見る場所を見る——鳥取映画小史②
2022年1月24日(月)〜1月30日(日)にかけて、ギャラリーそらで行う展覧会「イラストで見る、鳥取市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を、5回に分けて掲載します。
第1回はこちら(見る場所を見る——鳥取映画小史①)
第2章 戦争・災害からの復興(1937〜1958)
四館体制が定着しつつあった映画に「撹乱」をもたらしたのは、戦争と災害でした。1937(昭和12)年7月に日中戦争が勃発し、洋画の輸入禁止や興業時間の短縮など、映画館も国家による統制を受けるようになります。営利上映には所轄警察署の許可、映写技師には地方長官からの免許が必要になり、上映作品も戦局を伝えるニュース映画や国策映画が中心になっていきました。
鳥取市は空襲による被害はありませんでしたが、1943(昭和18)9月10日に起きた鳥取地震で、死者1083名、全壊家屋7485戸という大打撃を受けることになりました。世界館と帝国館には幸いにして大きな被害はなかったものの、鳥取日活館(元 鳥取座・鳥取新興・鳥取映画劇場)と末広座は倒壊し、鳥取日活館はそのまま閉館してしまいました。末広座は復興し、戦後1946(昭和21)年7月に末広映劇に改称しています。
鳥取地震の被害の様子
(毎日新聞社『昭和 二万日の全記録 第6巻』講談社、1989年)
1945(昭和20)年8月の敗戦後、県内の映画観客数は一時的に増加し、翌年の正月興行には娯楽を求める人々が押し掛けて大盛況となりました。しかしフィルム不足や電力不足、入場料金の税額引き上げ、1947(昭和22年)2月の豪雪による観客減少なども重なり、経営は依然として厳しい状況が続きました。
1948(昭和23)〜49(昭和24)年には、文化映劇(後に丸十映劇→スバル座→スパルと改称)と富士館(後に鳥取東映と改称)という新たな映画館が市内に誕生しましたが、1952(昭和27)年4月17日の起きた鳥取大火で、戦前からあった世界館、第一映画劇場(元 帝国館)、末広映劇が焼失してしまいます。世界館と末広映劇は同年のうちに復興することができましたが、第一映画劇場は惜しまれつつもそのまま閉館となりました。
鳥取大火の被害の様子
(出典:鳥取デジタルコレクション)
こうした数々の苦難を乗り越えた後、1954(昭和29)年から1956(昭和31)年にかけては、全国的な日本映画界の活況と連動して鳥取市内でも映画館の開館ラッシュが起こります。世界館、末広映劇、スパル、鳥取東映の四館に、松竹座(後に立川映劇と改称)、日ノ丸劇場、名画座、大森映劇、鳥取映劇が加わり、一時期は計九館が市内に並び立つ群雄割拠の状況が生まれました。
日ノ丸劇場
(『日本海新聞』昭和30年4月12日)
中でも華々しいデビューを飾ったのが、1955(昭和30)年4月13日に鳥取大丸横に開館した日ノ丸劇場です。総工費約一億円、本格的な演劇公演ができる広い舞台と、1500人分の客席を備えた巨大劇場で、こけら落としには美空ひばりショーが催されて大きな話題となりました。
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