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なんだかんだで、父も職人。

普段、私が実家のパン屋をお手伝いすることと言えば、老人ホームへの配達くらいのもので、生地を丸めたり、餡子を詰めたりなんだりっていうザ・パン屋的なことはしない。

そんな私にも、年に2度、パンを作るところから手伝う日がある。

そして今日がその内の一日だった。

パン屋の朝は早くて、我が家は、大概3時から始まる。

一次発酵を済ませたパン生地を形成する場面から今日のお手伝いが始まり父や母に比べてだいぶ出遅れての登場ではあるが、それでも朝5時前には、工場に参上した。

5時といえば普段私が起きる時間より4時間5時間早い。

4、5時間あれば美味しいカレーになるまで煮込むことすらできるし、
山梨から東京に行って帰ってこれる。

その4、5時間を使って、今日、パンをつくるのだ。

パン生地の香りが立ち込める工場で、1人ワーワー言う母の相手をしながら父は淡々とパンを丸め、伸ばし、詰め、形成していく。

大量の注文ゆえに私が借り出されたのだが、母がワーワー言うそばで、パン生地と注文の数を調整していく父の目線は、なんというか、野武士のようなのだ。

パン生地をカットするスケッパや、餡を詰めるヘラと言ったステンレス製品を持っていると、なんだかこう、切り付けられそうな鋭さすら父には感じる。

ただ、父は根っからの野武士と言うわけではなくて、そもそも、根っからの野武士って何だって話で、延々とワーワー言い続ける母の相手が務まるのは、父以外いないほどに、柔和な父なのである。

パン生地の発酵速度と、作業進歩を確認しながら、パンを生産し続ける真剣な父の目は、この時にしか見られない。

普段は、店先で居眠りしているか、晩酌しているかそのどちらかしかない父なのだけど、パンを作るという点においては、なんだかんだ父も職人なんだなと、嬉しくなった。

父の目と背中に感じる「大人の仕事」と、
私が私に求める将来的な仕事との間には、
どれだけの乖離があるんだろうか。

生地の膨張を助けるクーペというパンの切り込みの入れ方から何から何まで、
ことの外、父はきっちりやる。

「多分、妹2人は、父のこういう姿を知らないんだろうな。」なんて思う。

父が当たり前にこなし続けてきた「大人の仕事」ぶりは、あまり、日常に滲んでこない。

ネギも切れなくて母にワーワー言われる父と、
この、パン職人としての父は、本当に同一人物なんだろうか。

人の淡さと多面性をまさか父の仕事ぶりに感じようとは思ってもいなかったし、
窯の前でパンを焼成する父の背中は、どことなく、大きく見えた。

出来うる限りで私は私の仕事をこなしながら父の目線を見ては、「跡を継ぐこと」の意味をしばし考えた。

さて。
今さっき1日の仕事を終えた父は早速、近所のスーパーへ、30%引きになった刺身を買いに行った。

「大人ってなんだろうか。」

大人になる。そのことが意味することとはとどのつまりなんであるか、まだまだ分かりそうにないなと、パン作りの行程でいえば、
私はまだまだ一次発酵の段階なんだなぁ。

餡子が詰められて焼きあがるまでは、
まだまだ時間がかかりそうである。

時が流れる中で、あまり変わらずに続いてきた我が家。

おそらく多分、自然の法則にのっとってゆっくりと、着実に淘汰されて行くのだろう。

私と我が家に待ち受ける「腐る」未来に、
私なりの期待をもっていて、
衰退しないことの不自然さと生物学的強靭とは真逆の生き様が、とても心地がいい。

時代に淘汰される。

この聞こえは悪いけど、
片意地張らなくて済むであろう穏やかさと、
パンを作りながら、
大好きな街並みの景色を感じ取られたらそれでいい。

職人としての父は、我が家のこれからの在り方に対して、どう思っているのか、聞いてみたいな。

キラキラキャピキャピしてなくていいから、
パン屋さんらしく、発酵するような生活に、
憧れちゃっているあたり、
私はまごうことなき、パン屋の息子である。

両親が「別に継がなくてもいいよ。」って言い続けてくれたから、今の私がある気がする。


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