プレジャー・ランドへようこそ_第1話
プロローグ
1
「うたた寝でも悪夢かよ」
ノキアは小さく独りごちて、舌打ちをした。
同じような家が建ち並ぶ住宅街の中に、山中ノキアの家はある。中学二年生のノキアは、生理痛を理由に部活をサボって早めに家に帰ってきていた。時刻は夕方の6時半。腹痛はすでに回復していたものの、なんのやる気も起きず、ノキアは制服の白いシャツとジャケットそしてスラックスを着たまま、ベットの上に横たわっていた。窓から入ってくる西陽に目を細め、ポケットの中からコーラ味のガムを一つ取り出して、口の中に放り込んだ。
ちょうどそのタイミングで、二階に誰かが上がってくる音がした。耳障りな音がする。これだけ音を立てて二階に上がってくる人物は、この家には一人しかいない。体重53キロの山中恵美、ノキアの母だ。ノキアはあまりにわざとらし過ぎる母親の階段を上る音を耳にして、思わずため息を吐く。そして、ち、と舌打ちをした。
ノキアはガムをくちゃくちゃと噛み、今日の授業中に担任が言っていたことを反芻する。
ーーメラビアンの法則。
「人は見た目が9割ですよ」
国語教師である担任の田中は、ドヤ顔でそう言い放った。ノキアはお前がそれを言うか、と思う。いかにもオタクっぽい真っ黒な髪をセンター分けにして、黒縁眼鏡をかけている。貧相で華奢な体に、なぜそのシャツの柄なのかと思わせるような絶妙なチェック柄のシャツ。そして、よくわからない柄のネクタイ。柄オン柄。見た目が9割を占めるのであれば、もう少し見た目に気を遣ったほうがいいのでは? と古びた机に肘をつきながらノキアは思った。
そもそも、授業はどうした。また脱線かよ、とクラス全員の冷たい視線を一身に浴びながらも、田中の脱線は止まらない。
「非言語コミュニケーションは、実はコミュニケーションの9割を占めています。わかりにくいと思うので簡単に説明しますと、言葉によるコミュニケーションは、実際のコミュニケーションの中の1割しか占めていない。態度や視線、感情など言語によらないコミュニケーションが、コミュニケーションの9割を占めているのです。私は単純な容姿の話をしているわけではありません。今、あなた方が前を向いて授業を聞いているふりをしていても、私の授業が面白くないと思っているということは、目線やその肘のついた姿勢で十分伝わってきているということを伝えたいのです」
田中はくいっと左手の指でメガネを上げながら、教室を舐めまわすように見た。嫌味ったらしい話し方が鼻につく。教師という立場でもなければ、こんな嫌味なことを自信満々に胸を張って言える度胸など持ち合わせていないだろう。相手が中学生だと思って完全に舐め切っている証拠だ。きっとPとTとAというアルファベット3文字が出てきた途端、田中はいつものようなつまらない授業に戻るに違いない。
しょーもな、とノキアは思いながらも、くだらない授業よりかは幾分、今日の田中の雑談は面白いような気もした。
田中は、その後も国語の内容に戻ることなく、メラビアンの法則について熱弁した。田中の言葉に力が入れば入るほど、生徒たちの興味はそれていく。そんなことにも気づかないくらいに、田中の話は長く、熱がこもっていた。教室内にいる生徒の誰しもが肘をつきあくびをし、そして教室の時計を見つめている。
ノキアは、田中がすべきことはコミュニケーションについて熱く語ることじゃなく、生徒が興味を持つ授業をすることじゃないのか、と思った。まずお前が読まないといけないのは、空気じゃなくて教科書だろう、と。それが今日の授業のハイライト。
恵美が階段を上る音を聞きながら、これもメラビアンの法則になるのだろうか、とノキアは考えた。
階段の音だけで、ノキアには恵美が苛立っていることが伝わってくる。
口の中の咀嚼音と階段を上るドスドスという音が、ノキアの頭の中でないまぜになる。階段を上る音が最大音量になったのと同時に、音は止んだ。恵美が二階に到達したのだ。
恵美の次の行動は、ノキアには想像がついた。
ノックもせずにノキアの部屋のドアを開ける。そして、開けるのとほぼ同時に苛立った声で叫ぶだろう、と。
「ノキア! ごはんって言ってるでしょ!」
その怒号に反し、一応、恵美は雀の涙ほどの遠慮した態度を表す。
恵美はノキアの部屋に入る時、ノックはしないがドアを全開にはしない。少しだけドアを開けて、その隙間からノキアに向かって叫ぶ。それが恵美の中でのルール。思春期の女子に対する最低限の配慮だと思っているらしい。突然開けて、見られたら困るものがあるとでも思っているのだろうか。何に対する配慮なのか分からないとノキアは思う。とはいえ、「たのもー」と道場破り並に突然ドアを全開にされても不快な話だが。
恵美はノキアの予想を裏切ることなく少しだけドアを開けて、そして、怒鳴った。予想はついていたものの、実際にやられるとノキアは腹が立った。腹痛で部活を休んでる娘に対しての態度とは、到底思えないとノキアは思う。
それにごはんと呼ばれてもお腹は空いてない。部活をしている日ならこの時間帯に食事をとることはないのだし、早く帰ってきたからと言って食事の時刻を早められても、と思う。さっきまでお腹は痛かったし、こちらのタイミングで食べさせろよとノキアは思った。
恵美の苛立ちはウイルスのように空気中に浮遊し、ノキアは思わずそれを吸い込んだ。ただでさえわざとらしい階段を上る音で苛立ったというのに、恵美の一言はノキアをさらに苛立たせる。
苦虫を噛み潰すみたいに、ノキアはガムを再び噛み始めた。ふぅと一息ついてから言葉を吐く。
「ノックしてって、いっつも言ってるじゃん」
普段より少しトーンを落とした低めの声で、ノキアは言い放った。
非言語コミュニケーションで母親に自分の苛立ちが伝わるようにと、言葉にありったけの嫌味を込めて。
「何度呼んでも来ないからでしょ。どうせ、ノックしたって気づかないと思ったのよ。ごはん、冷めたら美味しくないんだから、早く降りてきて食べなさい」
知らんがな、とノキアは心の中でツッコミを入れる。こっちは貧血気味だし、腹だって痛いんだ。ノキアは恵美に聞こえないように小さく息を吐く。
「わかったって。今、ちょっとお腹が痛いから、もう少ししたら行く」
この会話を早く終わらせて、母親に一秒でも早く部屋から出て行ってもらいたい。ノキアは、恵美の説明に納得しているかのように、穏やかで静かな声を出した。
一方の恵美は、わざとらしいくらいに大きなため息をついて「早くきなさいよ」と言いながら部屋を出た。
ばたんとドアを閉める音が、ノキアの頭に響く。さっきまで痛くなかったはずの頭が痛み出したような気がした。
2
午後7時過ぎ、家族が食事を終えたと思われる頃合を見計らって、ノキアはのっそりとベッドから起きる。ゆっくりと階段を降りリビングのドアを開けると、ノキアの予想どおり、母親も弟も夕飯を食べ終えていた。
ノキアの父である山中裕司もリビングでくつろいでいる。いつもなら残業で遅いのだが、今日は仕事が早く終わったのだろう。一緒に食卓を囲むと、食事の仕方を逐一注意されるので、食べる時間をずらしておいてよかったとノキアは小さく息を漏らした。
3人はリビングでテレビを観ている最中だった。リビングの45インチのテレビの前のソファに腰掛けていた恵美が、ノキアに気づき振り返る。そしてノキアに一瞥をくれた。
「お腹、大丈夫なの? もうご飯食べれるなら、温め直そうか?」
いかにも娘を心配する優しい母の声色で、ノキアに声をかける。
たかだか30分ほど前のヒステリックさは、一体どこに消えてしまったのだろうか。母親の中身が入れ替わり、別人になったのかと思うほどの変わりっぷり。あまりの良い母親面にノキアはなんだが胸焼けがした。
リビングに降りてきた時、ノキアの腹の具合はもうだいぶ良くなっていた。お腹が空いたと思って降りてきたけれども、母親の押し付けがましい愛情を食らって空腹だった腹が不思議と重たく感じる。食べたくもないスナック菓子で満腹になったような。
とはいえ腹がいっぱいになる訳などない。食べ盛りのノキアの腹はぐぅと鳴った。
腹が空いているとは言っても無駄に胸焼けしているノキアは、母親の温かい愛情たっぷりの食事は喉が通らないような気がした。なんとなくあったかい食事より冷たい方が喉を通りそうな気がする。恵美の温め直すかという質問に、ノキアは首を左右に振り「大丈夫」と答えた。
ノキアはダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。リビング横のダイニングは、さながらモデルルームのようで、面白みに欠ける。簡単に言うと無個性。ノキアの父親である裕司が銀行員であることが影響しているかもしれない。
優しい色合いの木目調のテーブルには、一人分の夕食が寂しげに残されていた。
冷え切ったご飯、冷たくなった味噌汁、ぬるくなったサラダに、サクサク感の衰えた唐揚げ。パックの納豆だけがいつもと同じ顔で佇んでいる。
ノキアは小さな声で、「いただきます」と冷えた食事に声をかけた。きちんと並べられたノキア用の赤いラインの入った箸を手に取り、冷え切ったご飯を口に運ぶ。
数十分前には、まだあたたかったであろうご飯は、もうすでに水分が飛んでボソボソとしている。いつもより余計に噛まなくては飲み込めない米粒にうんざりしながら、口の中の米粒を冷めた味噌汁で一気に流し込んだ。
ぬるくなったサラダも、鮮度の落ちた唐揚げも、どれもこれも食卓に並び立てだったらきっと美味しいに違いない。しかし、少し時間が経っただけで、不思議とどれも美味しくなかった。
ただ、恵美の手の入っていない買ってきた時と同じ状態のパックの納豆だけが、いつもと同じように美味しいとノキアは感じた。
鮮度の衰えた食事を食べながら、まるで親の愛情みたいだとノキアは思う。出来立ては温かいが、次第に冷めたくなっていく。そして、鮮度が落ちれば破棄されて、誰しも生きるために新しく鮮度の良い食事に手をつける。
幼く無邪気で可愛かった子どもにかけた愛情も、子の成長とともに冷めていくのかもしれない。新しく愛情を注ぐ対象ができれば、必然的に愛情はそちらへと流れていく。ノキアは冷めた食事を見つめながら、そんなことを考えた。
ノキアは冷え切った唐揚げを箸でつまみ、頬張る。鮮度が落ち、脂が浮いてきた唐揚げの過度な揚げ物アピールに胸焼けがした。親の愛情も唐揚げも、鮮度が大事なんだろうなと、頭の隅で考えながらノキアは唐揚げを噛み締める。
ダイニングの横のリビングでは、恵美とノキアの弟であるシオンが楽しげに会話を弾ませていた。テレビ画面に流れているローカル番組ではプレジャー・ランドの特集が組まれているらしく、二人が盛り上がっている様子が、背中からだけでもわかる。
テレビ画面の中でピエロの仮装をした小さな女の子が「あそびにきてね!」と呼びかけると、画面がぱっと文字に切り替わった。
再び画面は映像に切り替わり、プレジャー・ランドの楽しげな様子が映し出された。海外でも人気の屋内型遊園地で、ダークファンタジー感がある遊園地として有名だ。ノキアも噂を耳にしたことがあった。
ノキアの住む街にもプレジャー・ランドがやってくると発表になってからというもの、みんな少し浮き足立っている。学校でもいつ行くかだとか、誰と行くかなどとみんな口々に話をしているが、友人のいないノキアには関係のない話だった。だからと言って家族と行きたいというわけでもない。興味はあるが、連れ立って行く相手がいないというのが正しいのかもしれない。
画面に映るプレジャー・ランドは、噂通り少し不気味な感じがした。小さい子は怖がるかもな、とノキアは思う。それに、どこかで見たような不思議な印象を受けた。ぼんやりと薄暗いその世界観は、まるで夢の中の世界のような感じがする。いつも誰かに追いかけられている悪夢の世界。最近は追いかけ回される夢ばかり見ている。起きた瞬間に額に汗が滲むような。ストレスだろうとは思うけど、相談出来る相手もいないし、寝ること自体がストレスだよな、とノキアは思う。
レポーターが支配人と呼ばれる男性にインタビューしている様子が流れた。支配人はシルクハットとタキシード、顔はピエロのメイクを施しており、いかにもという風貌だ。先ほどの3歳くらいの小さいピエロの女の子を抱いている。
「大盛況ですね! 私も初めてお邪魔させて頂きましたが、この世界観がとても素敵だと感じました。ソワソワするようなワクワクドキドキするような。プレジャー・ランドのモチーフのクジラもかわいいですよね! 食べ物もワクワクするような食べ物もたくさんあるし、私、お土産にぬいぐるみとお菓子をいっぱい買って帰ろうと思います!」
支配人がお辞儀をして顔を上げると、不気味な顔でニヤリと笑う。ピエロのメイクが笑うと気色悪いなとノキアは思った。
「ありがとうございます。プレジャー・ランドのコンセプトは夢の中の世界なので、現実のことを忘れてたくさんの悦びを感じてただけると嬉しく思います。モチーフのクジラはモンストロと言います。ピノキオにも出てくるクジラです。私がピノキオの世界が好きなので、モチーフにさせていだきました。私が娘のように可愛がっているこの子も操り人形なのですが、ピノキオからとって、ピノという名前です。とても可愛いいい子なので、モンストロ同様可愛がっていただけると嬉しいです」
支配人は胸に抱いている小さな女の子の手を握って、ヒラヒラとカメラに向かって振った。外国人なのに日本語が異様にうまいことと、人形離れしたまるきり人間のような操り人形にノキアは驚く。
「わ! かわいい! ピノちゃんのお人形はないんですか?」
レポーターが支配人に尋ねると、操り人形のピノの口が開いた。
「ピノは世界でひとりのパパの娘だから、お人形なんていないの! ピノは早く人間になって、パパのお手伝いをしたいの!」
甲高い幼女の声でピノは喋りだした。生きているような滑らかな動きにレポーターも驚く。操り人形なんて信じられないくらいにリアルだ。
「わっ! 生きてるみたい! ピノちゃんとお話してもいいですか?」
レポーターは支配人に向かって、首を傾げた。支配人は「どうぞ」と微笑む。
「ピノちゃんの好きな食べ物はなんですか?」
「ピノは夢を食べるの。美味しい素敵な夢が好き。ユニコーンだとか虹だとか。悪夢はまずいの。ちっちゃい子の夢はぱちぱち弾けて楽しいの。お姉さんの夢も食べたことあるけど、プリンだと思ったらすごくドロドロして、美味しくなかったの」
支配人がパッとピノの口を手で塞いだ。
「ピノはおしゃべりが上手だなぁ」
支配人が軽く笑うと、ピノがきゃははっと甲高い声で笑った。
レポーターは薄ら笑いを浮かべる。
「ピノちゃんは本当におしゃべりが上手なんですね! お人形とは思えないくらいおしゃべりが上手でびっくりしました。では、CMの後はアトラクションのご紹介です!」
ピノがギロリとレポーターを睨んだのが一瞬流れ、次の瞬間にはテレビ画面はCMに切り替わっていた。
「ねえ、ノキア」
楽しげに話していた恵美が振り返り、ノキアを一瞥してから声をかけた。ノキアは恵美の方を向き直る。
「シオンとここに行きたいねって話してるんだけど、ノキアはどうする?」
恵美の弾んだ声とキラキラとした視線が、ノキアに刺さった。
あ、なんだかめんどくさい、とノキアは思う。
ほとんど脊髄反射のように、「いや……」とぶっきら棒に、ノキアも気付かぬうちに口から言葉が漏れた。ノキアの返事を予想していた恵美は、返事を待つことなくすぐさまテレビ画面へと視線を戻す。
「シオン、パパ、どうする? ノキアは行きたくないって」
「お姉ちゃん、行こうよ! ゼッタイ楽しいって!」
恵美の横に座っていた小学5年生のノキアの弟シオンが、振り返ってノキアに声をかけた。電車の外を見る幼稚園児のような座り方。小学5年生になるというのに、シオンはいつまで経っても幼稚園の頃から変わらないように思えた。
「ねえ、お姉ちゃんてば!」
繰り返し声をかけてくるシオンのキラキラした視線を浴びながら、ノキアは無視を決め込んで黙々と夕飯を食べ続けた。
「中学二年生になったら、家族と出かけるの、恥ずかしいんじゃないか? ノキア、別に無理しなくていいからな」
シオンの言葉を制止するように、床に座りゴルフクラブを磨いていた裕司が分かったような口ぶりで、ノキアに声をかける。
「別に恥ずかしいとかじゃないけど……」
ノキアは冷えた味噌汁に向かって返事をする。ノキアの声は誰の耳にも入らず、虚しくズブズブと味噌汁の中に沈んでいった。
ノキアはなんとも言えない感情に苛まれて、冷えた味噌汁をずずずと啜る。沈んで行った言葉は、すでにわかめと豆腐に絡まっていて、わかめと一緒にノキアの口の中に入ってきた。
口の中のわかめをぎりっと奥歯で噛み、ざりざりとすり潰していく。わかめに絡まってた感情のせいで、変に苦い。何度すり潰しても喉の奥へと流れていかないわかめを、ノキアは冷たい味噌汁で流し込んだ。
出汁の効いた味噌汁は、冷えていてもうまいんだな、と新しい発見をしてノキアは小さく頷いた。
テレビの画面がぱっと切り替わり、ノキアを除く家族三人は再びテレビ画面に注目した。裕司はゴルフクラブを淡々と磨き、恵美とシオンはどのアトラクションに乗りたいかを相談し始めていた。
ノキアがプレジャー・ランドに行くかどうかの会話は、先ほどの裕司の発言で強制終了したようだ。これ以上誘われることがないとわかると、ノキアはホッとしたような苛立つような感情がないまぜになった。寂しい気持ちもあるのだろうか、と自分の感情をふるいにかけてみて、ノキアはふるいに残った感情を確認する。最後まで残っていたのは、苛立ちだけだった。
「別に行きたくなんてないし」
ノキアは誰にも聞こえないほどの小さな声で独りごちると、唐揚げを口の中に放り込んだ。
3
11月11日(土)朝9時。
ノキアが目を覚ましてリビングに降りると、すでにリビングはもぬけの空だった。静寂に包まれたリビングのダイニングテーブルには、ポツンとメモが残されている。
「ダイニングメッセージ」
ノキアはぼそっと独りごちて自分のギャグにプッと吹き出すと、メモを手に取った。
メモの下には、ぴっちりとラップで保護された、朝食用あるいは昼食用と思われるベーコンエッグが行儀良く皿に乗せられていた。ベーコンエッグの皿のすぐそばには6枚切りの食パンのうち、3枚だけ袋に残されて置かれている。ダイニングメッセージは母親の字で、丁寧に書かれたものだった。
恵美からのダイニングメッセージの隅の方に、最近人気の漫画のキャラクターのイラストが描いてあった。ノキアはそれを描いたのがシオンだとすぐに分かる。イラストには吹き出しでコメントが添えてあった。小さく「いってくるよ〜!! シオン」とかわいらしい文字が残されている。
ノキアはそのコメントを見て、思わず表情を緩めた。シオンは無邪気でかわいい。ノキアの3つ下で小学5年生だが、ノキアからすると本当に小学5年生か? と思うほどに幼い。シオンは顔立ちも可愛らしく、行動も幼い。
二重瞼のくっきりした目元と、愛嬌のある笑顔。容姿がかわいらしいというのもあるが、要領がいいところが、シオンのかわいさを引き立たせているのではないかとノキアは思っていた。対照的にノキアは切れ長のスッとした目元。いわゆるクールビューティー。表情筋を動かすことが少ないので、怖いと思われがちなタイプだ。
ノキアは父親似、シオンは母親似だ。
恵美はノキアよりシオンをよく可愛がった。自分に似ていて、尚且つ愛嬌のあるシオンをノキアより可愛がるのは仕方がないような気もする、とノキアは考えていた。それに対してノキアはシオンに嫉妬するでもなく、自分に対して特別に関心を向けられていないことに妙に安堵するところもあった。
母親にあまり関心を持たれたくないというのはノキアの本心ではあるものの、あまりに無関心というのも面白くない。
山中家の家族構成は父の裕司、母の恵美、長女ノキア、長男シオンの4人で構成されている。典型的な核家族。銀行員の父と近所のスーパーでパートをしている母、公立中学に通うノキア、公立小学校に通うシオンの4人だ。
ノキアが小学生の時に、裕司は35年ローンで家を購入した。特別大きな家でもなく、ものすごく狭いわけでもない。立地が特別にいいわけでもない、ありふれた住宅街のありふれた一軒家。
それまで社宅住まいだったノキアは、自分の部屋が貰えて喜んだ。裕司も「頑張って働かなきゃな」と言い、恵美も「パート頑張るね!」なんて言っていた。絵に描いたような幸せな家族。その頃のノキアには特に不安も不満もなかった。
ノキアは中学生になると、バスケ部に入部。小学生の時からミニバスをやっていたので、バスケットボール自体はノキアの得意分野だった。
ノキアが通う中学はいくつかの小学校から生徒が集まっていて、それなりに生徒数の多い中学校だ。それまでは小学校で知った顔ばかりで生活していたところに、急に知らない顔が増える。小学6年生の時は最高学年だったのに、中学生になった途端、先輩という存在ができた。好きな服で学校に通っていたところに、個性も何もない制服着用が義務付けられる。
小学校と中学校のあまりの生活の違いに、ノキアはうまく馴染めなかった。困惑。聞いてはいたものの、課されるルールが一気に増えたような気もした。見えない鎖に縛られているようで、煩わしいとも思った。
それはノキアに限らず、どの中学生も感じていることだろうが、友人がいないノキアにはそれを共有する相手がいない。愚痴ることもできずに不平や不満はノキアの体の中に溜まっていく一方だった。
小学校でミニバスに入っていた友人も同じくバスケ部にはいたが、ノキアは教室だけでなく、バスケ部でも馴染めずにいた。ミニバスではそれなりに友達もいたし楽しかったが、中学校の部活は勝手が違っていてノキアは小学校からの友人とも疎遠になっていた。
4
「ノキアってなんか生意気じゃない? 先輩差し置いてスタメンに選ばれたからって調子乗ってるでしょ、あれは」
そんな声が聞こえてきたのは、ノキアがユニフォームに着替えて体育館に入ろうとしていた時だった。
今年の初夏。
じわじわと汗が染み出すような、梅雨が明けた晴れの日の放課後。校庭の木には大量の蝉が止まっていて、蝉の鳴き声がノキアの耳を突いた。ノキアの耳は、じーじーと鳴く蝉のノイズから悪口だけを抜き出した。自分の耳にノイズキャンセリングがついてることに気づきノキアは愕然とする。聞きたくない言葉がノキアの頭の中に響いた。
「わかる! なんか調子乗ってんだよね。先輩、パスが弱いですとかさ。お前に何がわかるのって感じだよ。小学校の時からミニバスやってるからってさ、なんか感じ悪くない? ちょっと背が高いくらいでさ。顧問に気に入られてるのも腹立つし」
「あれってさ、顧問に媚びてるって噂だけど」
「媚びてるってか、パパ活じゃね?」
体育館の壁の向こう側には複数の声色。二人? いや、三人? ノキアは声の主を確認する。パパ活のフレーズで先輩たちがどっと笑って、声の主がわからなくなった。ケラケラと笑い続ける甲高い笑い声が、頭の中にエコーのように響く。
ノキアの額にじわじわと汗が滲みだした。この汗が梅雨明けの暑さによるものなのか、冷や汗なのか、ノキアにはどちらの汗かわからなかった。
このまま体育館に入っていっていいものかと、ノキアは悩んだ。気付けば体育館へと向かっていたノキアの足は、いつの間にか部室へと後退りしていた。
その日、ノキアは誰にも何も言わずに学校を後にした。校門を出てそのまま家に帰ろうと思ったが、家には帰れなかった。いつもより早く家に帰って、母親に何か聞かれるのが嫌だった。体調不良とでも言っておけばいいけど、会話をすることも、嘘をつくこともノキアにはできそうになかった。
校門を出ると、自宅とは反対の方向へあてもなく歩く。いつもとは違う景色をぼんやりと眺めながら、名前だけ知っている小学校の前を通り過ぎた。陰口を言っていた先輩たちの通っていた学校。
ノキアは頭の中で、体育館から聞こえた声と目の前の小学校に通っていた先輩たちの顔を神経衰弱のように重ねてみる。背筋がゾワっとして、頭の中から嫌な汗が吹き出したような気がした。重ならない声がある。悪口を言っていた声の中に、小学校のミニバスで仲の良かった先輩がいた事に、ノキアは気づいた。
まさか先輩も悪口を言っていたなんて、とノキアはため息をつく。仲が良かったと思っていたミニバス時代が、自分の夢だったのかもしれないと思った。頭の中の小学生の頃の笑顔の先輩の口が動く。
「パパ活」
ノキアの胸はずきんと痛んだ。
下校後、校庭に集まってドッチボールをしている小学生を横目に、ノキアはとりあえず足だけを動かした。そのままあてもなく歩き続けて、ノキアはよく知らない公園にでた。
がらんどうの公園。
ポツンと公園に鎮座している誰も座っていないベンチに腰掛ける。リストラされて、妻にその事実を告げられずに公園に出勤するサラリーマンみたいだ、とノキアは思った。
頭の中のゴミ箱に、神経衰弱に使った先輩たちの顔写真をくしゃくしゃにして放り込んだ。脳みそが空っぽになったノキアが何も考えずベンチに座っていると、耳障りな蝉が鳴き出した。
蝉の鳴き声が、ゴミ箱にしまったはずの体育館のそばまでノキアの意識を引き戻す。ノキアは思わず蝉の鳴き声をBGMに、先輩たちの会話を反芻してしまった。エコーのように頭に響く「パパ活」というフレーズ。
「パパ活とかしてないし!」
ノキアは独り言には大きすぎる声を上げると、足元の砂を蹴飛ばした。小石まじりの砂が舞う。砂埃が白いスニーカーに落ちて、ノキアは大きくため息をついた。
「人付き合い難しすぎ。大体、女の集団は苦手なんだよ」
🐋 第2話
🐋 第3話
🐋 最終話
🤡 あの子になりたい(皐月の心情)
🐋 ノキアは私の一部かもしれない
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