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見る場所を見る——鳥取映画小史①

映画の生態系を記述する

2022年1月24日(月)〜1月30日(日)にかけて、ギャラリーそらで行う展覧会「イラストで見る、鳥取市内の映画館&レンタルビデオショップ史」の解説文(会場に設置予定)を、5回に分けて掲載します。この展覧会は、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタルビデオショップを調査し、Claraによるイラストを通じて当時の記憶を復元する試み。そこに筆者(佐々木友輔)作成の年表と解説文を付し、鳥取市内の映画史が概観できるようにする予定です。会場に来られない方にも、ぜひ以下の文章を通じて鳥取の映画史の一端を知ってもらえたら嬉しいです。

解説文では、①映画②それを見る場所③観客の関係を、一種の「生態系」として捉え、「撹乱」というキーワードのもとに5つの時代区分を設定しました。「撹乱」は生態学から借用した語で、生態系を乱し、生物の暮らす環境などに大きな影響を与える出来事のこと。テレビやビデオなど新しいメディアの登場や戦争・自然災害などの大きな出来事が、安定していた映画の受容形態を撹乱し、映画を見る場所や観客の行動に大きな影響を与える。そうして新たな映画の受容形態が形成され、安定し始めたところで、また次の撹乱が起きる——このようなプロセスを繰り返してきた歴史として、鳥取市の映画史を描き出してみたいのです。

フェイドインイラストweb

シネマスポット フェイドイン
(イラスト:Clara)

第1章 劇場と活動写真(1898〜1936)

最初に活動写真(映画)が日本に輸入されたのが1896(明治29)年。鳥取に持ち込まれた正確な時期は不明ですが、1898(明治31)年にはすでに小学校や寄席・劇場で活動写真会が行われた記録が残っています。当時市内にあった幸座大黒座などの劇場は、芝居に限らず、活動写真会や政治集会、市民大会などにも利用され、現在の市民会館や公会堂に似た役割を果たしていました。

1912(明治45)年7月27日、袋川に架かる若桜橋の近くに鳥取初の活動写真常設館・電気館が開館しました。同年3月に山陰線が京都から出雲まで全通しており、その集客を見込んで鳥取駅近くに建設したのだと思われます。特徴的な館名は、日本初の活動常設館である浅草の電気館にあやかったもの。残念ながら鳥取の電気館に関する資料は僅かしかなく、外観を記録した写真も見つかっていません。

鳥取の初期映画史を語る上で欠かせないのが、鳥取育児院(現在の鳥取こども学園)の尾崎信太郎です。尾崎は育児院の運営資金を得るために活動写真の巡回上映を始めましたが、1914(大正3)年に幸座を活動常設館・世界館に改め、9月1日に興行を開始します。さらにはライバル関係にあった電気館を購入したり(後に寄席に転用)、劇場・戎座を借り受けて一時的に活動常設館として運営した後、1920(大正9)年2月18日に新たな活動常設館・帝国館を建設。世界館帝国館を擁する川端通りは繁華街として栄え、川端銀座と呼ばれるようになります。

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世界館
(Claraによる展覧会「新春 おもいでシネマClaraのArt exhibition」より)

1926(大正15)年10月15日には、当時はまだ田園が広がっていた末広通りの発展を期して、第三の活動常設館・末廣館(後の末広映劇)が開館します。管弦楽団の招聘や昼弁当の販売、さらには食堂や浴場を館内に設置するなど、ユニークな経営戦略が立てられました。

1928(昭和3)年5月に寄席・明治館が活動常設館となり、鳥取市内での四館競合時代が幕を開けます。明治館の経営は安定しなかったようで、開・閉館や改称を繰り返しながら1935(昭和10)年頃に姿を消しました。しかし同館と入れ替わるようにして、1934(昭和9)年に劇場鳥取座が活動常設館として興行を開始。1943(昭和18)年9月の鳥取大地震まで、四館の競合が続きます。

1931(昭和6)年の日本海新聞によれば、鳥取市内の劇場の観客数が約15万人なのに対し、映画の観客数は約54万人。当初は固有の上映会場を持っていなかった映画は、寄席や劇場を宿主にして勢力を広げ、やがてその場を自らの常設会場へと作り替えて、娯楽の王座についたのです。





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