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かくの如き憂鬱。

5月半ばにしてこの暑さであるなら、いやはや、夏真っ盛りともなれば、どうなってしまうのか。考えただけで憂鬱である。

窓全開でドライブなんかをしていると、黒に覆われた装いのだれそれが歩いている。車内も車外もアチチで、まいってしまう。

のだけど、中にはさながら英国版「寅さん」のような、タキシード、いや、タクシード(のようなもの)をまとったおじいちゃんなんかもいる。ハット帽と、杖、いや、ステッキがいやに様になっているステキおじいちゃん、いや、ジェントルマン。

リンと、私の先を歩くジェントルと言えど、さすがにこの熱気にはアチチだろうが、車窓から見るタクシードおじちゃんは、嫌味な暑っ苦しさが無い。

サラリーマンのスーツ姿なんかは、アチチもアチチで大キライなのだけど、どうしたものか。

おじいちゃんから考察するに、ファッションと言うものは、本格的であることに意味があるのかもしれない。

こんな暑っ苦しいのにタクシードでも、「ムッシュ」が着るなら意味があるファッションで、それはさながら、川久保玲が着こなす黒色と同義なのだろう。

本来、衣食住の衣にあたる服装というのは、やはり機能が優先されるべきであって、夏にもなれば、Tシャツを着ながら、ノースリーブの女の子を目で追うのが良いのだろう。

そこへきて「ムッシュ」は季節を踊らないのだ。

ジェントルは本格的、格式的、オトナ的に、このムンと暑い初夏の昼間にタクシードなのだ。「あちーあちー」とコドモのように喚く私が見て、そのステッキ、ハット帽と一体になったおじ様は、「かっこいい」とすら思った。

年がら年中中途半端に着崩したスーツに身を委ねて、生産性のある仕事など出来るのか。そのスーツは果たして、「本格的な作業着なのか。」。おじ様の爪の垢でも煎じて飲ましてやりたい。

装いと日々の生産活動を考えると、悶々とした暑さがますます盛って、私はドンドコ憂鬱になる。おじ様はスイスイ道を行く。

いい年したオトナがTシャツと短パンというのも、ちっと恥ずかしいな、なんて思うのだけど、あっち行ってこっち行って、カタカタ稼ぐ人は、みんな半そで短パンなんていう小学生スタイルなのだから、装いを考えるといのは、なかなかオトナの悩みであるな。

はたしてあの「ムッシュ」はどこへ向かうのか。

窓から入り込んでくる風と逆行するように、タクシードの姿はサイドミラーにも映らなくなった。

季節における正装とはなんであるのか、ファッションと空間のあり方とは、なんて考えると、あたかもオトナに成れた気がして、たまには真っ黒スーツでキリリとカッコ付けてみようか、なんて思う。

のだけど、再び信号で止まると、「あちーあちー」と憂鬱になるのだから、私がジェントルになる日は、まだまだなのだろう。

おそらく長年連れ添っているおば様を、今晩のパーティーへ迎えに行くのだろう。おじ様は、アテも無くフラフラする私と、その辺からして、違うものな。

追い越したはずのジェントルの背中も気がつけば、遥か先というものだ。

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