グローバルとは

こんにちは。

現在圧力団体にまつわる英語論文が全く理解できなくて苦しんでいます、笑

前回長くなりすぎて本題に入れなかったので早速本題に入りますが、今回はグローバルとは何かと言うことについて私見を述べたいと思います。


それを考えるきっかけになったのは実はアメリカ留学ではなく最近日本での差別を目にしたことにあります。とある韓国人アイドルが日本の芸能事務所とご縁があり日本をベースに活動しようと試みたのですが、韓国人という理由だけで差別を受け結果的に日本を離れざるを得なくなったというとても残念な出来事です。

その方はその出来事があってからSNSなどを何も更新せずこれからどうやって生きていくのかわかりません。芸能界に残るのか引退するのかも、そもそも今元気なのかもわかりません。おそらくひどく傷ついたと思います。日本の文化に好意を持ち大学時代も日本語を専攻していたという彼ですが今は日本のことが嫌いでも仕方ないですよね。

韓国人の人間性を否定する人、国に帰れと暴言を吐く人、そして国籍から始まったアンチ活動は人間性、容姿までの批判につながりました。人間性に関する信憑性のないデマもたくさん流れ、デマを否定しようとするファンは盲目として叩かれました。もちろん、全てがデマとは言い切れないですがファンではない私でもそれはおかしいと思うことばかりでした。


でも、それはどうでもいいんです。


もちろん当事者やその方のファンにとっては大きな出来事ですし、平和だと言われてる日本でここまであからさまな差別を目にしたのは初めてでしたので私にとってもショックでした。しかし、これは100%差別をする側、誹謗中傷する側が悪いのであって議論の余地はありません。また、反韓と言われる方に何を言っても無駄でしょう。物事を一面からしか見られないとても視野の狭い方々ですので。


私が引っかかったのはファンの主張です。

彼が日本にきた当初、もともとKpopが好きだから韓国人の彼のことを好きにならざるを得なかったというファンの方を多く見かけたんです。思い返してみれば、韓国人と付き合いたいという友達も多くいます。特に深い意味はないと思いますが。韓国人に限らず白人と付き合いたいという友達も多くいますね。

それは差別にはならないのでしょうか。私は例えポジティブな感情であっても国籍で区別することは差別になると思います。

私は必要な区別は必要だと思いますし、例えば男女に関しては肉体的に得手不得手があるためある程度の区別は必要だと思っています。私自身は女性ですが全て男性と同じ扱いを受けたいとは思っていません。もちろん私も重いものを運んだりすることはできないので。

しかし、国籍による区別は必要ではないと思います。文化による区別はした方がある程度は楽ですが、国籍は人種と同じで本当に表面的な部分でありただの属性でしかありません。

好きになるきっかけは人間性でもアイドルであればパフォーマンスでも自由ですが国籍だけは違うと思います。全くその人個人のことが見えておらず表面的な属性で判断していますよね。それであれば、その人である必要は全くないしその人のことを全く評価していないことになります。ビジュアルが好きという方が表面的ではありますがその人個人のことを見ているので全然ましではないでしょうか。



そのようなことを考えているときに彼が日本を去ることを発表しました。その際もファンの方たちは日本の芸能界がグローバル化していくにあたって”韓国人である彼”は必要だったのに惜しいことをしたと主張します。

彼女たちはなんで国籍で差別するんだひどいじゃないかと言っていましたが、私にはアンチもファンも同じように見えました。韓国人"だから"必要という主張は国籍による区別以外の何者でもありません。正直、差別をするなと言っている人たちが進んで差別をしているのは滑稽でした。

(もちろんマーケティング的な視点から見れば、韓国人である彼を売ることで日本が韓国の市場に進出することは容易になるかもしれません。それに関しては彼女たちの主張はそこまで考えていないと判断したので割愛します。)


そこでグローバルとは何かという問題に直面します。


多様な国籍の人を取り入れることでしょうか。多様な言語が話されることでしょうか。私はそう思いません。もしその定義を取り入れるとすると、グローバル化のためには〇〇人枠というものが必然的に生まれてくるでしょう。今話題の聖マリアンヌ大学の得点調整を思い浮かべてください。女性の人数を減らすために得点調整が行われたという話です。逆に考えると、女性より優秀でない男性が男性枠で多く入学していることになります。違和感を覚えますよね。多様な国籍を取り入れようとすることは例えポジティブな意味であってもそれと同じではないでしょうか。

私はグローバルとは「国籍による壁がない状態」だと思います。ポジティブな意味でもネガティブな意味でも”〇〇人だから”という偏見や前提意識がない状態、皆同じ人間そして一人の個人として扱われる状態だと思います。何かをしようと思った際に周りから自分の国籍が何も意識されない状態、誰も相手の出生国を気にしないという状態がグローバルというのだと思います。

(綺麗事ですが、そのような思想に基づくとアファーマティブアクションは極めておかしな運動ということになります。)


ポジティブな意味での差別をしている方々は自分たちに差別をしている意識はありません。

思い返してみてください。白人のボーイフレンドが欲しいと思ったことがある方は少なくないでしょう。逆に、外国人にアニメが好きだからという理由で日本人である自分にまとわりつかれた経験もある人も多いと思います。正直迷惑ですよね。日本人が全員アニメが好きなわけではないし、日本人としてしか見られておらず私のことを何も見てくれていないなという気持ちになりますね。

でもこれらは全て好意なんです。差別は自分から遠い話だと思っているでしょう。だからこそ気づかないし、むしろ自分は相手のカルチャーに敬意を払えていると思っているかもしれません。文化に敬意を払うことと国籍で決めつけるのは別物なのですが。(そもそも一国に一文化ではないですからね。)

だからこそ厄介で、私があからさまな差別主義者に対してよりも問題意識を持っている理由です。大半の人が意識せずにこの差別は行ってしまっていると思いますし、実際私も無意識にやってしまったこともあります。しかし、無意識だからこそ意識されればなくなると思っています。だからこそ、この場で問題提起をしてみました。


長くなりましたが、皆さんの考えるきっかけとなれば嬉しいです。お付き合いいただきありがとうございました。

(予想外に見ていただいているようなので調子に乗って語り口調で書いてしまいました笑)

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