「無理しないで。」の意味の無さ
「無理をしないで」ができる人なら「鬱」になっていないかもしれない。
という話。
なざなら、私もよく、言われてきたと思う。
「無理しないで」
無理しない。
🟰自分の限界を超えて挑戦しない。
🟰努力しない。
🟰価値がない。
鬱になる前の私の思考では、こう変換されていた。
無理と努力
目指したいもの、成ると決めたものには全てなってきた。
叶えてきた自分の意志で。
目指す目標に対しての現状を分析し、たどり着くためのステップを計画し、
逆算をし到達できなかった場合のもしもの予備日も含み、
確実に目標を制覇してきた。
だから夢見る夢はなく、「将来的に〇〇する」は既に逆算し計画済みの目標だった。
そんな私は、常に限界を越えることが努力。
努力と無理の差がない。
「無理」の意味が分からないから「無理をしない」ことが出来なかった。
無理ってなに?
だって、努力できるのが私じゃない。
だって、頑張り続けられるのが私じゃない。
人並みには価値がないんだから。人より努力をして当たり前じゃない。
だから人が言う無理を超えてるは、その人には十分な努力って意味で。
私にはまだ足りない。
「無理しないで。」
と声をかけられても、気を抜いてはいけない。
滑り落ちてしまう。
無理をしないで🟰努力しないで🟰価値がないアナタ
たぶん半年ぐらい問い続けてた。
強制的に体がストップして、努力できない、頑張れない(価値がない自分)になってしばらく。
それでも、生きていた。価値がないのに生きていた。だから悲しかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。悲しい、悲しい。
(努力できないのに)生きててごめんなさい。
(頑張れないのに)生きててごめんなさい。
すっと泣いていた。
この言葉が頭の中をグルグルして、何を見ても悲しかった。
何をしても悲しかった。ご飯を食べることも悲しかった。
「食べるって生きる」だから「生きる価値がないのに」食べていることが悲しかった。
ヒントは別のところから降ってきた
「無理」ってなに?と無理自体を定義するものが、こんがらがり過ぎていて、自己否定に繋がっていた。そのためそこから答えを捻り出すのは「闇」で出口を探しているに等しかった。
最初は頭の中に無数の声が鳴り響いてるから、それに振り回されている。
でも、それが誰かの声であること、自分の意見だと思っていたけど、誰かの価値観であること、そしてそれがほとんどの場合、今という現実ではないことが分かると、声が収まるのを待つことができるようになるのだ。
例えば声たちはこう言う。
「走り続けろ」「休むな」「価値がない」「お前が無理をしないことなど許されない」
それらが嵐のように響くけど、それをフーとため息で吐き出して、自分に言ってあげる。
本当は、やりたくない。
本当の気持ちは声が小さい
思考の声たちのボリュームは大きい。
目標を実現させるため、価値がある自分を存在させるために叫んでいる。
その何十にもなったトルネードのような大きな音に押しつぶされて、
本当は居るのに無いとして扱われてきたのが本当の気持ちだ。
本当はやりたくない。
そして、本当の気持ちに従って行動することは訓練だった。
思考の声に従って生き続けてきた歴史が長い。
したがって、本当の声に従うことのほうがした事がないことなのだ。
人は試したことが無い事を選択するほうが怖い。
「やったことないから」「無様な姿になるから」「初めてだから」
「ふさわしくないから」
慣れないことを選ぶ恐怖。
勇気は使わないとどんどん、小さくなる。
本当の気持ちを無視しつづけて生きてきた私には
普段したことない行動を選択することにとても勇気がいった。
ただ、本当の気持ちに従う
本当はやりたくない。だから、やらない。を実行する。
これに8ヶ月かかった。
「参加するって表明したけど、やってみたら本当はやりたくなかった。だから、辞退したい。(社会的には約束を守らないことは悪いこと。人としては良く無い行動)それでも、本当の気持ちはやりたくない。だから、やめる。」
それは今までの私からしたら「逃げ」で。人生で初めて「有言実行」しない行為だった。行動するときには、ものすごくドキドキして、でもやってみたら案外周りに影響がなくて、そんなに迷惑にもなっていなくて、まずはそれに驚いた。
「人生で初めて自分との約束を守らなかった。」と友人に話すと「初めてなの?人生で何回かはあっても良いでしょ?」と裏切り行為をあっけなく何でも無いことだと認めてもらえた驚きにもなった。
そして、本当はやりたくない自分も認めることができた。
できない自分がいても良いと認めることができた。
そしたら、、、降りてきたのだ。
「そうか、、。無理をするって、本当の気持ちを無視して、思考で行動を押し進めることだったのか。」
「無理」の自分軸を知る
私にとっての無理は「本当は」っていう気持ちを無視して
それ以上に行動することだったのか。
それが私の軸か。これを新しい自分の基準にしよう。
「無理をしないで」とは何千回も声を掛けられてきたけど、
無理とは何かについて話てくれる人は居なかった。きっと居ても聞く耳を持たなかっただろうけど。
自分軸での「無理」が分かると「無理をしない」も分かるようになった。
本当の気持ちを無視したときが無理をしているとき。
本当の気持ちを無視して行動しないこと🟰無理をしない。になった。
まとめ
「無理をしないで。」という声がけは日本社会ではありふれているけど、
無理をしないで良い環境や風習は整っていないだろう。むしろ逆な事が多いと思う。スペインは仕事に行くというと「可哀想。あんまり働かないで。」と声をかけられる。日本語の「無理をしないで。」と声をかけるタイミングに似ているがより具体的だ。あなたの基準で「無理をしないで」と声をかけても相手の中で「無理の定義」が健康的に整理されていないと
その言葉は届かない。というお話。
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