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掌編小説310 - 窓から鳩を飛ばしています

鳩山探偵事務所の「鳩山」はもちろん単純に俺の苗字だが、文字どおり鳩が山のように集まることも、じつはままある。デスクのうしろが大きな出窓になっていて、そこに腰かけて窓を開けると、頭に肩に腕に脚に、次から次へと鳩はとまった。

「へぇ、やっぱり浮気してたんだ」

ぐるるぽー。愉快な音でニヨは返事をした。便宜上「ニヨ」と名前をつけているが、あくまで従業員であって飼っているわけではない。二十四番目の従業員なのでニヨ。助手を手配するときはいつもこうして、番号からそれらしい名前をあてがっている。従業員は全部で三十七羽いた。仕事を抜きにすれば、つきあいのある鳩はこの街の鳩だけでも百羽を超える。

ニヨには浮気調査を任せていた。依頼者は実家住まいの女子大生。最近父親に不審な行動が見られるので、浮気調査をしてほしいとのことだった。母親は入院しているため、ひとまず自分だけで浮気の有無を確認したいという。ニヨの報告によれば、父親は職場から二駅離れた街のラブホテルで部下の女性と頻繁に逢瀬を重ねているようだ。ホテルの名前と住所をメモした。どれだけ賢くても鳩に写真は撮れないので、金曜日の夜は自らここで張りこみをしなければならない。

壁の鳩時計が四度鳴いた。

ノックもなしに事務所の扉が開く。相変わらず、病的なまでに時間どおりだった。ライトグレーのパーカーに黒のジャケット。デニムに包まれた脚は細いばかりで筋肉がなく、ナイキのスニーカーにウェリントン型の眼鏡が大学生のような雰囲気を醸しだしている。大場朱鷺。顧客の一人だ。

「なんだ、まだミーティング中か? 鳩のくせに鳩時計も守れないとはな」

鳥も人も、共通して朱鷺というのは鳴くとうるさい。

「鳩時計の鳩はカッコウだ」

「なるほど、閑古鳥が鳴く探偵事務所にはふさわしいな」

自然と溜息がこぼれる。凝った肩を手で揉みほぐし、窓を開け放って鳩たちを外へと促した。最後の一匹まで見送り、窓を閉めてからふりかえると、大場は応接スペースで勝手にティーバッグの紅茶を淹れてすっかりソファに腰を落ちつけている。優雅な所作で一口飲んだあと、顔をあげた。

「鵜ノ沢海里について報告したいことがあるそうだが」

「ああ」

「発現したのか?」

「結論から言えばな」

「聞こう」

俺より四つも年下のはずだが、出会ったときからずっと大場はこの調子だ。もらった名刺の肩書きには「人事部」とあったが、組織の中で人間を相手に仕事をしているという事実が未だに信じられない。

両開き書庫を開け、本件に関する書類一式をまとめたファイルを取りだす。前回の定期連絡からまだ一週間しか経っていないが、事務所としての決まりなので、面倒だがいつもどおり依頼内容の確認からはじめる。

「依頼人は大場朱鷺サマ。依頼内容は個人信用調査で、調査対象は鵜ノ沢海里さん。具体的には、彼が大場サマの提示する『交渉人』の条件を満たしているかを査定するための実地調査――でよろしいですね?」

「問題ない」大場が足を組んだ。

「定型文終わり」俺も素に戻る。

「発現したのはいつだ?」

「二月七日十七時。前々から言ってるとおり予兆は十月頃からあったが、自分でコントロールできるようになったのはこのときで間違いない」

「能力は」

「鳩との意思疎通」

「貴様よりもすごいのか?」

「こんな能力に優劣なんてねぇと思うが、まぁ程度だけを見れば俺には劣るな。俺と鳩は会話する以外にたとえば表情の読みあいなんかもできるが、鵜ノ沢の場合、手段は会話のみに限定される」

大場はしばし思案顔になった。ぞっとするほど冷徹な瞳だ。「交渉人」として鵜ノ沢がどこまで使えるのか、算段を講じているのだろう。たった十二歳の、しかも鳩と話せるという子供相手にこんな顔をするのだから、コイツの勤勉さにはほとほとあきれる。

「なぜ前回の定期連絡で報告しなかった」

長い沈黙のあと、ようやく大場がこちらを見据えて訊ねてくる。第一関門は突破したようだ。突破されてしまった、というのが俺の個人的な心境だが。

「二月九日の段階ではまだ第二条件をクリアしてなかったからだよ。おまえが言うところの『後天性』ってやつ」

「具体的には」

「二月十一日、十五時半過ぎのことだ」ファイルから該当する資料を引っぱりだし、テーブルの上をすべらせるようにして大場のほうへよこす。「クラスメイトの鷹森翔子が連絡帳を届けに来て、その後、二人はリビングからベランダの鳩を観察する。ここまではいつもどおりだ」

鵜ノ沢海里の調査は四番目の従業員――ヨツバに任せている。あの日ベランダにいた鳩はヨツバをのぞいて計五羽。このうち三羽は鵜ノ沢海里と面識があり、残り二羽は単なる野次馬だった。

「ところが約十五分後、会話の最中に鷹森翔子がわずかに動揺した様子を見せ、つづいて鵜ノ沢も同じ反応を示した。おそらく彼女の引っ越しの件に触れたんだろう。鵜ノ沢はこの情報を、前日に試みた鳩との会話で偶然耳にしてる」

その瞬間の鵜ノ沢を、ヨツバはよく観察していた。鳩と会話ができるのだという興奮や優越感。彼女を驚かせてやったというささやかな喜び。だが、本当はそんなことよりも。

「不登校の鵜ノ沢にとって、鷹森翔子は唯一の社会との接点であり友人だ。二度と会えなくなるかもしれないという事実に鵜ノ沢は動揺した。そして、衝撃を緩和するために、そこにあった特別な感情にも蓋をした」

「……なるほど、第二条件を満たしうる充分な"傷”だ」

大場がすらりと伸びた嫌味のように美しい指先でテーブルの上の資料を拾いあげる。本格的に食指が動きだしたようだ。

空調の音さえ煩わしく感じるほどの静寂。ときおり指先を顎にやりながら静かに資料へ目を落とす大場は、顔はおろか髪型から服装に至るまで、出会った当初からまったく変わっていない。

大場とは、かれこれもう二年のつきあいになる。

最初に出会ったときの大場は、依頼人ではなく「交渉業務」を行うとある組織の「採用担当」だった。本人の能力がまだ発現しないうちから素質を持つ人材を的確に見抜き、病的なまでの執念でもって「交渉人」にする。その仕事ぶりは「逢魔」と称され、組織の中では有名らしい。

そんな大場から、最初にして唯一、逃げきったのが俺だった。特筆すべきは、大場があのときまだ大学を出たばかりの新人で、俺はコイツにとって最初の候補者だったということだろう。逃げきるまでには一年かかった。だがもし大場の候補者リストからあと二、三順番がずれていたら、今頃は俺も「交渉人」になっていたはずだ。

自ら機会を手放してしまったので、「交渉人」が具体的にどういうものなのかはわからない。ただ、あれ以来大場から定期的に候補者の個人信用調査を依頼されるので、求められる条件だけは把握している。

条件一、特異な能力を持っていること。

条件二、"傷"を負っていること。

――心因的な傷、つまり能力の代償だ。特異な能力を持ってしまったがゆえに知らず知らずのうちに常識から逸脱し、世界に裏切られる。自分や誰かを傷つける。なにかをあきらめる。十人十色だが、行きつく先はおおむね「孤独」だな。

「報告ご苦労」

回想、ではなく現実の声で我にかえる。資料は几帳面にテーブルの上にそろえられ、大場はとうに冷めてしまった紅茶を、相変わらずの優雅な所作で飲んでいる。

「それで、採用するのか」

「ああ」

第二関門も、突破されてしまった。

鵜ノ沢の趣味は天体観測だった。不登校になってからも、月に一度は父親とともに車で遠くまで星を見に出かけている。狙うのはおそらくこのタイミングだ。巧妙な状況操作と話術、「逢魔」の気迫でもって、大場は今回も確実に組織の手駒を増やすだろう。

「契約どおり、経過観察ということで調査は今月末まで続けてくれ。調査が終了した段階で報告書は請求書とまとめて人事部の俺宛てに郵送すること。依頼料はそれが確認でき次第振り込ませてもらう」

「了解」

ソファから立ちあがり、左右に大きく伸びをする。大場と面談したあとは特別骨がバキバキ鳴るから嫌だ。

普段はこうしているうちに別れの挨拶もせずさっさと出ていくが、妙なことに、大場は年上の老けた行動を無遠慮に見つめてまだソファに座っていた。

「なんだよ、まだなんかあるのか?」

「ある」

「なに」

「鳩はどうした」

靴底が床の上でこすれ、キュッ、とまるで小動物の断末魔みたいな音をたてる。猫ならここで舌なめずりでもしただろうが、大場の墨を落としたような黒の双眸は冷徹なばかりでまったく愛嬌がない。

「鳩はさっき、おまえに辟易してみんな出窓から飛んでったろ。見えてなかったなら眼鏡屋通り越して眼科行ったほうがいいぞ。それか脳神経外科」

「下手な嫌味だ」

こちらに一瞥もくれないまま鼻を鳴らす。表情が変化するところは一度も見たことがないが、大場なりに、これで笑っているつもりなのかもしれない。

「俺がここへ来たとき、窓から飛んでいった鳩は三十六羽だった。貴様の助手は合計で三十七羽のはずだな。では、事務所を空けて長期調査に出ている鳩――正確には貴様が『ダース』と呼んでいる十二番目の個体はどこにいる?」

肩をすくめたら、自然に溜息がこぼれた。

「バケモノかよ」

逢魔バケモノだよ。神、精霊、妖精、妖怪、幽霊、UMA、貴様が従える三十七羽の鳩の個体差までなんでも視える。だがあくまで視えるだけだ。なぜ鷹森翔子に鳩を差しむけているのか、その理由は貴様の口から直接説明してもらおう」

「探偵には守秘義務がある」

「殊勝なことだ。さしずめ依頼人は貴様自身といったところか。だがこの件に関しては口を割るまで追及させてもらうぞ。鷹森翔子は交渉人候補者である鵜ノ沢海里の現在の精神構造において非常に重要な意味を持つ存在だからな」

追及。嫌な言葉だ。二年前、大場が俺を交渉人にしようとしつこくまとわりついてきた日々を思いだしてしまう。

罪も憎まず人も憎まず。探偵という仕事も、探偵という仕事が炙りだす人間の業も好きだが、それゆえ孤独だった。金もなかった。鳩さえいれば死にたいとは思わなかったが、死ぬかもしれない、と思ったことは少なからずある。そういうとき、大場はおそろしく適確に俺の前にあらわれた。

鳩たちが皆飛び去ってしまったあと、あるいは暴力や空腹や酒や暑さ寒さで意識が朦朧としているとき、路頭に迷うとなぜか必ず夕日を背にして立ちはだかる大場との遭遇はまさしく逢魔だった。交渉人になれ、と大場は言った。佇まいは死神か悪魔だが、声はとても優しい。

幾度となく差しだされた手に、けれど俺は応えなかった。探偵という仕事が、探偵という仕事が炙りだす人間の業が、鳩の次に好きだったから。

「まぁ、同族のよしみってやつだ」

と、俺はようやくそれだけ吐露する。

「同情のつもりか」

「情のあるやつは探偵に向かないな」

あるいは「常」という字を当てはめてもいいが。心の中で補足すると、知ってか知らずか、ふん、と大場はまた小さく鼻を鳴らした。

「貴様のような鳩小屋探偵以上に特殊な仕事である点は認める。だが悪いものじゃない。むしろ、救いだと俺は思っている。異界では、望まぬ資格を持った異分子もまた常人だ」

大場の横顔にいつもの鋭さはなく、声は、あのときのように優しかった。

鳩時計が五回鳴く。それが本当の終わりの合図だった。午後五時、相変わらずおそろしく時間きっかりに大場は事務所を辞去する。

「貴様の老婆心は不本意だが、まぁ、こちらの仕事の邪魔さえしなければ咎めるつもりはない」

だが、と大場はふりむかずつづけた。

「断言するが、鷹森翔子はこの先も死ぬまで常人でありつづけるぞ。この決定的な相違が鵜ノ沢海里にどう作用するか、よく考えることだな」

扉が閉まる。どこにでもあるスチールドアだが、鳩も人も去った事務所ではそれさえひどく大げさに鼓膜をふるわせた。ガチャン。俺と俺でない人間がそれぞれの世界に戻ったのだと知らしめる、決定的な音。

異分子を異界で中和する、という大場の信条を否定するつもりはない。実際、大場が「逢魔」として差しだした手に、交渉人という常識を外れた道に、救われた人間は少なからずいるはずだ。

それでも、俺は朱鷺より鳩が好きだった。

象徴など務まらない、圧倒的多数の、特別ではないありふれた鳥。俺が望まぬ資格を持つ異分子だというのなら、俺はその特異な能力を、愛すべき鳩たちの世界で使ってやる。

同族から見れば、あまり褒められた所業ではないだろう。老婆心といえるような代物ではない。誰も救わない。

だが、俺は鳩のおかげで今も人間とその業の世界に留まれている。似た者同士の共感ではなく、似ても似つかぬ者同士の想像が、本当の救いだと思っていたい。

逢魔が時が近づいている。

インスタントのコーヒーを淹れてデスクへ戻る。パソコンのスリープモードを解除し、スケジューラーを立ちあげて残りのタスクを確認した。大場を最後に今日の面談の予定はなく、このあとは七時に一度事務所を閉め、車を出して繁華街のほうまで張りこみへ行かなければならない。夕食は車で適当に済ませればいいし、残りの時間は報告書や請求書といった諸々の資料を仕上げる作業に充てることにした。

ダースの報告によると、先日、文集に載せる作文に鷹森翔子は「将来は鳥類学者になりたい」と書いたそうだ。

学者を夢見るほど鳥が好きならば、どこかの時点で自分を観察している鳩の存在に気づくだろう。それが名刺になって仕事につながれば儲けものだが、別に、そうならなくてもかまわない。資格がなくても、こちらへつながる扉はいつでもそこにある。どうするかは彼女次第だ。

区切りのいいところで、一度煙草を吸いに出窓にのぼった。

野生の鳩が一羽通りがかり、少しばかり世間話を楽しむ。鳩は人間の俺よりよほど人間を見ている。紫煙を吐きながら、その話にじっと耳を傾けているのが好きだった。

二月。ときどき春を予感させる陽気を感じることもあるが、日が落ちるとやはりまだまだ寒い。それでも窓を開け放ったまま、鳩とともにぼんやり街を見わたした。

街には明かりが灯りはじめている。そこにある愛すべき人間の営みを、つかのま、俺は夢想している。

★鵜ノ沢海里と鷹森翔子の物語
掌編小説309 - 鵜の目鷹の目、鳩の目

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