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米子市内の映画館&レンタルビデオショップ史① 密集する劇場、度重なる火災

2023年1月30日(月)〜2月5日(日)にかけて、Gallery そらで行う展覧会「見る場所を見る2」の第1部「イラストで見る、米子・境港市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を、5回に分けて掲載します。この展覧会は、米子・境港市内にかつてあった映画館およびレンタルビデオショップを調査し、Claraによるイラストを通じて当時の記憶を復元する試み。そこに筆者(佐々木友輔)作成の年表と解説文を付し、米子・境港市内の映画史が概観できるようにする予定です。会場に来られない方にも、ぜひ以下の文章を通じて鳥取県の映画史の一端を知ってもらえたらと思います。

第1章 密集する劇場、度重なる火災(1916〜1944)

鳥取県に活動写真が持ち込まれた正確な時期は不明ですが、1898(明治31)年にはすでに鳥取市の小学校や寄席・劇場で活動写真会が行われていました。米子では、1907(明治40)年3月に朝日座で福島常蔵による慈善活動写真大会が開かれた記録が残っています。朝日座は1888(明治21)年に開業した劇場で、1976(昭和51)年9月6日に火事で焼失するまで、数多くの演劇・演芸の上演、映画の上映、講演会などを行い、米子の文化的シンボルとして親しまれてきました。

朝日座 跡地の様子
『映画愛の現在 第3部/星を蒐める』(2020)より
すぐ隣には「あさひざビル」と名づけられた建物がある
『映画愛の現在 第3部/星を蒐める』(2020)より

米子市内初の常設映画館は、角盤町2丁目の米子館です。1916(大正5)年2月4日の開館時には、尾上松之助主演作など新奇な作品を取り揃え、積極的に新聞広告を出してアピールしました。弁士や館内スタッフの奮闘、親しみやすい建築も相まって、連日札止めの満員だったようです。また同年6月18日には、後に常設映画館になる芝居小屋・御幸座が明治町に開館しました。東京や大阪の劇場を参照した最新式の建築で、こちらも華やかな舞台が好評を博しました。

『山陰日日新聞』1916年2月4日付

1923(大正12)年6月28日には、朝日町で米子キネマ館の落成・開館祝賀会が開かれました。同館は、米子館の経営者であった山口謙次郎が主任として新たに立ち上げた活動常設館で、7月8日付の『山陰日日新聞』に新築開館披露挨拶が掲載されています。隣接する朝日町と角盤町に三館が並ぶ激戦区となる中、米子キネマ館は予想以上の興行成績を挙げていましたが、翌年4月7日に火事で焼失。幸いにして火災保険の契約もあり、同年12月25日に再建を果たしました。

1925(大正14)年、角盤町三丁目に第5の劇場建築計画が持ち上がり、1926(大正15)年2月14日に山陰座山陰劇場)のこけら落としが行われました。大阪の中座に似せた山陰第一の大劇場との評判でしたが、開館翌月の3月25日にまたしても火災により全焼。遡れば朝日座も1914(大正3)年に火事に遭っており(翌年再建)、当時の新聞に「米子劇場はよく焼ける」と書かれる始末でした(『因伯時報』1926年3月27日付)。山陰座は1927(昭和2)年2月18日に昭和劇場と名称を変えて新築され、その後、1929(昭和4)年には再び改称して電気館となります。

『因伯時報』1926年3月27日付

亀尾八洲雄『朝日座残照』(米子市史編纂委員会、2006年)によれば、御幸座は1936(昭和11)年に芝居小屋から映画館になり、常設館4館に劇場・朝日座を加えた計5館体制が第二次世界大戦後まで続くことになりました。たびたび火災に見舞われたものの、劇場が密集する朝日町と角盤町は、米子の映画文化の中心地として長らく人々に親しまれてきたのです。

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