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地方映画史研究のための方法論(7)「観客」の発見③——ベル・フックスの「対抗的まなざし」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。

第5回から7回にかけては、主流の映画研究の中で「観客」という存在がどのように語られてきたかを確認していく。

精神分析理論を映画研究に導入し、映画の意味が生み出される過程における「観客」の決定的な重要性を論じたクリスチャン・メッツの「想像的シニフィアン」(第5回)、精神分析の方法を引き継ぎつつ、メッツ的な「観客」モデルが女性観客の存在を考慮していないことを批判し、フェミニスト映画理論を打ち立てたローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」(第6回)に続き、今回はマルヴィを初めとするフェミニスト映画理論の「観客」モデルが人種の問題を抑圧していることを批判し、主流の映画が想定する観客像から締め出された黒人女性観客たちの「抵抗的まなざし」を論じるベル・フックスの「対抗的まなざし——黒人女性の観客性」を紹介する。

ベル・フックス 

 ベル・フックス(Bell Hooks 、本名Gloria Jean Watkins、1952-2021)はアフリカ系アメリカ人の文化批評家・活動家。ブラック・フェミニズムを代表する論者の一人で、教育者としてもニューヨーク市立大学シティカレッジなどで教鞭をとっていた。

主な著作に『フェミニズムはみんなのもの』(新水社、新版:エトセトラブックス)、『とびこえよ、その囲いを』(新水社)、『アメリカ黒人女性とフェミニズム』(明石書店)、『アート・オン・マイ・マインド』(杉山直子訳、三元社)、『オール・アバウト・ラブ』(春風社)、『ベル・フックスの「フェミニズム理論」』(あけび書房)などがある。

「対抗的まなざし——黒人女性の観客性」(1992)

対抗的まなざし(The Oppositional Gaze)

ベル・フックスの評論「対抗的まなざし——黒人女性の観客性 The Oppositional Gaze: Black Female Spectatorship」は1992年に発表され、同年刊行のエッセイ集『ブラック・ルックス——人種と表象 Black looks: race and representation』にも収録された。ローラ・マルヴィを初めとするフェミニスト映画理論の批判を試みる同作において、フックスは幼少期の個人的な体験について語ることから始める。それは精神分析に基づく映画理論の抽象的な「観客」モデルに対して、より具体的な観客の存在を対置して語るためでもある。

フックスは、自身の人生において「まなざし」は常に政治的なものだったと語る。子どもの頃は、他者をじっと見つめることで罰せられた。子どもが大人に向けるまなざしは、権威への挑戦として受け取られる「対抗的なまなざし」だった。度重なる罰を通じて、フックスは自分のまなざしが危険であることを理解するようになった。その後フックスは、歴史の授業で、白人の奴隷所有者が奴隷にされた黒人のまなざしを咎めて罰したことを知って驚く。奴隷たちはまなざしを向ける権利を否定されていたのだ。

権力への抵抗と主体性の構築

ミシェル・フーコーが言うように、こうした支配の戦略は、同様の装置や戦略を駆使して様々な場所で再生産される。だがそのような権力は決して絶対的なものではない。フーコーは権力を実体として在るものと捉えるのではなく、力と力の関係として捉えることを主張している。それは、あらゆる権力関係には抵抗の可能性が必然的に存在することを意味している。

またカルチュラル・スタディーズを代表する理論家であるスチュアート・ホールも、黒人観客に向けて自分たちの力を認識するよう求めている。黒人には主体性の空間が存在し、それによって他者のまなざしを問いただすだけでなく、見返したり、お互いに見つめ合ったり、見ているものを名付けたりすることができる。

まなざしは、世界中で植民地化された黒人たちの抵抗の場所である。黒人からまなざしの権利を剥奪しようとするあらゆる試みが、逆説的に「対抗的まなざし」を生み出してきた。支配や抑圧を受けている状況下でも、まなざしを操ることで現実を変え、自分たちの力で主体性を構築することができるのである。

黒人男性観客と黒人女性観客

映画やテレビで批判的思考を学ぶ

アメリカに暮らすほとんどの黒人は、映画やテレビなどのメディアが白人至上主義を再生産・維持するための知と権力のシステムであることを認識していた。例えば黒人視聴者は『アワー・ギャング Our Gang』や『エイモス&アンディ Amos 'n'Andy』などのテレビ番組で、黒人役を白人俳優が演じているのを笑いながら見つつ、同時にそれを批判的に見ていた。黒人視聴者は、映画やテレビを見ることを通じて画面に映る白人を見つめることを通じて白人を見ることを学び、また人種平等を求める政治運動の進展を確認した。映画やテレビを見ることは批判的な観客意識を育む方法の一つであり、鑑賞中もしくは鑑賞後に周囲の人々と議論することで、自己と映像との間に一定の距離を保つことができた。

『エイモス&アンディ』にブラックフェイス(黒塗メイク)で登場したアルビン・チルドレス(エイモス)とスペンサー・ウィリアムズ(アンディ)

黒人男性観客

黒人映画(黒人監督や黒人俳優によって制作された映画)もまた、批判的鑑賞の対象となった。

サイレント映画期の黒人映画監督オスカー・ミショーが『國民の創生』(D・W・グリフィス、1915)の白人至上主義を批判して『我らが門の内にて Within Our Gates』(1920)を制作し、好評を博したことをきっかけに、黒人俳優が出演する映画を黒人専用の映画館で上映する「人種映画」というジャンルが生まれ、その後に製作される様々な黒人映画の礎を築いた。

オスカー・ミショー我らが門の内にて』(1920)

だが黒人映画にもまだ支配的な映画慣習が残っていた。それはジェンダーの非対称性である。黒人映画の制作者たちは、黒人男性観客に向けて、黒人女性をまなざしの対象として表現した。ローラ・マルヴィが指摘したように、ここでも黒人男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側に振り分けられたのである。

黒人映画に限らず、白人が製作した白人史上主義的な映画を見るときでも、黒人男性は男性中心的な権力構造に加担することによって、人種差別を見て見ぬふりをしながら作品を楽しむことができた。彼らは普段、白人女性にまなざしを向けただけで罰せられたり、殺害・リンチされることもあるような社会に生きていた。劇場の暗闇という私秘的な領域で、権力による監視や処罰を気にせず白人女性を見つめることによって、彼らは普段の抑圧されたまなざしを解放させることができた。

黒人女性観客

一方で黒人女性観客は、主流の映画であろうと黒人映画であろうと、黒人男性とは根本的に異なった鑑賞体験を強いられた。白人至上主義的あるいは男根中心主義的な映画において、黒人女性観客はあたかも存在しないかのような扱いを受けた。

映画の作中に黒人女性の描写があったときでさえ、それは「彼女は私たちではない」と強く思わせるものだった。

黒人女優の身体と存在は、男根中心主義的な視線の対象となるために、白人女性らしさが高まるように強いられる。レナ・ホーン(Lena Horne)のような黒人女優が映画に登場しても、白人観客は彼女が黒人であると気づかないことさえあった。

レナ・ホーン(Lena Horn 1917-2010)

加えて言えば、「最高のブロンド」と呼ばれたジーン・ハーロウ、マリリン・モンロー、ブリジッド・バルドーらが本来ブルネットの髪色であったことが示すように、白人女優もまた白人らしさをより強調させられていた。

また『エイモス&アンディ』でアーネスティーン・ウェイドが演じたサファイラ(Sapphire、がみがみ女)は、口うるさく不愉快で、男を駄目にする、憎まれ役の黒人女というステレオタイプの呼び名となった。

サファイラを演じたアーネスティーン・ウェイド(Ernestine Wade、1906-1983)

若い黒人観客は白人観客と共にサファイラを笑い、決して憧れることはなかった。他方、大人の黒人女性の中にはサファイラの怒りや不満に共感を示す者もいた。彼女らはサファイラに向けられた嘲笑を自分たちに対する嘲笑と受け止め、サファイラの怒りは自分たちの怒りの象徴であると主張した。

二項対立を解体するまなざし

批評的に見る

多くの黒人女性観客は映画やテレビを楽しめず、苦痛を感じることさえあった。生活の中で映像の優先度は下がり、見て見ぬふりをしたり、見ること自体を拒絶する者もいた。そうした選択は抵抗の振る舞いであり、人種差別的な表現を否定し、抗議する方法の一つだった。

その一方で、服従の姿勢をとり、主流の映画に欲望と共謀のまなざしを向ける観客もいた。熱心な映画ファンである黒人女性たちが映画の楽しさを味わうためには、分析や批評を封印し、人種差別や性差別のことを忘れなければなかった。彼女たちは束の間だけ白人に同一化して映画を楽しみ、その後すぐに現実に引き戻された。

だが、映画を見続けることを選んだ黒人女性観客の全員が服従を選んだわけではない。フックスはハリウッド映画だけでなく独立系の映画館にも通いながら、作品を批評的に見つめ、現実の人種差別が作中のジェンダー表象にどのように現れてくるかを意識して映画を見るようになったという。黒人女性観客は、見る側(男性)にも見られる側(女性)にも同一化することができないため、映画の楽しみから阻害されている。逆に言えば、どちらにも同一化できないからこそ、白人至上主義からも男根中心主義からも距離を置き、「映像(イメージ)としての女性、視線の担い手としての男性」という二項対立の外部から映画を批判・解体するまなざしを持つことができるのである。

フェミニスト映画理論への批判

以上のように、フックスはマルヴィーに代表されるフェミニスト映画理論や批評に一定の評価を与えつつも、そこで黒人女性観客の存在が無視されていることを批判する。例えばコンスタンス・ペンリーが編集したアンソロジー『フェミニズムと映画理論』の表紙に、『クレイグの妻』(1936)の一場面——二人の白人女優が向かい合っている——が用いられていることが、この問題を象徴している。収録されたどの論考でも、議論の対象となるのは常に白人女性であり、人種の違いは考慮されていない。

コンスタンス・ペンリー編『フェミニズムと映画理論』(1988)

精神分析的な枠組みに基づく主流のフェミニスト映画理論は、性的差異を特権視する一方で、人種および人種差別の問題、そして人種と性差の複合的な問題を抑圧してきた

家夫長制を維持・強化する「装置」としての映画、またその装置の産物としての「女性」を強調して語ろうとするあまり、「女性」を過度に抽象化し、実際には白人女性についてのみ語っているにもかかわらず、あたかも「女性」一般について語っているかのような言説が生み出されてしまう。また理論的な枠組みに固執することで、そのような観客モデルから逸脱するような現実の観客の実践、すなわち「対抗的まなざし」を持つ可能性が考慮されていない。

主流の映画が歴史的に黒人女性観客を排除してきたのと同様に、多くのフェミニスト映画理論もまた、黒人女性観客の声を軽視し、人種および人種差別の問題は理論化するほど重要なものではないと決めつけてきたのである。

「問いただす」ために見る

批判的な黒人女性観客は、男根中心主義的なまなざしや白人女性のような見た目の構築を押し付けてくる主流の映画に対して、自分たちの存在や居場所が欠如していると認識するのではなく、むしろ映画を見ることの喜びは「問いただす」ことの喜びであるという視線関係の理論を構築する。「対抗的まなざし」によって、主流の映画が描き出す女性像や、精神分析的な映画理論に基づいた女性観客像を解体することが、映画を見る目的となるのだ。

だが「対抗的まなざし」を本質主義的に捉え、黒人女性に特有のまなざしが存在すると想定することには問題がある。黒人女性観客が「対抗的まなざし」を形成してきたのは、あくまで人種差別や性差別による抑圧に抵抗する必要があったからであり、あらゆるものに対して抵抗しているわけではない。例えばカミーユ・ビロップスやキャサリン・コリンズ、ジュリー・ダッシュ、アヨカ・チェンジラ、ゼイナブ・デイビスといった黒人女性監督の映画を鑑賞するとき、それらの作品を批判的に見ることは必要でも、抵抗をする必要はないだろうとフックスは言う。

脱構築的な実践——ジュリー・ダッシュ『イリュージョンズ』(1982)

マルヴィが主流の映画形式を破壊するアヴァンギャルド映画に可能性を見た——別の言い方をすれば、既存の表現の「外部」を志向した——のに対して、フックスはあくまで表現の「内部」に留まりながら、そこに自分たちの空間を作り出していく、脱構築的な実践を勧めている。

例えばジュリー・ダッシュによる短編映画『イリュージョンズ Illusions』(1982)では、ハリウッド映画スタジオの重役として働くミニョンと、白人スターの歌の吹き替えをするエスターという二人の黒人女性が描かれる。ミニョンは一見すると白人文化に加担しているようだが、白人至上主義的なまなざしと性差別的なまなざしの双方に抗いながら、自らの地位、そしてエスターの女優・歌手としての地位を獲得すべく戦っている。

ジュリー・ダッシュイリュージョンズ』(1982)

 『イリュージョンズ』は、黒人女性主人公が主流の映画および映画業界の「内部」に自らの空間を主張する物語である。ジュリー・ダッシュは作中で現実の権力構造を逆転させることによって、黒人女性観客のための表現を提供し、彼女たちを常に映画の「外部」に追いやってきた固定観念に挑戦している。

こうした脱構築的な映画表現は、黒人女性観客が「自分たちが何者であるか」を知り、新たな種類の主体を構成する契機となる。フックスは、このような表現や実践について考えることによってこそ、黒人女性観客を排除しない、新たなフェミニスト映画理論の構築が可能になるだろうと述べている。

地方映画史研究への応用に向けて

都市と地方、マジョリティとマイノリティ

前回紹介したローラ・マルヴィと今回のベル・フックスによる映画観客論は、地方映画史研究に重大な問題を提起する。

映画史に大都市/地方という対立軸を導入するとき、自動的に前者をマジョリティの側、後者をマイノリティの側に振り分けたくなるが、その振り分けは決して自明のものではない。第5回「ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論」で論じたように、大都市圏の観客よりも、地方の観客に目を向けたほうがより一般的・標準的な映画体験を記述することができるとするならば、むしろ地方の観客こそがマジョリティなのだという視点を持つことが必須となるだろう。

性的マイノリティや人種的マイノリティのために作られた映画が、地方のシネコンで上映される機会はまだまだ少ない。鑑賞できる作品の選択肢が限られていることによって、マジョリティとマイノリティの間にある非対称性はさらに強まる。後者にとって地方は、大都市よりはるかに生きづらい環境になってしまう。

このように、地方映画史の記述においては、大都市と対比しての地方の可能性や独自性を語るだけではなく、セクシュアリティーや民族、社会階層など多元的で複雑な観客のありようにも目を向け、その地域の映画文化の負の側面や課題も明らかにせねばなるまい。

地方内部における中心/周縁

 加えて言えば、ある地方内部における中心/周縁の関係についても考慮が必要だろう。

例えば鳥取を対象とした場合、一方では、東京などの大都市と鳥取を比較して、双方の映画体験の差異や非対称性を記述することが行われる。要するに大都市と地方の対立であり、そこで鳥取は「地方」あるいは「周縁」の側に位置づけられる。だが他方で、鳥取県内をより細かく分節して捉えれば、鳥取市・倉吉市・米子市のような中心市街地のある市における映画体験と、郡部の町や村における映画体験の間にも、さまざまな差異と非対称性があることに気づかされる。

そしてまた、中心と周縁それぞれには、やはり二分法的な思考には収まらない多元的で複雑な観客の存在がある。地方の観客の映画体験を抽象化・一元化して捉えるのではない仕方で記述するにはどうすれば良いのか。ベル・フックスの「抵抗的まなざし」に関する議論は、そのための様々な手がかりを与えてくれる。

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