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自愛(と自尊と自信と自己肯定)

強烈な恋に落ちて、初めて手に入れた感覚がある。

理由なく自分の中から湧き上がる感情。
もちろん相手を好きになったきっかけはあるし、言葉で説明しようと思えばできるのだが、「やさしくて」「頭の良い人」なんて他にもいくらでもいる。それでも彼でなければ、と思う理由はもはやなんら合理的でない。

ただ、なんとなく。

一緒にいると落ち着く。匂いが心地よい。触れたいと思う。

これが「恋」なのか、と衝撃でさえあった。
それまでの私は、「相手が自分にかけてくれる思い」「相手が自分に何をしてくれるか」で相手への気持ちを醸成させていた。恋とはそうやって始まるものだと思っていたし、相手に対する感謝の気持ちが「愛」なのだと思っていた。必然的に、相手が自分に興味がなくなれば、その恋愛は終わりを告げた。

今思うと、あれは「愛」ではなく「情」だったのだと思う。
情が悪いわけでもない。でも、自分の感情の発露を他人に委ねるというのは、限りなく「他人軸」な行為である。

「相手が自分を好きじゃないから好きじゃなくなる」気持ちを愛だと認識する人はおそらくいないだろう。愛とは、「自分軸」な行為なのだ。相手が何を思っているかは関係なく、ただ相手を愛おしく思う。役に立てれば嬉しいと思う。自分がかけた気持ちが返ってくるから嬉しいのではなくて、相手の喜びがそのまま自分の喜びに変わる。

愛は祈りに似ている。

自分の中から泉のように愛が湧き上がるのを感じた時、これまでにない充足感を感じた。自分にもこのような気持ちがあったのか、と深い満足を感じる一方で、一抹の違和感も感じていた。

他人に与える愛の感覚はようやく手に入れられた気がする。
が、果たして私はこれを自分に向けたことがあっただろうか?

「自愛」という言葉がある。
自尊感情や自信、自己肯定感などといった言葉とも密接な関係にある言葉だと思う。昨今とてもよく聞く言葉でもある。

文字通り自分を愛し、自分を尊重し、自分を信じ、自分を肯定することが大事だとしたら、私は少なくともこの感情を自分に向けたことはない、と認めざるを得なかった。本当の意味で、「自分を愛し、自分を尊重し、自分を信じ、自分を肯定」するとはどういうことだろうか?

どうやらうまくできていないことはわかった。
でも、どうやってやるのかがわからない。しばらくその状態が続いた。


引越しも、犬の介護も、親の病気も、あまり人には言わなかった。
言う必要性があると判断した数人の上司、仲の良い友人にだけは伝えていた。振られた彼とはその後も仕事のことなどで連絡をとっていたが、特にそのことは話さなかった。

なんだかんだでひと月に一度くらいは会う機会があり、社交的な会話を繰り返す中で、色々と辻褄が合わなくなり、引っ越したことなどを話した。

英語で誰かと会ったらHow are you?/ How've you been?/ How is it going?等と聞くように、ドイツ語にもそのような挨拶の仕方がある。私はこれをただの社交辞令だと思っているので、基本的にはgood!/ great!で通す。彼にも会うたびに調子を聞かれて、いつもいいよ!と言っていた。

実際には色々なことが起きていることを知った彼は、その後折に触れて「本当の調子」を聞いてくるようになった。私はそれに対し、そりゃ確かに最高じゃないけど、これは「私の問題」だし、私にしかどうにもできないんだから、話す必要性がないと思う、と答えた。

すると「それは君だけの問題じゃない」という答えが返ってきた。

「何を言ってるんだ」と私は思った。
これが私の問題でなくて何なんだ。
そしてどうしてよりにもよって振られた相手にこんなこと言われてるんだ。
大混乱、である。

彼は続けた。
「大事なのは、君の周りに『サポートシステム』を作ることだと思う。友人も、同僚でさえも、君の人生に責任を負っているんだよ。君だけの人生じゃない。周りにちゃんと話してほしい。」

混乱しながらも私はぽつりぽつりと自分の感情を語り始めた。
並行して、「私の問題」という態度はとても日本的だという話や(「迷惑をかけちゃいけない」的議論)、日本人の「信頼」指数の低さ(これをどう解釈するかはまた色々議論があるのだけど)、などにまで話は及んだ。毎日、恐ろしい量のテキストをやり取りしながら「私は何をやってるんだ」と思わないでもなかったけど、これで本当に「親友」になれたんだな、と嬉しくもあった。

この人は私を支えようとしてくれる、少なくともその気持ちに偽りはないのだ、と思えるようになった時、彼から爆弾発言が投下された。それが何かは本筋から外れるので書かないが、いわゆる「矛盾」「嘘」に起因する話で、私の信頼を打ち砕くには十分だった。

ここまで頑張って立て直したのに、せっかく信頼できると思えたのに、という思いは私の体にも表れ、私は発熱し、物を食べられないまでに落ち込んだ。落ち込みながらも、思考はぐるぐる巡っていた。

これもまた、「私の問題」だけではないのなら、気持ちを彼に言ってもいいのではないか?それをどう受け止めるか、どう対応するかはもはや彼の選択だけど、私は私で、これ以上は受け止められない、という一線を引こう。
そう決めて、思いの丈をぶつけた。

事実を並べ、相手の「矛盾」を指摘し、あなたは不誠実だったと思う。私はとても傷ついた、とメッセージを送った。

これだけで、きっと多くの男性は逃げるだろうな、というような内容だ。返事が来るかはもはや賭けだったが、来なかったら「友人」もやめようと決めていた。

結果として、彼からは長い長い謝罪のメールが届いた。
私を傷つけたくなくて、しなかった話があったこと。その時はそれが正しい選択だと思っていたけれども、間違いだったとわかったと書かれていた。
それはとても誠実な謝罪だった。

そこからまた更に我々は怒涛のメッセージを交わすことになるのだが、すでに私の心はものすごく凪いでいた。

それは、彼が謝ってくれたからだけではない。正確に言えば彼の謝罪の中にはまだ突っ込みどころが満載で、私はそれも指摘し続けた。(つくづく、私はしつこいし細かい。)

それでも心に充足感があったのは、自分で自分の心を守れている、と言う実感があったからだ。

「裏切られた」と思う時、人は同時に自分を責める。
「どうしてこんな人間を選んだのか」「自分の側に問題があるんじゃないか」「こんな選択をしなければよかった」後悔はすぐに、自責に変わる。
だから後悔したくなくて、すぐに「学び」に変換してしまう癖が、私にはある。そして、相手には何も言わずにその場から離れる、ということを繰り返してきた。相手に学びの機会を与えてなるものか、という思いが私なりの復讐だったのだと思う。

今なら、これが相手のことはおろか、自分のことも信頼していない態度なのがわかる。失敗する自分を許せていないから、すぐに「学び」に転換しようとする。傷ついた自分を認めたくないから、そのことを誰にも言わない。

私は、もちろん失敗するし、間違うこともある。そこからすぐに何かを学ばなくてもいい。傷ついていいし、後悔していい。でもそれ以上は許さない、というラインを示していい。

彼とのやりとりを重ねながら、私は「自分の心を守れたこと」に心から満足していた。自分の軸で、自分の好き嫌いで、私は私の世界を作っていける。


「結局、全てにおいて「自分軸」が大事だと思うんだよね。
相手から特定の何かがほしいから行動するんじゃなくて、自分の欲求に従って行動することが大事なんだと思う。」

そんな話を、少し前に友人としていた。
友人は私の言葉を聞いて、わかるよーと言った。

「日本では自分軸に従って行動すると、わがままだと捉えられることがある。一方で美徳とされているのが「謙虚」だけど、それってまんま他人に委ねる行為だよね。だって、「謙虚」ってそれを「謙虚」だと判断する人がいないと成り立たないもんね。」

私の友人は最高だ。
どうしてあなたはいつもそうやってなんでもわかっているの!と、数ヶ月前の何もわかっていなかった自分を振り返って思う。

でもそれもいいのだ。不完全な自分を愛し、受け入れ、信じる。
幸せなことに、私の周りには、私を「支えてくれる」友人がいる。
自分も、相手も、正しく「自分軸」で愛していきたいと思う。


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