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米子市内の映画館&レンタルビデオショップ史③ 映画館の減少、スクリーン数の維持

2023年1月30日(月)〜2月5日(日)にかけて、Gallery そらで行う展覧会「見る場所を見る2」の第1部「イラストで見る、米子・境港市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を5回に分けて掲載します。

バックナンバーは以下のリンクから読めます。

第1部
イラストで見る、米子・境港市内の映画館&レンタルビデオショップ史
 ① 密集する劇場、度重なる火災
 ② 最盛期の7館体制

第2部
紙の上のスクリーンーー鳥取の映画館と「読む」メディア
 ①『THE PRESS HUSTLE』
 ②『Style』

映画館の減少、スクリーン数の維持(1970〜1995)

70年代には、戦前から米子の映画文化を支えた映画館が相次いで閉館します。ひとつは米子グランド映画劇場。長らく同館を支えてきた支配人・内田誠さんの死去により、後を継げる者がいなくなったため、1972(昭和47)年10月3日に閉館しました。朝日町の米子東宝は、1972(昭和47)年9月1日に米子トーホと改称してピンク映画館になりましたが、長続きせず、1975(昭和50)年5月9日に閉館しました。朝日座は1976(昭和51)年9月6日に屋根裏からの出火により焼失し、再起できませんでした。

米子東宝(米子トーホ)跡地
2022年12月

米子館は1973(昭和48)年5月1日に米子松竹と改称し、さらに改築も行なって、1976(昭和51)年12月25日に米子松竹米子ピカデリーの2スクリーンになりました。また米子トーホの閉館と入れ替わるように、1977(昭和52)年12月17日に米子市公会堂の隣に米子東宝会館が新築され、米子東宝米子シネマ米子国際プラザが入りました。当初は地元企業の経営でしたが、すぐに関西共栄興行が引き継いだようです。ひとつの建物に複数のスクリーンを構える体制は、現在のシネマコンプレックス方式の先駆けと言えるものでした。

現在の米子東宝会館
『映画愛の現在 第3部/星を蒐める』(2020)より

1981(昭和56)年8月31日には、リツリン映劇が経営悪化のため閉館します。その後、以前の活気を取り戻したい近隣商店街の要望もあり、1983(昭和58)年8月6日に経営者が代わって松竹系洋画館・米子ロキシーが開館しましたが、これも短命に終わり、1985(昭和60)年1月31日に閉館。米子松竹と米子ピカデリーの経営者が経営を引き継ぎ、同年9月14日に松竹封切館・松竹米子ロキシーが生まれました。この時点で米子市内の映画館は3館まで減少しており、経営も不安定でしたが、スクリーン数は6を維持していました。

『朝日新聞』1983年8月4日付

米子市内にレンタルビデオ店が登場したのは80年代中頃です。資料が乏しく、正確な店舗数や営業実態を明らかにするのは困難ですが、当時の『ゼンリン住宅地図』と『タウンページ』を調べると、1984(昭和59)年時点ではまだ記載がなかったのが、翌年には7店舗、1989(平成元) 年には14店舗にまで増加しており、ビデオの急速な普及ぶりを窺い知ることができます。1989年8月31日に米子松竹米子ピカデリーが閉館した際の新聞記事では、レンタルビデオ店の隆盛による経営悪化が閉館の一因として語られました。翌年1月18日には松竹米子ロキシーも閉館し、ビデオとシネコンの時代へと転換していきます。

1990(平成2)年6月29日、米子東宝会館米子東宝米子シネマ米子国際プラザが移転し、サティ東宝1・2・3が開館しました。全国的な趨勢にもれず、米子にも、ショッピングセンターに併設されたシネコン的な映画館が生まれたのです。また米子東宝会館の跡地には、1990(平成2)年12月22日に、松竹の子会社・松竹関西興行の直営館である米子松竹1・2が入りました。こうして90年代後半までは、2館5スクリーンの体制が続くことになります。

『日本海新聞』1990年6月27日付




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