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思い込みと現実

少し前の記事なのだけど、読んだらぐっさり心に刺さってしまった。

心理学風に言えば「認知の歪み」、すなわち思考の癖のことだろう。自分の中の固定観念が自分の人生を形成する。これを「引き寄せ」と言うとたちまち胡散臭くなるが、人生が選択の連続であることを考えれば、自分の思考が選択を左右し、それによって人生が形成されることはごく当たり前のように思う。

当たり前のように思うことを、しかしながら当たり前のこととして「選択できるか」がまさに肝なのであるが。恐らくもっとも難しいのは、自分の抱えている固定観念が一体何なのか、と言うことに気づくことだろう。上記のエッセイがぐっさり刺さったのも、私自身がごく最近になって自分の中の固定観念に気づいたからである。

「対等なパートナーシップは存在しない」

口にするのも恐ろしいのだが、これが私の中にあった固定観念である。もちろん、自分がこんな思いを抱いていたことにはつゆほども気づいていなかった。

幼い頃から、割と目立つ子供だった。
気が強く、口が達者で、成績も割と良かった。必然的に田舎の学校では目立った。

恐らくすぐに想像できるだろうが、こういう人間は先生との関係も、クラスメイトとの関係も、両極端に振れる。気に入られる人にはものすごく気に入られ、嫌われる人にはものすごく嫌われる。おかげで割とドラマチックな出来事に事欠かず、学生生活を過ごしてきた。そういう人生なんだなぁと思っていたし、それでも自分は前に進めるはず、と信じてきた。この「私は特別」感がますます鼻についたのだろうなぁと今となっては理解できる。

8割近くの生徒が地元の公立高校にいく中学校から東京の私立高校に進み、「私は特別」感はますます進む。どうせなら大学も一番良いところに行こう、と大変安易に志望校を決めた。とにかく前に進むだけ!と思っている時に、母から思わぬ言葉をかけられた。

「お父さんがね、東大なんて行ったら結婚できないじゃないか、って言ってたよ」

私はものすごく傷ついたのだと思う。自分の努力が認められないことに。それどころか努力すると「女としての価値が下がる」と思われていることに。あまりに傷ついて、自分が傷ついたと認識することさえ難しかった。だからこそ、「遅れてるね」と言って笑い飛ばしたのだけれど、この言葉は私の心の奥底にずっと棘として残った。

その後、単純に私の努力不足で第一志望の大学には受からなかったが、滑り止めの大学に受かり、それなりに大学生活を謳歌した。留学を経て学部を卒業した後も、父の言葉に反するかのように大学院へ進み、さらに知識を積み続けた。傍目には、相変わらず、「気の強い、口の達者な、女研究者」に映ったろう。

当然、付き合う人間もそんな私をいいと思う人に限られる。気が強く、いわゆる「かわいい」女の子ではない私に惹かれるのだから当然だろう。そう思う一方で、なぜか関係の中で「上下関係」が見え隠れすることも多く、その度にがっかりすることも多かった。「ブルータス、お前もか」状態である。一見リベラルのような顔をして、結局「男を立てて欲しい」とか言うのか。そしてその度に、自分の中の固定観念がさらに固められていく。

「対等なパートナーシップなんて存在しない」
「対等なパートナーシップを望む男なんて存在しない」

自分の心の中にこんな固定観念があって、そしてだからこそ(一見分かりにくいけれども)心の中に家父長制を抱えている男性ばかり選んでしまう。諦めているからこそ、いざそういう男性が目の前に現れた時に拒否反応が出せないということだと思う。

Gender Gap Index:10位の国と116位の国

ご存知、ジェンダーギャップ指数。世界経済フォーラムが毎年出している指数で、2022年の日本は116位だった。大人になればなるほど、この数字が現実としてのしかかる。仲の良かった男友達に子供ができて、男の子だとわかると「女の子の方が良かったな。人生楽だし。」と言われて仰天したり、「もう妻のことは女として見れない」なんていうお決まりのセリフが出てきてひっくり返ったり。

子供を産んでから職場復帰した女友達の旦那さんは「仕事を辞めてもいいよ。」と言ってきた。それだけ聞くととても優しいが、彼の真意はこうだった。「それでも仕事を続けるのは君の意志なんだから、子育てに影響させないでね。」必然的に、子供のお迎えや、病気の時の連絡は彼女に行く。同じ会社で、同じ職種で採用されているのに。

こんな話は枚挙にいとまがない。それは20代の時には見えなかった世界だった。とりわけ私のように、なまじ「エリート街道」を進み、周りにも「リベラル『風』」の男性が多かった人間にとって、30を超えて見えてきた世界は、愕然とすると同時に、昔「よく見た世界」でもあった。



ある日、ドイツ人の男性とドイツ留学時の「おもしろ話」をあれこれ話している中で、ドイツにいる台湾人の留学生の話になった。

多くの台湾人留学生はドイツに留学すると、「ドイツ名」を使う。このドイツ名というのがとても面白くて、どうやって決めているのかというと、最初の語学の授業で先生に決められるらしい。どうやら中国語の本名に近い音の名前が採用されるらしいのだが、とても伝統的な名前が採用されることも多く、ドイツ人的にはかなり奇妙に映る。言うなれば、日本で外国人が「ひさえです」「ふさこです」のように名乗る感じとでも言えばいいのだろうか。

私にとってはこれはただの「笑い話」だったのだが、ふとそこで、台湾人の男友達は中国名を名乗っていたことを思い出した。それを言ってみると、対話相手のドイツ人はものすごく慎重に言葉を選んでこう答えた。「例えばそれは、女性の方が相手にとって『より発音しやすい』名前を選ぶ、つまりは優しさがある、あるいは優しくあるように社会的に要請されているということじゃないの?」

この話がジェンダーと結びつく話になりうると思っていなかった自分にも、そしてそれを男性に指摘されたことにも、二重の意味で驚いた。この話の真偽の程はわからないけれど、これがジェンダーギャップ指数10位の国の世界観か・・・と唸らされた。ジェンダーギャップ指数が高いということは、「差別がない」のではなくて、「差別がある」ことを前提に、常に自分自身がそれに陥っていないか問うことなのだと思う。

そして、私の中の固定観念にも少しひびが入った。より正確に言えば、この時に初めて、自分の中に固定観念があることに気づいたと言ってもよい。30年以上染み込んだ価値観を一気に変えるのは難しいけれども、徐々にでも、自分の世界を自分でハンドルしたい。だからこそ、あれ以来自分に言い聞かせている。「対等なパートナーシップは存在する」と。

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