プレジャー・ランドへようこそ_第3話
↓ 第2話
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11月12日(日)朝7時
「ノキア、体調はどうなの?」
朝食を食べているノキアに恵美が尋ねた。
「今日はだいぶいい」
ノキアはぶっきらぼうに答える。通常運転の反抗期バージョンだ。
昨日、プレジャー・ランドのお菓子をもらう時には、割といい感じの娘を演じることができたと思うが、そう長くは続かない。やっぱり母親を前にすると、ノキアはイライラしてしまう。ただ心配して声をかけてくれているだけだということはノキアもわかっている。
「それならよかった」
恵美は優しく微笑むと、キッチンへと戻った。
リビングのつけっぱなしのテレビから、プレジャー・ランドのCMが流れてくる。
「一緒にあそぼ!」
甲高い幼女の声に、ノキアの脳裏に公園での出来事がフラッシュバックした。背筋が凍りつき鳥肌が立つ。
ピノと呼ばれる操り人形が早く来いと言わんばかりに、テレビ画面の中で煽っていた。ノキアはテレビ画面のピノと目が合った気がして、思わず目をそらす。
「また行きたいな〜。3日間しかないとか勿体無いよね。あんなにすごいのにさ」
シオンが皿の上の朝食のサンドイッチを頬張りながら、テレビ画面を見つめて言った。
「そうね。確かに勿体無い気もするわよね。でも、あれ、バルーンでできてるって誰かが言ってた。だから、空気さえ入れればすぐに完成するし、空気を抜けばすぐに片付けられるんだってよ。だから世界中を回れるんだって」
どこ情報かわからない情報を、母はキッチンからドヤ顔で話し出した。シオンはそれを真剣に聞いている。
「えー! あれが風船? ぜんっぜんわかんなかった! すごくない? また行きたいなぁ」
シオンはプレジャー・ランドのことを思い出しているのだろうか。ノキアがシオンの顔を一瞥するとシオンの視点は、ぼんやりと宙を見ているように見えた。CMか何かでシルクハットの支配人が言っていた夢中になるというのはこういうことなのだろうか、とノキアは思う。シオンの右手のサンドイッチからはレタスがポロポロとこぼれ落ちた。
千葉にある夢の国に一度行ったことがあるが、確かに思い出してはほぅとため息がつきたくなるほど、好きな場所だった。プレジャー・ランドもきっとそういう場所なのだろうとノキアは勝手に納得した。
「そんなに楽しかったって、特に何が楽しかったの?」
ノキアの質問に、シオンの目はキラキラと輝き出した。
「何っていうか、全部に決まってるじゃん! でも特にね、ゴーカート! 最高に楽しかった。F1のモナコグランプリみたいに、街中を走ったりするんだよ。すごくない?」
「街中を走る? ドームの中を?」
ノキアが驚いて尋ねる。いくらドームが広いとはいえ、ゴーカートがドームの中を走ったら危ないに決まっている。
「そうなんだよ! ドームの中を走るんだよ! どうやって走るかって言ったら、車が宙を浮いて走るの。ああ! もしかしたら、車もバルーンだったのかも! 未来の車みたいに、街の中を浮いた車で走るんだよ! ゴーカートが頭の上を走ってくんだよ。すごいでしょ? ゲームの世界みたいだった、本当に。見てるのも楽しいし、運転しても楽しい! ゴーカートも楽しかったけど、他にはねえ、ジェットコースターもやばいし、お化け屋敷もやばい! とにかく全部楽しかったんだよ!」
ちょっと仕組みがよくわからなすぎで、意味がわからないなとノキアは思う。ただ、楽しそうなのだけは伝わってきた。
「めちゃくちゃ楽しそうだね!」
ノキアの返事に、なぜかシオンは自慢気な顔をした。
「でしょ? ほんとに楽しかったんだよ。ぼく、野球とか興味ないし、ドームの中はずっとプレジャー・ランドにしておいてくれたらいいのになぁ」
シオンは大きく口を開けて、サンドイッチから溢れたレタスを摘んで口の中に放り投げた。目の前のノキアまで聞こえてくる、しゃくしゃくと美味しそうなレタスの咀嚼音。
その後もノキアは、シオンとプレジャー・ランドの話をしながら朝食を取った。
朝食を食べ終わると、ノキアはすぐに部屋に戻った。食後だというのに、部屋に入るなりベッドに転がる。日曜日なので部活はない。罪悪感もなくゆったりとベッドに体重を預けた。ノキアは昨日もらってから机の上に置きっぱなしにしていたチケットを手に取り、ベッドの上で眺める。
ノキアはビリビリとチケットを割いた。チケットは昨日と同じように破れたところから七色の光を放って、チリチリとくっついていった。ノキアはその様子をぼうっと眺める。
「やっぱり行こうかな」
ノキアがそう独りごちた時、学習机の上に置いていたスマートフォンがブルっと震えた。ベッドから起き上がりスマートフォンの画面を確認する。
翔太からのLINE。
ノキアが返事をする間もなく、再びスマートフォンがブルっと振動した。
何が「w」だ、とノキアは思う。慌てて窓の外を覗いた。家の敷地の外で翔太が手を振っているのが見える。
「マジか!」
ノキアはカーテンをしゃっと閉めると、部屋を出て階段を駆け降りて玄関へと向かった。玄関のドアを開けて家の外に出る。外では、のんきに自転車に乗った翔太がノキアにひらひらと手を振っていた。
「何? どうしたの? 急に」
ノキアが翔太に尋ねると、「渡したいものがあって」と、翔太は自転車の前カゴの中に手を突っ込んだ。前カゴの中に放り込まれている茶色の何かを手に取る。
「これ」
翔太は、手に取ったそれをノキアに放り投げた。ノキアは慌ててそれをキャッチする。どさっと音がして、ノキアは両手にずしりとした重みを感じた。まるで赤ちゃんでも放り投げられたかのような重さ。
手元に目をやり、やっとそれが何かわかった。
「ロープ?」
「そう! それ、お前に貸してやるよ。これで明日の朝? 今日の夜か。抜け出せるだろ?」
翔太は、にやっと右の口角を上げながら笑う。
「行くなんて言ってないし」
ノキアが困ったような顔を見せた。
「行かないわけないだろ。こんな面白そうなとこ」
昨日、ノキアが行かないと言ったことは、翔太の中ではなかったことになっているらしい。
「じゃ、渡すもん渡したし、今日はもう俺、帰るわ。明日の夜一時ごろ、ここ迎えに来るな」
そう言い残すと、翔太はさっさと自転車を漕ぎ出して帰って行った。
「え? 今の翔太くん?」
背後から母親の声が突然して、ノキアは驚いた。心臓が口から飛び出たかと思った。バクバクと鳴り止まない心臓を落ち着かせるように、ノキアは小さく深呼吸をする。
「あ、そうだよ。翔太」
ノキアは小刻みに頷きながら、答えた。ちゃんと答えられているだろうかと若干不安になる。
「ノキア、まだ、翔太くんと仲良かったのね。だいぶ身長も伸びたのね。かっこよくなって、ママびっくりしちゃった。それで翔太くん、何しに来たの?」
恵美がノキアの返事に違和感を感じていないことに、ノキアは安堵しつつ、何しにきたのかという直球の質問に戸惑った。何をしにきたかなんて答えようがない。今日の深夜、家を抜け出してプレジャー・ランドに行くためにロープを渡しに来たんだよ、なんてこと言えっこない。翔太が来た理由が母親にバレるわけには絶対に行かない。翔太にも迷惑がかかってしまう。
「えっと、なんか、筋トレで使う道具? 持ってきてくれたみたい」
ノキアは思いつきで適当に答えた。筋トレで使う道具ってなんだよ、と自分で自分にツッコミを入れたくなった。恵美は特にノキアの回答を気に留めることもなく、「あっそうなの?」と言うと玄関から家に戻って行った。
恵美が部屋に入ったことを確認して、ノキアは玄関に入る。抱えていたロープをさらに抱き抱えて、誰にも見られないようにコソコソと、そして足早に自分の部屋に戻った。部屋に戻るや否や、ロープをどさっと机の上に置いた。
行くあてのないロープをノキアは見つめた。本当に行くつもりなんてなかったのに。まあ行きたいとは思ったけど、とため息を吐いた。
興味本位でノキアはロープを床に広げてみる。ロープはただのロープではなく、縄梯子だった。これをベランダに結びつけて、はしごを使ってベランダから降りろということなのだろうか。
ノキアはスマートフォンの画面を開く。
翔太の(もう、そこにいるけど)のメッセージの後に、文字を打ち込んだ。
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11月12日午後11時半
昼ごはんは食べた。晩御飯もしっかり食べた。お風呂にも入った。あとは寝るだけの状態。時刻はすでに午後11時を過ぎていた。けれどもノキアはまだ眠くない。なぜなら、昼寝を十分にしてたからだ。今日の晩に備えて。
眠くはないが、念のためベッドには入っていた。いつ恵美がノキアの部屋を覗きに来ないとも限らない。間違って眠らないように目だけはしっかりと開けて、電気は薄暗くしておいた。
布団の中のノキアは、寝巻き姿ではなく外出用の服を着ている。裏起毛の暖かいパーカーと細身のスウェット。ここまで準備をしていながら、ノキアはプレジャー・ランドに行くかどうかを、まだ迷っていた。
もうすでに窓の鍵も開けているって言うのに。ロープもベランダに結んで準備までしているって言うのに。
はたから見ると行く気満々に見えるだろうが、ノキアは飽きもせずに悩んでいた。準備をしながらもずっと、頭の中で行くか行かないかのパスを続けている。
準備に関しては、事前にLINEで翔太に聞いた通りにしていた。翔太が成功したやり方だとは言っていたけど、果たして上手くいくのだろうか。完全に翔太を信じていたわけでも、疑っていたわけでもない。上手くいくこともあるだろうし、失敗することもあるだろう。翔太の成功率100パーセントは、ただの運じゃないの? ぐらいにノキアは思っていた。
とはいえ、ノキアは成功する気がしていた。幸いにもノキアは初犯だ。ノキアが突然、夜中に外出するなんてことを考えているなんて、両親の頭の片隅にはカケラほどもない。初犯でいきなりバレると言う可能性はかなり低い。
失敗するとすれば、物音を立ててしまった時や、外で誰かに見つかった時ぐらいだと思う。それ以外に心配すべきことがあるとすれば、無事に部屋に戻って来れるかどうか、と言うことだろうか。
ノキアは自分が縄梯子を受け取ってしまったせいで、翔太が家から出られないのではないかと心配した。誘った張本人が来られないとなったら、笑い草だ。
LINEのやり取りの最中、縄梯子がなくて翔太はどうするのか、と尋ねてみた。翔太の部屋の横には、どうも出入りするのに都合がいい木が生えているらしい。翔太はそこをつたって、部屋の出入りをしていると言った。親にバレそうなものだが、バレていないとのこと。親の監視があると言っていた割に、かなりゆるゆるで、意外に翔太は親から信頼されているのかもしれない、とノキアはそんなことを考えた。
翔太の悪い噂も本当に噂なのかもしれないとノキアは思う。
それにしても、翔太が言うとなんでも簡単そうに聞こえる。いちいち深刻になってしまう自分と対照的に楽観的な翔太に、ノキアは羨ましさを覚えた。だからと言って、そう簡単に全てがうまく行くとも思えない。翔太の言うことには疑問点も多くあったが、不思議と翔太の言葉には妙な説得力があった。
でも、ノキアはやっぱり悩んでいた。悩むくらいなら行けばいいのに、と翔太なら言うだろう。自分でもそう思う。
ノキアも自分で答えが出ているのはわかっていた。どう考えても、これはただの悩んでいるふりだ。どうやったって好奇心には勝てそうにない。
シオンから聞いたプレジャー・ランドの楽しそうな様子に惹かれたという気持ちも、もちろんあった。でも、どちらかと言えば、ノキアの好奇心はそれ以外のことに向いていた。
夜中に家を抜け出すということ。
これがどうしても魅力的に感じてしまった。それに、あの破っても元に戻るチケットの謎も。普通じゃない。何かおかしなことが起こるんじゃないかという気がした。この機会を逃すと、多分、後悔する。
行けばよかったって思いながら、月曜日に行きたくもない学校に行き、行きたくもない部活に行くことになる。もしここで、プレジャー・ランドに行けば、月曜日だって楽しい気持ちで学校や部活にも行けるかもしれない。何か一つ大人の階段を上ったような、脱皮するような。
ここまで考えて、ノキアはもう悩むのをやめていた。今考えているのは、バレた時の対処方法をどうするか。ノキアはそれをベッドの上で考え続けていた。
バレたら謝ると絶対バレないだろうという思考が、頭の中で反復横跳びする。バレないだろうが優勢。ノキアの頭の中で右側の足にグッと力が入る。バレるかもしれないという不安な思考にジャンプした途端、バレないだろうという思考が、どうせただ怒られるだけだから心配するなと慰めた。
もしバレたら神妙な面持ちってやつで謝ろう、そして、可哀想な自分を演出しようとノキアは心に決めた。ほんとはそういうのは、好きでなはい。でも、好奇心に勝てないノキアは、バレた時の演出用に可哀想な自分をできるだけドラマチックに魅せられるよう、色々な言い訳を頭の中で組み立て始めた。
ある程度シミュレーションが終わったところで、ノキアは暗闇でスマートフォンを見た。時刻は、もう深夜の12時を回っている。煌々と光るスマートフォンの画面を閉じると、ノキアはベッドからむくりと起き上がった。できるだけ音を立てないように部屋の中を歩く。
ドアノブに手をかけ、音が鳴らないようにドアノブをひねる。緊張感で背中に冷たいものが走る。ゆっくりとドアを開け、廊下に出た。廊下に出て左右を確認。どの部屋からも光は漏れていない。廊下をじんわりと歩く。それこそ忍者のような忍び足で。
ノキアは両親の寝室の前に行き、ドアの近くで耳を澄ました。寝息は聞こえないが、両親が起きている物音もしないし、起きているような気配もない。
「ふがっ」
ノキアが両親の部屋の前を立ち去ろうとした時、部屋の中から父親の声がした。
「いびきか」
ノキアはものすごい速さで脈を打つ心臓をおさめながら、小さく、声にならない声で独りごちた。バクバクと鳴り続ける心臓の脈とは対照的に、ノキアの頭の中は冷静だった。
シオンが起きていることはないだろうと思ったが、一応、部屋の前で聞き耳を立てる。やはり、起きている様子はない。ノキアは家族が寝ていることを確認すると、トイレでも行っておこうかと思った。しかし、ノキアが用を足すその物音で、誰かが起きるかもしれない。そんなことを考えると、尿意もどこかへ消えていた。ノキアは、そのまま部屋に戻った。
部屋に戻るとばさっと薄手のナイロン性のジャンバーを羽織る。ジャンバーのポケットに入れておいた二つ折りの財布を取り出して、残金を確認した。3千円と小銭が少し。
地下鉄には乗れるし、向こうで少しくらい食べ物は買えるだろう。ノキアは残金を確認すると、再びポケットに財布を仕舞い込んだ。物音を立てないように静かに静かに窓を開ける。
外がやたらと明るい。
ノキアはどきりとして空を見上げると、暗闇の中にぽっかりと大きな満月が佇んでいた。
そういえば、今日の夕方のニュースでスーパームーンがどうのと言っていたっけ、と思い出した。あれだけ明るいと、満月に見張られているような気持ちになる。きっとそれは、ノキア自身が悪いことをしているという自覚があるからだろう。
月は特に何も見てもいないし、善悪の判断なんかしない。
大丈夫、私は悪くない。プレジャー・ランドのチケットをもらって、友達に誘われて、仕方なしに付き合うだけだ。
ノキアは慰めるように、繰り返し自分に言い訳を聞かせ続けた。
ベランダに出て、翔太から借りた縄梯子をゆっくりと下ろす。縄梯子が地面に触った感触がした。ポケットからスマートフォンを取り出し、ライトを使って確認する。
間違いなく縄梯子は、地面に到着している。ノキアはそれを確認すると、ベランダに足をかけ、可能な限り静かにベランダの柵を越えた。そして、少しずつ縄梯子を降りる。
縄からぎしっぎしっと音がして、その度にノキアの緊張は最高潮に到達する感覚があった。
ーーぎし。ぎし。
縄の様子も自分の位置も月明かりで見えているのに、なんだか昼間より距離感がとりづらい。自分の感覚だけが頼りな気がした。ノキアは手に伝わる縄のざらっとした質感を手繰り寄せた。足元は空を切らないよう、慎重に下へ下へと伸ばす。
実際には5分程度の時間しか経っていないだろう。しかしノキアには、その時間が1時間にも1日にも感じるくらいに長かった。とんっと足に何かが当たる感覚がした。足が地面につき、ノキアは安堵した。肩に入っていた力が抜ける気がした。じわりと足の裏全体を地面に下ろして、もう片方の足も下ろす。
やっと全体重を両足に預けることができて、ノキアは安堵した。こんなにも地面に足をつくことに対して、安心した気持ちを抱いた経験は、未だかつてない。ノキアはふうとため息をついて、両手を縄から離す。
一旦縄から離した手で再び縄を握る。今度は、ゆっくりとベランダを滑らせるように、縄を端の方に寄せた。そして、縄を2階のベランダに結びつけたまま、外から見えないところへ隠す。
「ロープが見つかると、色んな意味で面倒だから」
翔太のLINEの言葉を思い出して、できるだけ丁寧に縄を隠した。ブロロロロとどこからかバイクの音がして、ノキアの心臓はどきりと跳ねた。スマートフォンの画面を見る。午前0時30分。
ノキアは鼻から息を吸った。冷たい空気が鼻の奥を刺激する。鼻の奥がツンとして鼻をすすった。鼻水が垂れそうになり、ノキアは慌てて上を向いた。
真上には丸い月。
月がそこにあるのはわかっていたが、縄に気を取られ忘れていた。月と目があったような気がして、どきりとする。なんだか罪悪感が増した気がした。ノキアは月に見られると、全てに見張られているような気持ちになった。
頭を左右に振り、罪悪感を振り払う。
玄関の脇のスペースに置いてある自転車に近寄ると、自転車の鍵を確認した。鍵は昼間のうちに開けておいた。
鍵は一般的なもので、後輪がロックするタイプの鍵だ。この鍵は、開ける時にどれだけ慎重に開けようとも、ガシャンと音がする。できるだけ物音は立てない方がいいという翔太の教えをノキアは忠実に守り、事前に鍵を開けておいたのだ。
翔太とのLINEとのやり取りで聞いた夜中の脱出成功率100%という確率を、疑いつつもノキアは信用していたのだろう。ノキアの中で、翔太の脱出方法は説得力を持って鎮座していた。家から抜け出す方法に関しては、翔太の言う通りにしておいた方が無難だとノキアは思った。
翔太が迎えに来るまでの間、ノキアは通りから見えないところに身を隠した。待っているとどうしても、ため息が漏れる。なんでこんなことをしてしまったのだろうか、と。ノキアはすでに後悔し始めていた。
正直なところ昼間は、いやさっきまでは、ドキドキと言うよりワクワクしていたような気がする。けれども、今はそんなワクワク感は全くない。ただただ真夜中に家の前で身を潜めているという状況を考えると、何も楽しいことは起きないような気がした。それに、月明かりが鬱陶しいくらいに眩しい。
ノキアはじっと家の前の道路を見つめ続けた。翔太がいつ来るか、と。
遠くから物音が近づいてくる音がした。一瞬、翔太かな、と思い、ノキアは慌てて家の前に出ようとする。しかし、思い止まって再び身を潜めた。もしかすると翔太じゃなくて、ただの通りすがりの人かも知れない。別人だったら、大変なことになる。そう思い、ノキアは再び身を潜める。
息を殺すように座っていると、どこからか、わずかな生活音が聞こえてきた。まだきっと、起きている家もあるのだろう。
水を打ったような静寂な時間。
その時間を割って入るように、猛スピードで近づいてくる自転車の音。キュッと音を立てて、自転車がノキアの家の前で止まる。そして、タイミングよくノキアのスマートフォンがぶるっと震えた。
ノキアはロック画面でLINEのメッセージを確認すると、小さく安堵して家の前に出た。
「よっ」
翔太は軽い口調で挨拶をすると「いこーぜ」とノキアを急かした。
ノキアはここでも可能な限り音を立てないように、自転車のスタンドをゆっくりと上げる。静かに家の前まで手で押すと、自転車に跨った。
翔太はすでに前の方を走っていて、ノキアはそれを追いかけた。ぐんぐんと進んでいく翔太に追いつくように、ノキアもペダルを漕ぐ。
月はどこまでも二人に着いてきた。
住宅街を右に左にと曲がる翔太の背中は、昼間も夜中も関係ないと言わんばかりに堂々としているように見えた。翔太と正反対にノキアの背中は緊張で縮こまっている。
静かな住宅街は、いつもと違う顔に見えた。
まだ起きているだろう家の明かりの奥で人のシルエットが動くと、ノキアの小さくなった体に緊張が走る。
もう答えのわかっている迷路を進んで行くみたいに、翔太はするすると自転車を漕いだ。もちろんノキアだって道順はわかっているが、いつもと違う顔の街並みは、どこかにトラップを隠しているように見えた。
ノキアは自信満々の翔太の後をついていく。翔太についていくと、当たり前に大通りに出た。夜中なだけあって、車はほとんど通っていなかった。夜中の信号機は規則正しく、チカチカと点滅している。
翔太がこちらを向いた。
「この時間さ、このあたりめちゃくちゃ車が少ないんだよ。もうちょっと先行くと、車、増えてくるけど、ここら辺はすんげー少ないの」
そう言うとニヤリと笑って、いきなり車道に飛び出した。翔太は何食わぬ顔で車道の真ん中を走る。
「ノキアもこいよ! 気持ちいいから!」
翔太はノキアのことはお構いなしにどんどん進んでいった。ノキアは慌てて歩道を並走した。横目で翔太を確認する。車道のど真ん中を堂々と走る翔太。まるで自分が王様だと言わんばかりに、車道の真ん中を気持ちよさそうに走っている。ノキアは思わず羨ましくなった。いてもたってもいられず、ノキアは車道に飛び出した。
車道のど真ん中。時刻は深夜の1時。
なんとも言えない背徳感がノキアの背中を走る。ビリビリとした緊張と、ゾワゾワとした高揚感。さっきまで月明かりに怯えていたとは思えないくらいに、堂々と車道のど真ん中を走るノキアは、思わず「気持ちいー!!」と叫んだ。
翔太がその声を聞いて振り向くと、ニカっと笑った。ノキアも翔太に笑い返す。そして、二人は夢中になって車道の真ん中を漕いだ。
しばらく漕いで大きな交差点に近づいてきた時、翔太はスピードを落とした。自転車をノキアの横につけて、「ノキア、そろそろ歩道に戻るぞ」と声をかける。
翔太の呼びかけで、ノキアは平常心に戻る。二人は歩道に乗り上げて、一度きゅっと止まった。
「気持ちよかったろ?」
翔太のドヤ顔に、
「めちゃくちゃ気持ちよかった!」
とノキアは正直に答えた。頬が熱を帯びているのがわかる。冷たい風が気持ちいい。
「じゃあ、こっからは車の量も増えるし、そのまま地下鉄の駅まで行くから」
「でもさ、地下鉄、動いてんの?」
今更な質問をノキアは翔太にした。基本的なことを確認していなかったとノキアは思う。
プレジャー・ランドがあるポイポイドームまでは、地下鉄で行くのが一番早い。でも、ノキアにはこんな夜中に地下鉄が動いているとは思えなかった。
「動くって先輩たち言ってたし、大丈夫だろ。それにもし動いてなかったら、チャリでこのまま行けばいいし」
適当だな、とノキアは思ったが、まあいいやとも思った。正直、ここまで来てしまったらどうにでもなれだ。
ナイロン製の上着のポケットに右手を突っ込む。シャリっと音がした。右のポケットに大量に入れておいた駄菓子屋で買ったガムを一つ取り出す。コーラ味。ぺりぺりと紙の包装を剥がし銀紙も剥がす。凸凹の凹に似た形のガムを口に放り込んだ。緊張をほぐすようにノキアはガムを噛む。じわっと唾液が舌の底から上がってきて、ノキアは安堵する。
口が渇くとどういうわけか、ノキアは緊張感が増す気がしていた。バスケのコートの上でもガムを噛めたらいいのにとノキアはいつも思っていた。
ノキアはガムをもう一つポケットから取り出すと、翔太に「あげる」と手渡した。翔太は「サンキュー」と受け取って、ガムの包装を剥がすと口に放り込んだ。
「ノキアって、いっつもガム持ち歩いてんのな」
ガムを噛みながら翔太が笑った。
「お守りみたいなもんだから」
ノキアは答えた。
翔太は何かを思いついたように「お守りね」と言って、ポケットに手を突っ込んだ。
「これ俺のお守り。2個持ってきてるから、1個貸してやるよ」
そういうとポケットから取り出したものを、ノキアにほいと投げた。ノキアは慌ててそれをキャッチする。ずっしりとした重さを手に感じ、ノキアは思う。
やっぱり翔太が素行の悪い連中と付き合ってるってのは、噂だけじゃないんじゃないかな、と。ノキアは今更ながらに、翔太についてきたことを少し後悔した。
12
地下鉄の駅に着くと、ちらほらと中学生らしき人が増えてきた。ノキアと翔太は階段を降りる。プレジャー・ランドに行くためだけなのか、改札は開いたままになっていて、誰でも入れるようになっていた。
中学生たちが地下鉄の改札に飲み込まれるように入っていく。異様なその光景を見て、ノキアはなんだか胸騒ぎがした。
「ねえ、大丈夫なのかな?」
思わず翔太に声をかける。
「大丈夫だろ。心配いらないって。いっぱい人いるじゃん。ノキアって案外ビビリなのな」
翔太が鼻で笑い、ノキアはイラッとした。それ以上何も言えなくなったノキアは、流れに乗るように翔太と一緒に改札の中に入った。
「あ!!」
翔太が突然、大きな声を出した。そして、10メートルくらい先にいた5、6人の集団に声をかける。
「先輩!」
その中の一人が翔太の声に気付き、こちらを見た。
「お、翔太じゃん。あれ? 彼女? お前、彼女いたっけ?」
背の高い男の人。髪は少し長めで目は切れ長。ものすごくイケメンというわけではないけど、アイドルグループにいそうな顔だな、とノキアは思った。雰囲気イケメン。どちらかと言えば、演技力で売ってそうな。
「彼女じゃないですよ。小学生の時、同じクラスだったんです。今日のチケット持ってたんで、誘ったんですよ」
先輩はふぅん、と興味があるのかないのかわからないような顔をして、「翔太に友達がいたなら、俺も安心。友達いないと思ってたからさ」と笑った。
「ひどいな〜、先輩」
翔太は嫌味とも取れそうなその発言を、特に気にかける様子もなかった。むしろいじられて喜んでいるような空気すらあった。
先輩はノキアの方を見て「名前は?」と尋ねる。
翔太がノキアの代わりに「ノキアです」と答える。
先輩は、「かっこいい名前じゃん」と言って、「俺はレン」と自己紹介した。一緒にいた先輩の友達が、「エマです」「ジュリだよ」と続けて自己紹介をしてきた。
最後に、「もしかして、ノキアちゃんってバスケ部? 俺のことわかる?」と聞いてきたのは、ノキアと同じくらいの身長の男の人だった。
ノキアはその顔を見て、「あ」と一言、声を漏らす。
練習試合の時に見たことがあった。M中のバスケ部だ、とノキアは気づいた。小さいながらも足が早く、小回りのきいたポイントガード。坊主頭の宮城リョータというあだ名を、ノキアは勝手につけていた。
一瞬見ただけでは気づかなかったのは、頭が坊主頭ではなくてサラサラのマッシュルームヘアになっていたからだろう。
「ノキアちゃん、バスケ部だよね。練習試合で見たことあるもん。S中にうまい一年生がいるな〜って思ってたんだよね。オレはハルト。よろしく〜」
サラサラのマッシュルームヘアのハルトが自己紹介をした。
ノキアの胸は熱くなった。
バスケが上手い人に、上手いって言われるなんて思わなかった。ノキアが褒められる時は、大抵少しの嫌味を含んでいると思うことが多い。純粋な褒め言葉なんて、いつ受けとったかもノキアは思い出せなかった。
「あ! 山中ノキアだ!」
横から大きな声で急に名前を呼ばれて、ノキアの肩に力が入った。ノキアが声のする方を向くと、そこには知った顔があった。M中の女バスのキャプテンだ。
浅川マイ。
日焼けした肌と刈り上げられたショートカット、素早いパス回しにコートの中を縦横無尽に走り回る脚力と体力。大きな声はコート全体に響き渡り、コートの中の空気を全て自分のものにしてしまうような存在感。
学校は違うが、ノキアの憧れの存在だった。
チームメイトからの信頼も厚く、竹をわったような性格だと聞いたこともあった。試合が終わると、M中のメンバーはみんな浅川マイを中心に集まる。キャプテンだから当たり前だと言われればそんなような気もするが、彼女には圧倒的な信頼感があるような気がした。男女ともに、みんなが浅川マイに声をかける様子をノキアは目にしていた。
それに浅川マイは、対戦相手を労うことも忘れない。試合後にすれ違った時に、「あのプレーかっこよかったね」とか、「次は負けないからね」と爽やかな笑顔で肩を叩いていく。
ノキアは、いつもこんな先輩が欲しかったと思っていた。そして、こうなりたいと漠然とした憧れを抱いていた。あまりに自分と対極にいる人ではあるが、せめてプレースタイルだけは真似したいと思い、ノキアはいつもM中と練習試合がある時は、自分のチームの試合をよそに浅川マイのプレーだけを見つめていた。
「浅川さん!」
ノキアの声が跳ねた。
「何? 翔太と一緒にきたの? 試合以外で会うの初めてだよね! よろしくね〜」
ノキアの胸は高まった。憧れの人が目の前にいる。
「あ、よろしくお願いします」
さっきまでの不遜な態度とはえらい違いでおじきをすると、翔太が「さっきまでと全然態度が違うじゃん」と笑った。
ノキアたちはたわいもない話をして、電車が来るのを待った。暗いトンネルから明るい光が差した。電車が近づいてくる。
ぷわ〜と音を立てながら、電車が止まった。ドアがシューという音を立てて開く。電車を待ち構えていた中学生が、わらわらと電車に乗り込んだ。
ノキアはこれが全て悩める中学生なのか、とぼんやりと考える。
車内に乗り込んで周りを見渡した。同じ中学の生徒もいるようだった。生徒会長の大泉までいる。副会長の小泉も。悩みがなさそうな山田までいる。
ノキアには浅川先輩だって悩みがなさそうに見えた。もしかすると悩みがあろうとなかろうと、プレジャー・ランドのチケットは手に入れられるのかもしれない。それに、悩みなんて、人には見えないものだし、自分だって人から見れば悩みがなさそうに見えるのかもしれない、なんてことをノキアは考えた。
電車はいくつかの駅を停車し、その度に中学生を飲み込んでは進んでいく。そしてドームがある駅に到着すると、中学生たちは我先にと電車を降りた。がらんどうになった電車は回送という表示をおデコに貼ると暗いトンネルへと帰っていった。
みんな流れるように、明るい構内の階段を上る。そして、連なってドームへと歩いた。ノキアの前を先輩たちが歩き、ノキアと翔太はそれに着いていった。
「ねえ、こんなに堂々と大量の中学生が夜中に歩いてて、通報されたりしないのかな?」
ノキアが翔太に尋ねた。
「この辺り、家もマンションもほとんどないし、店ばっかりだからバレないんじゃないの? それか近隣の住人にはちゃんと言ってるでしょ」
翔太は何が疑問なの? と言わんばかりの返事をした。
「それよりさあ、ワクワクするな。チケットちゃんと持ってるよな」
ノキアはポケットに入れておいた二つ折りの財布を取り出す。財布を広げてお札を入れている場所からチケットを取り出した。
「ちゃんとあるよ。翔太は?」
「俺もある」
翔太はポケットから裸の状態のチケットを取り出すと、ドヤ顔で見せてきた。
「ぐちゃぐちゃじゃん」
しわくちゃのチケットを見てノキアは笑う。時刻は午前1時50分。まだ入場が開始されていないようで、ドームには行列ができていた。
「まだ時間かかるみたいだね」
「だね〜」
エマとジュリが振り返って、ノキアと翔太に声をかける。
エマとジュリは、ダンスサークルに所属している。二人とも少し茶色がかった髪色で、中学3年生というよりは、すでに高校生みたいな雰囲気があった。メイクもしていて、おしゃれで可愛い。まさしく女子。
二人とも同じ鞄を持って「うちらニコイチ」とでも言い出しそうな感じ。かといって浅川先輩を仲間はずれにしている風でもなく、ファッションでニコイチを楽しんでいるような印象を受けた。ノキアが知っている女子たちと比べて、不思議と嫌な感じがしなかった。
ノキアは口の中のガムの味がなくなっているのに気づいて、ガムを包装紙に吐き出すとポケットに捨てた。新しいガムを取り出すためにガムを入れていたポケットに手を突っ込む。ヒヤリと重たい翔太のお守りが手に触れる。
翔太のお守りを避けながらガムを7個出す。大量にガムをポケットに入れておいてよかったと、ノキアは思った。両手にガムを広げて、ノキアは手を前に出した。
「先輩たちも食べませんか?」
「え? いいの?」とハルトが言いながら、オレンジ味のガムを摘んだ。
エマが「私たちはイチゴだよね〜」とマルカワのいちご味のガムを一つとると、ジュリが「わたし、ガム苦手なんだよね〜。ノキアちゃんありがと。気持ちだけ貰っとく」と答えた。
エマが「ジュリがガム苦手とか初めて知った!」と驚いた。
「じゃあ俺はコーラ」とレンがコーラ味のガムをとって、「私もコーラもらうね! ノキアありがと〜」とマイもコーラ味のガムをとった。
憧れの先輩にノキアと呼び捨てされて、ノキアは照れ臭いやら嬉しいやら、複雑な高揚感があった。
「俺、さっきもらったし〜」
翔太が謎の遠慮を見せたので、
「そんなの気にしなくていいから」
とノキアが笑うと、
「じゃあ、ぶどうもらう」
とぶどう味のガムをとった。
ノキアは残ったソーダ味のガムを左手に移して、最後に残ったガムを再びポケットに仕舞い込んだ。ソーダ味のガムの包装を破って口に放り込む。薄いキャンディーを纏ったガムをガリっと噛んだ。ガリガリと噛むとキャンディとガムが混じる。しゃりしゃりとした食感が楽しい。袋をびりっと破る。中に書かれているジャンケンを確認する。グーだった。
翔太がノキアの手元を覗き込んだ。
「当たった?」
ノキアが首を振る。
「今、あたりついてないんだよね。じゃんけんになってんの」
「え?! まじで? 知らなかった。地味にショックなんだけど」
翔太が驚いていると、先輩たちも「なになに?」と振り返る。
「どんぐりガム、もうあたりくじついてないんです」
ノキアが答えると、
「まじか! 確かに地味にショック!」
レンをはじめとした先輩集団もショックを受けていた。
みんながショックを受けている間に、プレジャーランドは入場を開始していて、列が少しずつ進み始めていた。順番に例のチケットを入り口のピエロの仮装をした女の人に渡しているようだった。飲み込まれるようにドーム内に人が入っていく。
ピエロの仮装をした女性はチケットを受け取ってはチケットを破る。一気に破られたチケットはブワッとオーロラのような光を放つと、一瞬で宙に消えた。
「魔法みたい」
ノキアは独りごちた。
ぼんやりとオーロラのような光を放って消えていくチケットを眺めながら、足だけは前に進める。
「え〜っ!」
少し前のグループから驚きの声が上がった。ざわざわとした空気感が一帯に漂う。
「ここまできたのに入れないとか最悪なんだけど。なんで入れないわけ?」
ピエロの仮装をした女性が、表情筋をぴくりとも動かさずに答える。
「悩める中学生じゃないからなの! チケットが消えて無くならないのがその証拠だから〜」
ピエロは2つに破られたチケットをひらひらとさせた。
「悩んでますけど〜。そもそも悩んでない中学生とかいないでしょ。受験に恋愛、人付き合いに。みんな何かしら悩んでるに決まってるじゃん。それにわざわざパパにお願いして連れてきてもらったのに!」
チケットを破られた女子のグループはかなり憤慨した様子だが、ノキアはパパに連れてきてもらうってどういう状況だよ、と思った。
「パパにこのことを言えるってことは、悩んでないのと一緒なの。あなたはここには入れませ〜ん! おかえりくださ〜い! じゃあね!」
女性のピエロは冷たく言い放つと、右手を上にあげ、パチンと指を鳴らす。その音を合図にして、どこからかピエロの仮装をしたスタッフと思わしき人たちが、先ほどのグループの女子たちをどこかへ連れて行った。
女の子たちが連れていかれる様子を興味津々で見ているうちに、ノキアたちの順番が回ってきた。ノキアがチケットを渡すと、チケットはオーロラのようなグラデーションの光を放って燃え上がるように消えた。
「よくお越しになられました〜。どうぞ中へお入りください〜」
先ほどはぴくりともしなかった表情筋を、ピエロは表情豊かに動かす。
白塗りのメイクの下の顔は、どう見てもノキアたちと同じ、中学生くらいに見えた。
13
ドームの中は別世界だった。
同じ夜なのに、ドームの外と中では空気感が違う。スモークが焚かれたようなぼんやりとした空気。自分の輪郭すらもぼんやりとし始めて、いつの間にかこの世界に溶け込んでしまう。まるで本当に夢の中にいるような感覚。
気温は季節の変わり目のようで、暑くもないし寒くもない。気温さえもぼんやりとしていて、ノキアは上着をきてきたことを後悔した。
じんわりと汗が滲む。
「どうぞ。キャンディです。無料です。みなさんお召し上がりください」
スタッフと思われる黒服の紳士が、山高帽からキャンディや鳩を取り出しながら練り歩く。鳩はドーム内にパタパタと飛んでいく。キャンディは豆まきのようにあたりに散らばったり、黒服のスタッフの手に握られていた。
中学生たちは皆、ユスリカみたいに、わらわらと黒服のスタッフに寄っていく。ノキアがぼぅっとその様子を眺めていると、ジュリがステップを踏むみたいにリズミカルに輪の中に入っていった。
「みんなの分とってきたよ〜」
ジュリの手には人数分のキャンディ。みんな一つずつ、ジュリの手からキャンディを受け取った。ジュリがキャンディの包み紙を剥がすと、ほわほわと湯気のようなものが、キャンディから立ちのぼった。ジュリは躊躇なくそのキャンディを口に放り込んだ。コロコロと口の中でキャンディを転がす。
「ねえ、何味?」
エマが尋ねた。
「よくわかんない」
ジュリが肩をすくめる。
「よくわかんないってなんだよ」
レンが笑う。
「みんなも食べてみてよ」
ジュリがそう言うと、他のみんなは顔を見合わせた。
そして一斉に風船ガムを膨らました。
ーーパチン。
ガムが一斉に弾ける。
「ガム食べてるし。てか、ハルトの顔」
マイがハルトの顔を指差した。
ハルトの鼻にはガムがベッタリついていて、みんなでゲラゲラ笑った。ノキアも大口を開けて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。ノキアは友達ってこういうんだよな、と思った。
いいなあ、なんて笑ってたら翔太がノキアを肘で突いた。
「いい先輩たちだろ。俺、好きなんだよ。悪い連中なんかじゃないんだって」
自分の手柄みたいに翔太がドヤ顔で笑って、
「それはわかる」
とノキアもドヤ顔で答えた。
プレジャー・ランドはとにかくすごかった。
シオンが言ったとおり、空には星が瞬き、宙を車が走る。バルーンでできたジェットコースターは猛スピードでプレジャー・ランドの夜を切り裂くように駆けていく。
謎の、そしてちょっと不気味な動物の着ぐるみやピエロたちが、プレジャー・ランドを練り歩く。黒服の紳士たちが、あちらこちらでみたこともない食べ物を山高帽から出していく。ノキアたちはみんなでお化け屋敷に入ったり、観覧車に乗った。ジェットコースターにも乗った。
ノキアはこんなに楽しいことは初めてだと感じた。
観覧車で二人ずつに分かれて乗ろうとなった時、ノキアはマイと一緒に乗った。ノキアの胸は高鳴る。
乗り込んだ観覧車はバルーンでできているというだけあって、ふわふわしていた。風船の中に乗り込んだらこんな感じかなという感覚。窓からはプレジャー・ランドが一望できた。
プレジャー・ランドはこじんまりとしているが、しっかりと街の体を成していた。異世界の中に入り込んだような錯覚。体感的には、実際のドームの大きさよりとても広く感じる。
「ねえ、ノキアはさ、何か悩んでるの?」
マイが静かな空間にスパッと切り込みを入れた。
「ま、まあ。色々……」
ノキアは濁すように答える。
「だよね〜。みんな色々悩むよね」
マイはカラッと答えた。
「え? マイ先輩も悩んだりするんですか?」
ノキアは思わず前のめりになる。
「もちろん」
そう答えてから、マイは豪快に笑った。その後は、外の景色も見ずに二人で色々話をした。
ノキアは部活や学校で女子と馴染めないこと、そして親への反抗についてを話した。マイはノキアの話を「わかるわかる〜」と頷いて聞いた。マイはアドバイスも交えて、ノキアに自分の話をした。
あれだけリーダーシップをとっていたマイにも、うまくいかないことはあったらしい。先輩からのいじめもあったし、チームメイトとの衝突も当然あった、と。でも、ちゃんと腹を割って話せる友達がいたのが、マイの支えになったとも言っていた。ノキアにもそういう友達がいるといいよね、とマイは言った。そして、いつでも相談に乗るからね、とLINEを交換してもらった。
マイは神妙な面持ちで話しを始めた。
「今さ、受験で悩んでてね〜」
困ったような表情浮かべ、マイは溜息をつく。
「受験……ですか?」
ノキアは尋ねた。聞いちゃいけないような気もしたけど、聞いて欲しそうな気もした。
「そうなんだよね〜。ノキアは来年か! 私ね、バスケの強い学校に行きたいと思っててさ」
ノキアは「あ」という顔をした。口には出さなかったが、バスケでも勉強でも有名なH高だということはノキアにも分かった。H高は学区内で偏差値がかなり上の方の私立高校だ。運動部にも力を入れているが、成績も維持できなければレギュラーは取れないという噂を聞いたことがある。正真正銘の文武両道。それがH高のイメージ。
バスケもできて、リーダーシップも取れる。その上、勉強もできるのか、とノキアはマイを羨望の眼差しで見つめた。マイはそれに気づいて、首を左右に振る。
「そんなに成績、よくないんだよね。ギリギリ合格できるかってとこ。専願だったら、大丈夫って言われてるけど……。親は専願で行くなら、バスケ部には入れさせないって言ってて。レギュラー取れないなら、大学受験のために勉強しろって」
マイは少し伏目がちに話を続けた。
「親の言うこともわかるんだけどさ、でも、せっかくバスケが強い学校に入ってバスケ部に入れないなんて意味ないじゃん。レギュラー取れなくたって、強い環境でバスケができるってそれだけでスゴいじゃん。もちろん、H高に入れたら、バスケだって勉強だって今よりもっと頑張るつもりだし。でもさ、そんなに世の中甘くないって、絶対にうんって言わないんだよね。うちの親」
マイは大きく溜息をついた。
「12月になったら、志望校を決めないといけないんだけど……。H高でバスケしたいなぁ……」
「マイさんなら、大丈夫ですよ!」
どう声をかけていいかわからないノキアの精一杯の声かけに、マイは寂しげに笑った。
「実はさ、今日は一緒に来れなかったけど、腹を割って話せる友達が、もうH高に進学を決めててさ。その子は頭も良くて。一緒にがんばろうって言ってくれてるんだよね。親はそのことを知っててね。友達で高校を選ぶのはよくないって言うんだよね。まあ親の言うこともわかるけど、それだけじゃないしさ。結局は、私が勉強を頑張ればいいだけの話なんだけど、なんだかね」
肩を落とすマイを見ながら、仲のいい友達か……とノキアは思う。
小学校の時は皐月とバスケをするのが楽しかったけど……。そんなことを考えているうちに、観覧車は一番低い位置まで戻っていた。
先に乗っていたみんなが、観覧車から降りて待っていてくれた。
「とりあえずみんなでゴーカートしねぇ?」
レンの提案にみんな賛成して、さっそくゴーカート乗り場へと向かう。
ゴーカートの乗り場は縦長の建物の二階にあった。くねくねしたコースをイメージしているのか、真ん中に白い線が引いてあり、壁面では小さな車が走り回っている。一目見ただけで、それがゴーカートの建物だとわかった。
それ以外の建物も一目みただけで、何を売っているのか、何のアトラクションなのかがすぐにわかった。ずっといると当たり前に思えてくるが、一度冷静な目線でドーム内を見渡すと、街並みの細かさに驚きが隠せない。とても全てがバルーンでできているなんて信じられない。
プレジャー・ランドは海外の会社が運営しているとニュースで見たことがあったが、海外はすごいなと感心する。日本もきっと技術的には負けていないんだろうけど、とにかくスケールが大きいし、アイデアがすごいと思った。まるで魔法だ。
そんなことを考えながら階段を上る。壁の向こう側から、ぶおおおおという音が聞こえてきて、壁を触る。空気の振動が手に伝わってきて、やっぱりバルーンでできているんだと実感した。よく見ると、ところどころに布の継ぎ目のような縫い目があり、バルーンが分厚い布地でできているとわかる。
2階に到着すると前に数人並んでいた。でもすぐに順番は回ってきそうだった。ものすごい数の中学生がいるなとは思ったけれど、実際はそんなにいないのかもしれない。昼間の開演時間中だと30分待ちはザラだと聞いていたが、この様子だと5分程度の待ち時間で済みそうだ。
ノキアは待っている間、ぼんやりとマイとの先程の会話を反芻する。
マイにも悩み事があった。きっとこの前に並んでいる人たちにも悩みがあるんだろう。いつも自分ばかり悩んでいる気がしていたが、誰だって悩みの一つくらいあるんだろうと思った。
自分のことで精一杯な時期に、他の誰かが悩んでいるかなんてことを考えたことは一度もなかった。ここにいるすべての中学生が何かに悩んでいるとしたら……と想像すると、ノキアはなぜだか救われるような気持ちになった。
一人じゃない、と。
もちろん悩みの大きさはみんな違うだろうけど。
今日はプレジャー・ランドに来て良かった。先輩たちとも出会えたし、プレジャー・ランドはとにかく楽しい。悩める中学生でよかったなんて初めて思った。悩んでてよかったなんて思う日がくるなんて、とノキアはふっと笑った。
「悩める中学生でマジでラッキーだな」
頭の中を読まれたかと思って、ノキアはドキッとした。ハルトが「無料な上に遊びたい放題なんて、ラッキーすぎじゃね?」と続けた。
「だな。でも、なんか気になるんだよな〜。楽しすぎて、俺たちに都合が良すぎてさ」
レンが少し難しい顔をした。確かに、とノキアが思考を巡らし始めた時、ノキアたちに順番が回ってきた。
みんな、それぞれ好きな色の車に乗った。
ノキアは青、翔太は赤、レンは黒、マイは黄色、エマはピンクでジュリはオレンジ、ハルトは緑。
「一緒にスタートしようよ。で、一位になったら今日は王様ってことで。ゴーカート終わってからは、みんな王様の命令は絶対!」
マイの提案に「面白そう!」とみんな賛同した。目が血走ったピンクのうさぎの着ぐるみを着たスタッフがフラッグを大きく振る。
フラッグが縦に空を切ったら、それがスタートの合図。
イカれた表情のうさぎが上から下に向けてフラッグを振り、みんな一斉にアクセルを踏んだ。ブォンとエンジン音がドーム内に響き渡る。ノキアはわけもわからずにカートを走らせた。
どこが道なの? と迷う必要は全くなかった。
ドーム内は綺麗に建物が並んでいて、自然にそこを通るようになっている。下で街中を歩く時には全く気づかなかったが、走ってみて初めて、計算され尽くした街の構造だとわかった。
道の途中で、ところどころふわっと浮く感覚があって、リアルマリオカートだとノキアは思う。それより何より宙を浮いているのが不思議だ。
体内の血は沸騰してテンション高めでハンドルを握っているのに、ノキアの頭の中はいやに冷静。走りながらも車の構造を考えてしまう。いくらバルーンの車だと言っても、人を乗せて宙を走るなんてことが可能なのだろうか。冷静になって考えると明らかにおかしい。あまりの不思議な光景に、これは夢の中の出来事なのだろうかと思う。夢だと言われてしまった方が、よっぽど納得が行く。
そんなことを考えていたせいで、ノキアは最後尾につけてしまった。
多分、レンが一番前。その後ろをマイが走る。先のカーブでデッドヒートを繰り広げる二人が見えて、さすがだなと思った。二人はガチに一位を争っている。
抜きつ抜かれつ。
その後ろを翔太とハルトが追いつこうと頑張っている。さらにその後ろを、エマとジュリがキャーキャー叫びながら走っていた。ノキアはすでに傍観者になりつつあった。楽しそうだな、と思いながらみんなの後ろを走る。
ノキアは望んで最下位になりたかったわけじゃないけど、色々と考えていたのがよくなかったのかもしれない。と思いたかったが、思いの外カートの操縦は難しかった。ハンドルを切ろうとしても、うまく切れずにクルクルとその場で回転してしまったりする。
お父さんって結構、すごいんだなとノキアは思った。まさかこんなところで父親を尊敬する気持ちになるなんて思いもしなかったと、運転をしながら思わず笑った。
前を走るみんなが、ギュンと坂道のような場所を登るのが見えた。ノキアは思い切りアクセルを踏んだ。踏めるだけ踏んだ。ふわっと車体が浮く。ゾワっと背筋が凍る。
ーーなんかやばい。
ノキアは焦った。みんなと同じところに着地するつもりだったのに、ノキアの車は宙を浮いたまま、ふわりと別のところに落下していく。コースアウトだ。前を走るみんなは、誰もノキアがコースアウトしたことに気づかない。これがマリオカートなら、釣竿で釣ってもらえて元の場所に戻れるんだけど……。
そんなことを考えているうちに、ノキアはすでに落下し始めていた。
ーーやばい。落ちる。
目の前の動きがスローモーションになる。これが走馬灯ってやつ? まさか死んじゃうの? とその時、何かの衝撃に突き上げられて、ふわりと体が浮く感覚があった。
あ、釣り糸で吊り上げられた?
なんてことを思ったが、カートはフワンとまた落ちていく。まるでトランポリンを飛んでるみたいに。
カートがとん、と何かの上に乗った。そして、とん、とノキアの隣に誰かが降り立った。
↓ 最終話