したことでも知られている。作中、箒を使ってロボットのような動作を見せる「アニメーション」ダンスは、ムーンウォークと共にマイケルの十八番となった。

また悪役ダンスグループ「エレクトロ・ロック」のメンバー役を演じたティモシー・ “ポッピン・ピート”・ソロモンブルーノ・ “ポッピン・タコ”・ ファルコンも、長きに渡ってマイケル・ジャクソンと共に仕事をしてきたダンサーである。ポッピン・ピートは『スリラー』や『今夜はビート・イット』の振り付け・ダンスの指導を担当。ポッピン・タコは『スムーズ・クリミナル』(1988)や映画『ムーンウォーカー』(1988)に出演した他、ワールドツアーに同行し、マイケル・ジャクソンの厚い信頼を得ていた(「世界的に有名なストリートダンスのひとつ、“ポッピング” を語る際に欠かせないレジェンドダンサークルーのオリジナルメンバーと関連メンバーを紹介しよう!」RedBull、2019年)。

5-2. 短編ミュージカル映画としてのMV

映画・映像の世界でダンス熱が盛り上がる最中に登場し、MVにおける「ダンスの映像」の決定的な流行を作り出したのは、やはりマイケル・ジャクソンの『スリラー』(1983)だろう。映画監督のジョン・ランディスに制作を依頼し、特殊メイクの大家リック・ベイカーを起用したことだけでも、マイケルのこのMVにかける意気込みが窺える。実際、『スリラー』は世界でもっとも売れたアルバムのタイトル曲を用いた、世界でもっとも有名なMVの一つとなった。

マイケル・ジャクソン『スリラー』(1983)

スリラー』には、当時のMVに頻出する奇を衒った構図や矢継ぎ早なカット割りは見られない。ゾンビや狼男の特殊メイクはあるものの、派手な視覚効果に頼ることもなく、常時安定した画面設計が採用されている。マイケル・ジャクソンの踊る身体は、無理なく全身が収まるように引きの構図で捉えられており、バストショットやクロースアップショットも、手足の動きや顔の表情をより良く見せるために用いられる。すべての構図とカメラワークは、物語を淀みなく語ることとダンスを際立たせることを最優先事項として組み立てられており、矩形のフレームは、ダンサーがその上で自由に身体を動かすことのできる舞台である

マイケル・ジャクソン『今夜はビート・イット(Beat It)』(1983)

スリラー』と同年に発表された『今夜はビート・イットBeat It)』(1983)は、映画『ウエスト・サイド物語』(ジェローム・ロビンズ、 ロバート・ワイズ、1961)を参照することによって、要するに両作は「短編のミュージカル映画」として撮られたMVなのだということを明白に示している。ドラマパートは滑らかに歌とダンスのパートに移行し、屋内であれ屋外であれ、あらゆる環境が瞬く間に「舞台」へと変貌する。

また『スリラー』と『今夜はビート・イット』は、「バックダンサーを従え、フォーメーションで群舞する」という、現在のMVの標準的な形式を普及させた作品であるとも言われている(「マイケル・ジャクソン|スリラー40周年」ソニーミュージックオフィシャルサイト、2022)。そのような形式の起源を辿るなら当然、ミュージカルなどいくらでも過去に遡ることができるが、数多あるMVに直接的な影響を与えたという意味では、確かにマイケル・ジャクソンの功績は他の追随を許さないものだと言えるだろう。マイケルと彼のバックダンサーたちは、まだ視覚効果重視だったMVの世界において、生身の身体の躍動を見ることの快楽を復権するという革命を起こしたのだ。

5-3. スターの身体の「中心性」

数多くのバックダンサーを引き連れても——あるいは、引き連れているからこそ余計に——マイケル・ジャクソンは画面上で一際大きな存在感を放ち、その中心に君臨し続ける。『バッド』(1986)では、マイケルがニューヨークの地下鉄駅を踊りながら練り歩き、改札を飛び越え、駆け出していくのを、カメラがぴったりと追随して撮影が行われている。ダンスやカメラワークがどれだけ激しい動きを見せても、画面の中心には必ず(と言って良いほど)マイケルの身体があり、視聴者が「見るべきもの」を見失ってしまうことはない。このような、スターの身体の「中心性」とでも言うべきものが、ダンスを主体とするMVにはしばしば見られる。

マイケル・ジャクソン『バッド』(1986)

リズム・ネイション』(1989)のジャネット・ジャクソンは、同じ衣装を着たバックダンサーを従えて、統率の取れたダンスを行う。全員、服装も動きも似通ったものであるはずなのに、他のダンサーよりもジャネット・ジャクソンの存在感が抜きんでいているのは、やはりジャネットの身体を中心に据えた画面設計が為されているからだろう。スターの身体の「中心性」は、固定カメラの長回しだけで見せるよりも、「中心性」を備えたショットの集積によって——原則的にどのショットでも常にスターの身体が画面中央に置かれることによって——さらに強調されて見えてくる。

ジャネット・ジャクソン『リズム・ネイション』(1989)

5-4. 雄弁な衣装・ファッション

マイケル・ジャクソンの『スリラー』のように、前後にドラマパートを付け加える場合もあるにはあるが、一般的なMVでは、台詞や会話劇に頼って物語を進行させたり、世界観を詳細に説明するのは難しい。あくまで視覚的な要素を通じて特定の物語や世界観を視聴者に伝えようとするとき、重要な要素となるのが衣装・ファッションである。

プリンス『バットダンス(Batdance)』(1989)

例えば映画『バットマン』(ティム・バートン、1989)のテーマ曲として発表されたプリンスの『バットダンスBatdance)』(1989)には、映画でジョーカー役を演じたジャック・ニコルソンや、バットマン役を演じたマイケル・キートンは出てこない。だがプリンスが緑に染めた髪と紫のスーツを着て登場し、バックダンサーが黒づくめにマント、コウモリモチーフのマスクを付けて登場すれば、視聴者は直ちにそれがジョーカーとバットマンであると気づき、DCコミックの世界が描かれているのだと理解することができるだろう。ダンサーにヴィラン(悪役)およびヒーローのコスチュームを纏わせることで、MVは、①物語や世界観を伝えることと、②ダンスを見せることを同時に実現することができるのだ。

バックストリート・ボーイズ『Everybody(Backstreet's Back)』(1997)

マイケル・ジャクソンスリラー』へのオマージュ/パロディとしての側面も持つバックストリート・ボーイズEverybodyBackstreet's Back)』(1997)では、2種類の衣装が使い分けられている。一つは、バックストリート・ボーイズのメンバーたちが狼男やヴァンパイア(ドラキュラ)などの怪物に扮したときの衣装と特殊メイク。もう一つは、幽霊屋敷のホールに集ってバックダンサーと共にダンスをする際の衣装。こうした衣装チェンジは現在のMVではありふれたものだが、1980年代にダンスのMVが現れてからしばらくの間は、決して一般的な形式ではなかった(単一の衣装で踊る作品が多かった)。一つのMV内で複数の衣装が用いられるようになったのはいつ頃からなのか、現時点では確かめられていないが、いずれおおよその時期を特定できればと考えている。

ENHYPEN『Tamed-Dashed』(2021)

ENHYPENTamed-Dashed』(2021)は、複数の衣装の使い分けを通じて、複雑な物語を効率的に語ることに成功している。作品の序盤、ENHYPENのメンバーが制服を着て登場することによって、彼らが学生(という設定)であることが示された上で、次のシーンではラグビーのユニフォームに着替え、メンバーたちは屋外でダンスを踊る。ここでENHYPENのファン(ENGENE)ならば、以前のMVではヴァンパイアとして登場していたメンバーたちが、なぜ太陽の下でスポーツに興じることができているのかと疑問に思うだろう。『Tamed-Dashed』は具体的な台詞や劇的な展開を差し込むこと無しに、舞台の設定や衣装の変化だけで、彼らの物語に何か大きな出来事が起きたのだと仄めかす。K-POPのMVでは、こうした視聴者とのハイコンテクストなコミュニケーションが一般化している。

5-5. 固定カメラとコレオグラフィービデオ

ダンス主体のMVの隆盛は、楽曲の付随物として映像も見るという視聴者だけではなく、ダンスを見るためにMVを見る視聴者も生み出す。場合によっては、楽曲のほうがダンス映像の付随物となるのだ。

近年の「コレオグラフィービデオChoreography Video」(振り付け動画)もしくは「ダンスプラクティス動画 Dance Practice」の流行は、そのような目的を持つ視聴者のニーズに応えている。余計な演出やカット割、凝った構図を廃し、舞台を正面から固定(定点)カメラで捉えることで、ダンスする身体に意識を集中させて見ることができる(中には、多少のカメラの動きが含まれているものもあるが、それらも定点で撮るのとほぼ同等の機能を持つのであれば、固定カメラの一種(準固定カメラ)として扱って差し支えないだろう。)

SEVENTEEN『Don't Wanna Cry』(コレオグラフィービデオ、2017)

Don't Wanna Cry』(2017)など、多くのコレオグラフィービデオを公開しているSEVENTEENは、K-POPグループの中でもとりわけ「キレの良いダンス」(칼군무 カル群舞)を見せてくれるグループとして称賛を集めてきた。振り付けの一致度を数値化した「シンクロ率」なる概念も登場し、さまざまなコレオグラフィービデオの分析や考察が行われている(「さすがSEVENTEEN!科学で証明されたダンスシンクロ率は驚異の95%」Danmee、2020年)。

コレオグラフィービデオの主要な特徴である正面性不動性は、ミュージカル映画よりもむしろ「初期映画」との類似を強く感じさせる。

19世紀末、エジソンはヴォードビルやバーレスクなどの大衆娯楽を撮影した映画を多数制作し、その中の一つに『アナベルのサーペンタインダンス』(ウィリアム・ハイセ、ウィリアム・K・L・ディクソン、1895)があった。同作はまさに最初期のコレオグラフィーフィルムと言うべきもので、ダンサーのアナベル・ムーアアナベル・ウィットフォード)が蛇の動きをモチーフとしたサーペンタインダンス(舞踊家のロイ・フラーが創案)を踊る姿が、正面から固定カメラで捉えられている。

ウィリアム・K・L・ディクソン、ウィリアム・ハイセ『アナベルのサーペンタインダンス』(1895)

アナベルはブロードウェイのレビュー「ジーグフェルド・フォリーズ」(1907)に出演するなど、今でいう「アイドル」的な人気を誇ったダンサーで、特に男性観客の視線を集める存在であった。1854年から1897年にかけては、幾度もエジソンの映画撮影スタジオ「ブラック・マリア」を訪れ、ダンス映画の撮影を行っている(チャールズ・マッサー『エジソンと映画の時代』森話社、2015年、pp.31-32)。この時期のフィルムに収められた内容には暴力的・性的なものが多く、当時の保守的な道徳観からすれば容認しがたいものであったが、だからこそ観客の関心を惹くことにもなった。映画表現にエロティシズムが持ち込まれる際にも、ダンスをする身体が大きな役割を果たしたのである。

5-6. なぞられる身体、切り抜かれる身体

インターネットの普及と動画配信サービスの隆盛は、かつてヴァルター・ベンヤミンが語った「アウラの凋落」、すなわち複製技術によって芸術作品から一回性・真正性が失われる事態をさらに推し進めた。フィルム時代の映画であれば、ある作品の別バージョン(完全版やディレクターズカット)を公開するのは——不可能ではないが——大きな手間とコストが掛かる作業であったが、動画配信サービスで公開される楽曲は、MVやリリックビデオ、コレオグラフィービデオ、複数のライブ映像など、複数のバージョンが存在するのが当たり前になっている。

例えばSEVENTEENの『Pretty U』(2016)のコレオグラフィービデオは、ダンスする身体を正面から長回しで捉えた通常のバージョン(‘LOVE’ver.)に加えて、舞台の背後にカメラを置いたバージョン(‘LETTER‘ ver.)、細かくカットを割ったバージョン('Dear Carat' ver.)、各メンバーが担当するパートを入れ替えたバージョン(Part Switch ver.)と、複数のバージョンが公開されている。

SEVENTEEN『Pretty U Dancecal ‘LETTER‘ ver.』(2016)

‘LETTER‘ ver.」はまさしく「舞台裏」を見せる作品で、舞台前方からは見ることのできないメンバーの表情や姿(ソファの後ろに隠れている場合など)を見ることができる。この視点は本来、SEVENTEENのメンバーかスタッフしか立つことのできない場所からの眺めであり、ただ受動的に舞台を見つめるだけではなく、作り手の視点を内面化したファン(Carat)の心に強く訴えかけるだろう。またこの振り付けを覚えて、自分自身でも同じダンスを踊れるようになりたいという層にとっても、この映像は大いに役立つに違いない。コレオグラフィービデオはただ「見る」ためだけの映像ではなく、「踊る」ため——もしくは「真似る」「なぞる」ため——の映像でもあるのだ。

JUN、HOSHI『#PSYCHO웃음챌린지』(2023)

TikTokやYouTubeショートなどの「ショート動画」は、見方によっては、さらに「初期映画」に接近した表現形式であるとも捉えられよう。

例えばJUNHOSHI#PSYCHO웃음챌린지』(2023)では、楽曲およびダンスの一部分が切り取られ、反復して再生される。そこで視聴者は、一つの完結した物語や完結した楽曲を味わうのではなく、「見るという行為および好奇心とその満足の興奮」を味わうだろう。そのような美学を、映画研究者のトム・ガニングは「注意喚起(アトラクション)の美学」と名づけている(「驚きの美学——初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」『新映画理論集成①』所収、1998年)。

5-7. ダンスを見るためのMV

振り付けを見せること自体を目的としたコレオグラフィービデオではなく、一般的なMVの中にも、ダンスをする身体が楽曲と同等の——あるいはそれ以上の——扱いを受けている作品が少なからず存在する

例えばビヨンセの『Single Ladies (Put a Ring on It)』(2009)に用いられているカメラワークやエフェクトはすべて、アーティストの身体を美しく際立たせる目的に奉仕していると言って良いだろう。モノクロの画面は、身体のかたちと動きを見ることに意識を集中させるように促す。またホワイトキューブの空間や、じわりと明暗が変化するライティングも、輪郭線を強調し、地に対する図としての身体をさらに際立たせる働きをしているのである。

ビヨンセ『Single Ladies (Put a Ring on It)』(2009)

Siaシャンデリア』(2014)では、素顔を見せない方針で活動するアーティストSiaに代わって、当時11歳のダンサー、マディ・ジグラーが出演し、圧巻のパフォーマンスを見せる。特殊なエフェクトなどは使用せず、カメラもダンスする身体を愚直にフォローし、構図内に収めようとする。マディの身体は基本的には画面中央に捉えられているが、時折、激しい動作や移動によってフレームの外に飛び出す瞬間があり、それをカメラも冷静かつ即座に追いかけ、再び画面中央に捉え直す。そこでは、楽曲(Sia)とダンス(マディ)のコラボレーションに加えて、ダンスとカメラのコラボレーション、緊迫感のある駆け引きを見ることができる。

Sia『シャンデリア』(2014)

男女混成のダンス&ボーカルグループ「Folder」のメンバーとして9歳でデビューした三浦大知は、変声期による活動休止を経て、ソロで歌手活動を再開。2016年にYouTubeに公開した『Right Now』のダンス映像で再び脚光を浴び、2017年には紅白歌合戦に初出場してその実力を見せつけた。

三浦大地『Right Now』(2016)

2016年に発表した『(RE)PLAY』では、世界的に活躍するダンサー14名とコラボレーションしたMVを公開。ただ自身のバックダンサーとして起用するだけではなく、各自のソロパートを設けるなど見せ場を作り、ダンサーおよびダンスへのリスペクトをかたちにしている。三浦大知のMVは、楽曲に従属した映像ではなく、楽曲と対等な関係にあるものとしてダンスを扱い、その映像を見ること自体を主目的とした作品の好例と言えるだろう。

三浦大地『(RE)PLAY』(2016)

「ミュージックビデオの身体論」について

この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。

また様々なMVを見るうちに、自分でも撮ってみたいと思うようになり、上述した学生の実習も兼ねて2023年3月に撮影を行なった。楽曲は昨年公開した映画『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』の主題歌『Ladder』(2022)。出演の櫛橋さん、撮影の吉木さん、衣装・メイクの梶川さん、それぞれのアイデアや工夫を盛り込みながら制作を進めた。短編は普段あまり撮る機会がなかったので、面白さも難しさも含めて様々な発見があった。MV制作については、今後もあれこれ試してみたいと思っている。



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