揺れるって聞くと、ほのかに昂ぶる。
時間というのは無常で、今日の随筆の進歩状況とは裏腹に、早くも25時を回ろうとしている。
眠い目をこしくりながら、そういえば一昨日、小学生の頃から大好きな友達が、「エントリーシートがまとまらないから、手伝って。」と、送信してきた下書きには、「震災以降、当たり前が当たり前ではなくなり、安心安全な社会が、…」と、素直な志望動機と前フリが書いてあった。
安眠安全を望む私のように平凡でも、平均的でも、仮に極貧であっても、日々の営みの中で「わっ」と昂ぶる瞬間はやってくる。
身に染みる様なお味噌汁を作ったとか、熱燗が美味いとか、趣味に合う絵を見つけたとか、「こんにちは」って言われた、とかでも何でも。
ごくありふれていることと当たり前は別もの故、「幸せだぁ」とか、「好きだぁ」とか言ってさえいれば、気がつく頃には、いつでもどこでもハッピーマンになれるかも分からない。
そういう「ありふれていること」と、「当たり前」が、まるで別ものだと認識したのは、図らずも、「揺れ」の後だった。
震災以降、「揺れ」に対する機微は日本全体を通じて、どこか、よりいっそう繊細になった気がする。
「揺れたかな?」と天井を見上げている間にも、Twitterのタイムラインは「あ、地震」でごったかえす。
さらには、ここ最近、彼女の服の上から感じ取る胸部の「揺れ」にも意識が持っていかれるようになった。
これも、震災後、「揺れ」影響を受けた私のささやかな機微だろうか、はたまた、癖であろうか、詳細は分からない。
「揺れ」に基づく機微は、「地動説」に始まるのではないかと、柄にも無く真面目腐ったことを眠気の隅っこで想起した私だ。
「お天道様が動いてるんだよ」というのが、つい5、6世紀前までの当たり前であった。
この、自分の足で踏みしめる大地が紛れもない全世界であり、その世界の西の果て、東の果ては、大きすぎる滝になっていると思われていた。
ただ、実際はそーじゃなくて、「あれ?地球、回ってない?」てなわけで、そこで始めて、「この揺れ何?」と、「大地の怒り」からめでたく卒業し、改めて、「自然のどうしようもなさ」に気がつかされた訳である。
スマホを持ち歩くことがベターになって、AIがプロ棋士に勝つような時代においても、自然は相も変わらずどうしようもない。
そういう「どうしようもない」ものを前にした時、人の琴線は揺れる。
思うに、人の知識、知恵、妄想には基盤があって、この基盤は、学生時代に学ぶようなことだと思う。
基盤の上に、虚構を建設することを大人の嗜みであり、イノベーションだとするなら、当たり前になった出来事を歴史の上から再考することは、とかく重大なことのように思う。
ただ、こう、なんというか、眠さに負けそうな私がいる。
珍しく真面目なことを考えられそうな夜はもうすでに25時半をまわっている。
寝るか寝ないか、猛烈に私は揺れている。
大人になるってコトはそういうことで、自身のうちで起こりうるイノベーションは、決まって、機微が揺れ動くときだ。
基盤を固めた学生時代、揺れ動く社会と言う現実の上に、頭と心に宿る虚構を建設して、当たり前を変えてみたい。
たまには、私だって、そんなエモいこと、言えるんだぜ。
かつてはクラスメートだった友達のエントリーシートを手伝っていたら、こっちまで、アチチになってきた。
この世の中は、基盤に由来する虚構を用いて、誰か、他者を仕向けさせてなんぼなんだろう。友達のがんばりに、ほんのりと心が揺れている。
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