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米子市内の映画館&レンタルビデオショップ史② 最盛期の7館体制

2023年1月30日(月)〜2月5日(日)にかけて、Gallery そらで行う展覧会「見る場所を見る2」の第1部「イラストで見る、米子・境港市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を5回に分けて掲載します。

前回(第1回)の記事は以下からお読みください。

また、展覧会の第2部「紙の上のスクリーンーー鳥取の映画館と「読む」メディア」(企画:杵島和泉)の解説文も以下から読むことができます。

最盛期の7館体制(1945〜1969)

第二次世界大戦が終結した1945(大正20)年前後は、図書館所蔵の新聞に欠号が多く、詳細の分からない事柄が多くあるのが現状です。戦前から続く5劇場は空襲などの被害は免れましたが、改称や経営体制の変更が次々と行われました。具体的な日付が判明しているところでは、米子キネマ館が1946(昭和21)年7月4日に内装や設備を一新して民衆映画劇場に改称しましたが、一ヶ月も経たない8月22日に再び改称し、洋画専門の米子セントラル劇場となりました。

『日本海新聞』1946年8月22日付

1946(昭和21)年8月29日には、電気館の館主・久家庫造が松江市寺町のみづほ文化株式会社に一切の経営を委任し、米子みづほ劇場になりましたが、その体制も長続きしなかったようです。翌年5月1日には一旦電気館に名称を戻した後、8月28日に米子大劇場米子大劇)と改称しました。1964(昭和25)年1月の時点では田中薫という人物が社長を務めており、地元出身のプロ野球選手を招いての座談会や抽選会、特別試写会やナイトショー、3万円副賞付の前売券販売など、ユニークな催しを企画しています。

『日本海新聞』1964年1月18日付

 御幸座は銀行員の井上清蔵により買収され、1946(昭和21)年に米子東宝に改称しました。井上は大阪市西区の九条第一劇場と姫路市の新星映画劇場も経営しており、各館にフィルムを使い回して上映していたようです。2005(平成17)年8月14日付の『日本海新聞』では、清蔵の三男・喜男が九条第一劇場米子東宝で働いた経験を語っており、家族ぐるみの経営であったことが窺えます。

1947(昭和22)年には、栗林組の創設者・栗林力吉が役員の反対を押し切って米子館を買収。栗林辰正が社長となり、設備の整った劇場で日活系の作品を上映して若い観客層から支持を得ました。朝日座は1950(昭和25)年7月26日〜28日に『きけわだつみの声』を上映した辺りから芸能公演が減少。映画上映が興行の中心になり、1955(昭和30)年には『コマンド』が山陰初のシネマスコープ方式で上映されました。その大スクリーンと立体音響に魅せられ、多くの観客が詰めかけたそうです。

『朝日新聞』1955年1月12日付

50年代前半に大きな動きはありませんでしたが、1955(昭和30)年になると米子セントラル劇場が洋画専門から東映系に切り替えて米子東映に改称。1956(昭和31年)9月5日には米子大劇場の経営者が変わり、米子グランド映画劇場グラン映劇)に改称しました。さらに1957(昭和32)年4月2日に米子館を経営する栗林組がリツリン映劇を新築すると、1954(昭和29)に米子市に合併した大篠津の美保映劇も含めて市内の映画館は計7館となり、その最盛期を迎えました。

『日本海新聞』1964年5月23日付「映画館めぐり12 リツリン映劇」

7館体制は1964(昭和39)年8月3日に明治町の米子東宝が閉館するまで続きました。それと入れ替わるように、翌年5月5日には朝日町の米子東映米子東宝に改称し、東宝作品の上映を始めています。1964(昭和39)年は東京オリンピックが開催され、テレビ普及の契機となった年でした。米子でも隆盛を極めていた映画興行に翳りが見え始めるのはこの頃からです。

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