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オトナになるべき僕たちのこと

強烈に暇である私も、実はオトナである。私の友達らは、先生になるため、少しでも良い企業で働くため、日夜ワッセワッセとあっち来こっち来している。

もて余した暇の時分、私は、「オトナになること」を考え続けている。

時代がなんと言おうが、「まず1つのことを突き詰めるヤツ」それがオトナであり、本格的であると私は信じている。

モノゴトの解決方法として、「細分化につぐ細分化をした後、最小限の方法で取り組む」というのがある。カール・フレッシュ『ヴァイオリン奏法全四巻』に記載されている。

私達の人生における最たる問題は、日々の不安と寂しさである。それは死ぬまで続くことであり、ヒトである以上避けては通れないことであろう。

日々の問題は、日々の蓄積でしか解決できない。ヒトに怒るでも、驕るでもなく、日々とその納得に向き合うしか、問題解決の方法はないと言える。

日々の問題を解決するための行為、自分に求める稼得能力、学問的知識、実践経験に、本質的オトナが宿ると、私は考える。

寂しさにかまけて夜を乗りこなす行為は、まだコドモ的なのだ。

じっと我が立ち位置で1つのモノゴトを突き詰める他ないのである。

今の私であるならエッセイで、少し先の私であればパンであろう。

突き詰めれば突き詰めるだけ、「なんだこのステキなエッセイは。悔しい。」「私のパンより断然に美味いパンだ。」に出くわし、ちっとくらい心折れる日も来るだろうし、今までも少しくらい折れてきた。
それでも、私は日々の蓄積、寝る直前の、今日1日への納得感を怠ってはならない。

より良く寝ることに、少しの妥協も赦されない。何があっても、今日をちゃんと寝るから、明日が来るのだ。そして、
「こんなはずじゃなかった」と感じてから、本格的な日々は、始まるのだ。

私のポジションは、「今ここに、私の足で立っている」という自覚だけで足りる。ヒトから奪い取るポジションなど、幻想に過ぎず、本格的オトナのそれとは、明らかに違う。

何が正義で、何が必要で、何をすればいいかさえも、不透明な日々である。

そんな曖昧で、危なっかしい今を、ちゃんと生きるオトナは、本格的でなければならない。
内省につぐ内省の果てに、「わたし」を見つけねばならない。

自分の足で立ち、自分の頭で考え、たった1つを追求する、凛としたヒト、それが今日のオトナである。

私は一刻も早く、本格派のオトナにならねばならない。
そうでないと、今をワッセワッセと過ごす友達らに、示しがつかない。
暇の中からしか見つけられない、それが本格オトナ論であると、私は思っているから。

まず、たった1つを追求して、たった1人内省し続ける、そういうヒトが、今、必要なのだと、私は思っている。

そういう生き方が、必要とされるべきなのだ。
でも多分、本当のオトナは、こんなこと考えない。

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